第八章 師弟

 自室のベッドの上でサウは目を覚ました。少しでも動かすと全身がきしむように痛んだが、激痛という訳でもないので三日もすれば歩けると冷静に考えていた。

 ベッドには自分と同じ色の長い髪が、突っ伏している。

 昔からこの姉は、気が強すぎて、おてんばが過ぎて、頭の回転が速すぎる。サウの心配をよそに、気が向いた方向へ思いっきり進んでみてから、急に不安そうな顔をしてサウを振り返る。

 禁忌の「あれ」に手を出した時もそうだった。怖くなってから、真夜中に何度も、そっとサウの部屋へ転がり込んできた。

 失神する程クパピルハールツムビでやられたのはいつ以来だろうか。サミに、無駄な心配をかけただろうか。

 サミを守ってやりたいと思っても、サミの方が先に走り出してしまうので叶わない。だからいつも、幼い頃からずっと、サミの後ろを追いかけて、無防備な背中を支えてやることしかできない。

 心配させたね、などと言って髪を撫でてやるのは自分たち姉弟には似合わないと思ったので、そっと、つん、っと髪を引っ張ってやった。

 サミは細く目を開けて、少しサウを睨んだが、唇を噛んで顔を布団に埋めた。

「サウ、ごめんなさい」

「……俺が迂闊だったんだよ」

 サミは顔を見せずに頭を振った。

「変だって気づいてたのに、私、サウに言わなかった」

「確信がなかったのだろう」

「うん。どうして変なのか、わからなかった」

「俺が戦ってる間に、わかった?」

「……ごめん、わからないの」

 サウは、サミとクリノが対峙した試合の最初から振り返る。

「サミの最初の三発はもう弱まってた?」

「うん」

「どのくらい」

「半分くらい。何度もあの試合思い返したけれど、理由がわからないの」

「俺もわからない。下等霊が力を貸していたのはわかったけれど、こっちの魔法が弱体化されてたのが、いつ、どうやってなのか。

 それにたった三ヶ月でグノムスやユニコの幻影を操れるようになるなんて」

「下等霊だってあの異国人が使役しているものではなかったでしょう。どうして……」

 サミがふと口をつぐむ。

 壁の一部が消えて、アミが入ってきた。

「痛みはどう?」

「大丈夫です」

「それにしても、こっぴどくやられましたね」

 そう言いながらも母の表情は明るかった。

 サウは驚いて聞き返す。

「母上。観に、いらしていたのですか?」

 アミはマロウの試合は欠かさず見に行っていたが、サウとサミの試合には久しく来ていなかった。兄とは違う二人の戦い方が好きではないのだと、二人ともわかっていた。

 兄は公明正大で、明るく、正義感が強かった。サウはそんな兄が大好きで、そして疎ましかった。

「久しぶりに行ってみたらまあ、水魔法の名手サヘリアの我が娘が濡れ鼠のようになって、我が息子は会場の端まで吹き飛ばされて」

 こんなことを言ってもまるで嫌味がない。兄は、この屈託のない母に似た。

「しばらくこの家で預かったあの少年を闇魔法で呪ってやろうかと」

「母様?」

 サミが目を丸くする。

「嘘ですよ」

 そう言って、母はふふふ、と笑った。

「サミ」

「……はい」

「あなたは、たった一人でチームを決勝まで導いた。とても、とても立派でした」

 サミは再び、目を丸くした。

「サウ」

「はい」

「サミの敵をとろうと思ったのね。いつのまにかに、サヘリア唯一の頼もしい男になりましたね」

 母が、自分たちを褒めている。いつぶりのことだろう。

「マロウと父上に見せたかったわ。あなたたち二人を、私と同じように誇りに思ったでしょう」

 サウは、今この場に兄がいないことを初めて寂しく思った。

 サミが泣いている。嘘泣きではないサミの涙を、サウは久しぶりに見た。



 同じ頃、ヴァレリアンの医務室でクリノが目を覚ました。

 目を覚ますと同時に、床の上から黒猫がするりとベッドに飛び乗ってきて、クリノの枕元にすました顔で座った。

 その瞬間に、医師と看護師、そしてその場にいた料理長は哀れむような表情を浮かべた。料理長が言った。

「クリノ、しっかりつかまっているんだぞ。振り落とされるなよ!」

 その言葉が終わらないうちにベッドの脚が、にょきりと猫足に変わり、ものすごい勢いで駆けだした。廊下を、階段を、時にはぶつかった候補生をはね飛ばし、猛スピードで猫足ベッドは走った。クリノは角を曲がる度に危うく振り落とされそうになり、必死でベッドのパイプにしがみついていた。

 黒猫は平然と座ったまま進行方向進を見ている。

 どこをどう走ったのか施設内について詳しいクリノにもわからなくなった頃、どこかの部屋の扉が開き急に止まったベッドから放り出されて部屋の中に転がり込むと、後ろでバタンと扉が閉まった。

 床に這いつくばっているクリノを尻目に、黒猫は窓際の机の上に飛び乗った。

 その机には昨晩図書館で出会った男が非常に不機嫌な顔をして座っており、クリノを見ていた。

「クレイユノ・トマ・エーレイ、君にはがっかりさせられたよ」

「……あなたの教えの通り、努力したのですけれど」

「私がいつクパピルハールツムビで勝てと教えた」

「ええと、勝とうとしたつもりはありません」

「武術館に水を張るために職員が使役している精霊を総動員し、大地からグノムス、風からユニコを放っておきながら、勝とうとした覚えがないと? 一体何のためにカティスリー・ヒルと君を交代させたと思っているのだ」

「……もしかしたら、あなたはこのヴァレリアンの、施設長ですか?」

「あの大会で我がヴァレリアンが勝たぬよう君に交代させたというのに。第一君はサヘリア家で世話になっていたのだろう、そこの令嬢をずぶ濡れにし、子息を壁にぶち当てる、随分な恩返しだな」

「あ、そうだった。サウは大丈夫でしたか?」

「知らんよ。君にクパピルハールツムビ禁止令が出ていないということは生きているのだろう。プライドは粉砕されているだろうがな」

 どうやら自分はやり過ぎたらしい。しかし男が怒っているので、本当に勝とうとしたのではなく自分自身を守るので必死だったこと、ギンビのささやきを聞いたことや、グノムス、ユニコのハクビとも面識があるとは言い出せない。

 ただ、しつこいようだが、この少年は好奇心が強い。

「あの、グノムスって、何なのですか?」

「大地の霊だ」

「それは、何となく知っているのですが、どんな姿のものなのですか?」

「知らずに、呼び出したのか?」

「……知らないんじゃないかなぁ……と、思います」

 男は深いため息をついた。その隣で黒猫がいらつくようにしっぽで机をぱたりぱたりと何度も打っている。

「グノムスは大地の霊だが、人がその姿を見ることができるとしたら、その姿は蟻だ。多くの場合は羽蟻で地中だけではなく空を自由に飛ぶ。

 霊の群れ全体を、一匹を、霊の中心である女王蟻を、全てグノムスと呼ぶ」

 だとすると、クリノが森で見た玉石から飛び出してきた黒い何か、あれがグノムスの群れで、女王だったのだろうか。

「そのようなことすら知らない君が、あの大会の大将戦で勝ったことで、私は就任して以来の面倒ごとを抱えている」

「どのような面倒ごとかは存じませんが、僕のせいではないように思います」

 決してクリノはこの男に反発した訳ではない。素直さから思った通りのことをカラリと言ったまで。

 だが男の眉間の皺が深くなる。

「……ほう、慇懃にでかい口を叩く。君には正しい慇懃さをまずは教えなくてはならないのか。

 君は既にここの候補生なのだから黙って私の話を聞け」

「……はい」

 しおらしく返事をしながらも、昨晩と同じようにまた何か謎が解けるような気配を感じて、クリノは内心ほくそ笑んだ。

「クパピルハールツムビは、この国では子供の頃から誰もが行う遊びだ。だから私は君に対して『じゃんけん』と言った。

 しかし鍛練を重ねた者が行う場合、武道だ。

 武道ならまだいい。ルールが有り、相手を尊重せねばならないからな。しかしサミ・サヘリア、サウ・サヘリア、我が施設のカティスリー・ヒル、そして彼の代わりに勝利した君が、ルールもなしにあの時のような攻撃を重ねたらどうなる。

 どちらかが死ぬだろう。

 そしてルールなしに技を存分に繰り出せる場所がある。戦場だ。

 魔術で大量殺人を行う軍事国家にしてみれば合法の場だ。だからクパピルハールツムビ大会にはいつも、若い戦力を求めて軍のスカウトが来ている。

 今、この国では軍に入るのは栄誉あることとなっている。貴族も平民も多くの若者がそれを望み、遠い地方からもヴァレリアンやロジェスティのように高等な魔術を軍事教育として施す場へとやってくる。特にヴァレリアンのように幼年科からの寮も備えた歴史ある施設は軍への入口として親たちからも支持されている」

 男は一度言葉を切って、窓の外を見た。

 校舎からは丁度、幼年科の授業が終わったらしく、黄色い笑い声とともにわらわらと大きめの軍服を着せられた子供たちが出てきた所だった。

「施設長は軍事的左派なのですか?」

 男と猫は同時にクリノをはっと見る。そして同時に溜息と、長い瞬きをした。

「危ういな、君は……教育は軍人製造システムではない、と思っているがね。

 試合について聞きたいことがある。他人の水霊をどうやって使った?」

「水霊って、太った魚ですか?」

 男はうなずく。

「わかりません。ギンビのお父さんに似ているかもしれませんが……使った、という覚えはありません」

「ギンビ?」

「はい、サヘリア家の庭にいたオタマジャクシです。その親の魚に似ています」

 クリノはサヘリアの庭での出来事と、黒牙森へ行った時のこと、試合中にささやき声が聞こえたことを話した。ただ、ハクビに言われた通り「ラナイ」という名前については黙っていた。

 男は眉間に深い皺を寄せながらも、最後まで黙ってクリノの話を聞いた。

「……クレイユノ、今の話は他には誰が知っている?」

「誰も知りません。あまりこういったことを話す機会がありませんでした」

 そう言ってから、ふと、クリノは自分には人間の友が少ないと自覚した。

 男はしばらく何かを考え込んで黙っていたが、やがて重い声で言った。

「師として命じる。今の話、誰にも、決して他言してはならない」

 黒猫がじっと、クリノではなく男を見ている。それはどこか不満げで、同時に不安げであった。

 クリノは師という言葉に驚いたが、それ以上に男から張りつめた何かを感じた。それは、ファルティノ司祭が自分に逃げろと告げた時を思い起こさせた。

 警鐘のようにクリノの中で何かが響く。

 理由を聞かねば同じ思いを重ねてしまう。わからないままに、指図だけを受けていては、いけないと思う。わからないことはたずねなくてはならないと思う。

「なぜ、話してはいけないのでしょうか」

「君はこの国の政治制度を知っているか?」

「議会制度、ですよね」

 男は先程よりも更に丁寧に、ゆっくり話した。

「表向きはな。だが、商議会、農議会、貴族議会そして軍議会で議決されることは、論議される前から、残りのたった一つの議会によって決められている」

「残りの一つは、大四司議会ですよね……でも、大四司議会と、光暁の賢者、闇夜の賢者は……」

「この国のシンボルのようなもの、と、誰かから聞いたか」

「はい。サヘリア家のアミ様にこの国について教えていただきました」

「この国の政治と、君の立場と、魔術界について説明する。座りたまえ」

 男に促されてクリノは来客用のソファに座った。男はクリノの向かいに座った。

「サヘリア夫人の言った通りだ。何事もなければ大四司議会と二人の賢者が動くことはない。彼らは国内で最も魔術に長けた六人である、ただそれだけだ。

 しかし、この国に限られたことではないが、民が知らない、国のほんの一部の人間だけが密かに抱える国の大事が存在する。

 そして今、この国が抱えている大事に、君は関わってしまっている。

 魔術界は、千年に一度転換期を迎えるが、今年がちょうどその転換期の年に当たる。転換期には様々な変化が世の中に起き、全てが好転して次の良き千年を迎えるとされている。この国が今、好戦的になり、人々が他国への侵略を楽しげに進めようとしているのもそのせいだ。

 だが、全てが好転するなどの都合の良い転換があるものか。何かが変わる時、何かが犠牲になる。転換が大きければ大きい程、その犠牲は大きくなる。

 転換がどのような犠牲をもたらすかわからないままそれを民に知らせては、混乱と恐怖だけに人々は支配されてしまう。だから、犠牲については伏せられているのだ。

 多くの人々に伏せられたまま、一部の人間はその犠牲を最小限に抑えようと動いている。大四司と二人の賢者の魔力をできる限り高め、どのような事態にも立ち向かえるように。

 魔力を高めるには、自らの鍛錬の他に、自分以外のものの力を利用する方法がある。そのうちの一つが、精霊の使役だ。精霊にはあらゆる種類がいるが、四元素には最高位の精霊がいる。それが、風のユニコ、水のゴリニチ、大地のグノムス、火のカルヤンだ。今現在確保できているのは火のカルヤンのみ。風、水、土の三司が残りを捕えようと全力を尽くしている。

 さて、君が政治に関わってしまった理由がわかったか。さっきの黒牙森の話を三司が聞いたら、君を八つ裂きにすると言い出しかねない」

 うなずくしかなかった。しかし、すんなりと受入れられないこともある。

「偉い方々が災いを防ごうとしているのに、その邪魔をしてしまったのは理解しました。でも、わからないことがあります」

「言ってみたまえ」

「使役する、というのは、どういうことなのでしょうか」

「精霊を従わせ、その魔力を使うということだ」

「精霊が魔術師に従いたくない時は、どうするのですか」

「魔術師の魔力が上回っていれば、捕えて従わせることができる」

「傷つけてでも?」

 男はうなずいた。

 サヘリア家の庭園の魚は力を使い倒されて情けない姿になったと嘆いていた。ハクビは足に矢尻が刺さって腐って死ぬのだと言っていた。グノムスは小さな玉石に閉じ込められていた。

「クレイユノ。クレイユノ!」

 男に呼ばれてはっとした。

「精霊に同情してはいけない。奴らは人間とは違う。物事の価値観、考え方、感情、生き方、全てにおいて人間とは相容れない。

 今後、ささやきを聞くようなことがあったらすぐに私に知らせるように。声に対しては、思念を遮断し、それでもやまない時は一切を否定しろ」

「……なぜ、ですか。捕えるためですか」

 男は首を振った。

「捕えることは、三司が自ら行うだろう。君は自分から強い精霊に近寄ってはいけない」

「なぜ……」

「強い精霊に魅入られた者は、長くは生きられない。魂を呼ばれてしまうからだ」

 男が親身になって忠告してくれているのはわかった。しかし、嬉しそうに尾を振る小さなオタマジャクシや、鼻息の温かい子馬が、土壁で守ってくれた蟻が、自分に死をもたらすとは思えなかった。

「クレイユノ、ぼんやりしている暇はないぞ。さっきも言ったように私は就任以来、最も意にそぐわない面倒な事態に置かれている。君のせいでな」

 男は一枚の紙を取出し読み上げた。

「クレイユノ・トマ・エーレイ、カティスリー・ヒルの二名に、秋の特待編入を許可する。

 おめでとう、秋から君は軍人だ。今この国で最も人気の職に好待遇で就くのだ、まったく、喜ばしいだろう」

 クリノはぽかんとするしかなかった。

「許可する、といってもこれはラピナ国軍の命令だ。選択肢はない。ただし、今の君をそのまま戦場へ送り出す訳にいかない。即死しに行くようなものだ。今日から私が個別に訓練を行う。今から言う教本を全て用意しろ」

 男は一気につらつらと三十冊ほどの本の名前を言い出した。

 図書館に着いた時に何冊覚えていられるかわからないとクリノは慌てて部屋から出て行こうとした時、男が呼び止めた。

「クレイユノ、父親の名を、本当に知らないのか」

「はい。教えてもらえませんでした。知らないほうがいいと」

「トラピスタリア人ではなく、ラピナ人であった、という可能性は?」

「わかりません、本当に何も教えてもらえませんでしたから。でも、ラピナの人ってトラピスタリアに来られるのですか?」

 男はそれを聞いて手振りで行けと示したので、クリノは走り出した。

 扉が閉まると、黒猫がふっと息をついて言葉を発した。

「セルゲイ様、あの者をただの候補生ではなく弟子にするのは危険です。出生の不明瞭さに、急な覚醒。『使』である可能性が高いのでは」

 男は窓の外を見たまま、言った。

「懐かしい友によく似た目をして、よく似た危うさを抱えた子供を放っておけんよ」

「トリエル・ティ・ラナイに似ているなら、尚のこと危険です」

「……だからこそ、手元に置いておく必要がある」

 黒猫はぱたりぱたりと、しっぽを机に打ち付けていた。そのしっぽは、猫の尻から二本生えていた。


 その日からヴァレリアンの図書館の使用方法が変わった。

 本の貸し出しは今まで通り。ただし、図書館内で閲覧する者はいなくなった。皆、クリノが受けている特別訓練を見学するようになったのである。

 最初、回りをはばからずに声を上げ、クリノに使う教本を集めさせる男に、高等科の候補生が物申した。

「ここは図書館ですよ、そんな声を出してはみんなの迷惑です」

 男は言った。

「私は施設長のシュワルツニコフだ。私の図書館の使い方に文句があるなら施設事務課へ行きたまえ」

 施設長が初めて姿を現した、それも闇夜の賢者、セルゲイ・キヴィ・シュワルツニコフであると、ヴァレリアンは一時騒然となった。

 セルゲイはお構いなしに特別訓練を始めていた。まずは幼年科以前の、物を浮かせる、手元に呼び寄せる、その基本から始まる。

 一冊の本をクリノに渡し、その感触、重さ、見た目をしっかりと確かめさせてから、少し離れた机の上に置く。

「これを呼び寄せるんだ、心に強く念じろ。手元にあることをイメージして」

 本はカタカタと動くものの、クリノの手元まではやってこない。

 取り巻いて見ていた候補生たちから笑いが起きる。

 セルゲイはよく通る声で言った。

「クレイユノ、君を眺めて笑っている凡人たちがこの施設で十二年かけて学ぶことを、君は五ヶ月弱で身につけようとしている。外国の出生にもかかわらず、秋から軍人として戦場へ行くためだ。私は屍を量産するために施設長に就任した訳ではない。凡人共に先だっての試合で勝利した力を思い知らせてやれ」

 候補生たちは、しんとして、黙ってクリノを見守るようになった。

 しかし、何度繰り返し念じても本を手元に呼び寄せることができない。

「『ベダリウ鉱石の発見と歴史』、君はこの本に興味がないのか」

「うーん、読んでみないとわかりません」

「君がこれを読み終わるまで待つ暇はない」

 セルゲイは自分がブローチにしたアウスグスの羽をクリノから取り上げると、本のかわりに机に置いた。

「三秒以内にこれを呼び寄せないと、火をつける」

 セルゲイの手の中には既に炎が起きている。

「三、二……一」

 セルゲイが炎を放った瞬間に、ブローチは勢いよくクリノの手の中へと飛び込んだ。

「できるじゃないか」

 羽の持ち主もクリノが名付けたとはいえセルゲイという名であったとは言い出す暇がなかった。

「次はこの本だ、本を呼び寄せなければ手の中のブローチを燃やすぞ。よく念じろ、本は何でできている」

「紙です」

「紙は何から造る」

「木とか草……」

「草木は何によって育つ」

「雨が降って、土が豊かで、陽に当って……」

「雨雲は何が運んでくる」

「風です」

「この本を、手元に呼べ!」

 全ては、四元素につながっている。それを理解した時、本はクリノの手元へと、ゆるやかに流れるように宙を飛んできた。

 物事の見た目ではなくその本質を理解しろと、繰り返し手を変え品を変え、セルゲイはクリノに教え込む。

 セルゲイの授業はスパルタだった。だがクリノは食らいついていった。

 本当に自分が戦争に行くのかどうかはまだ実感がない。しかし、セルゲイの言葉は常に明確で、学びに理由が伴っていた。

 物を浮かせる、呼び寄せるのは、戦場で武器を素早く手にするため。

 風を大きく強く遠くまで放つのは、弓矢の方向を変えるため。

 水魔法の後、瞬時に風魔法を打って冷却し、氷の盾を造る練習は物理攻撃に備えるため。

 宣誓のないクパピルハールツムビで、敵の攻撃を読む訓練は、魔術師の敵との接近戦を想定して。

 訓練は朝から晩まで続いた。戦場で必要な実践だけを徹底的にたたき込むセルゲイの教えを聴講する候補生が、次第に増えていった。

 時にはカティスリー・ヒルや、入軍が決まった候補生も来るようになった。だが、セルゲイは一貫してクリノ以外の候補生に直接指導することはなかった。

 忙しくなったのは料理長である。クリノの授業には、膨大な数の爪楊枝が必要になったからだ。料理長は本職の料理よりも、爪楊枝を用意するのに労を費やした。

「施設長代理、クリノに合う杖を探してやってくださいよ、爪楊枝を戦場に持って行かせるのは酷です」

 シュワルツニコフ施設長はその姿を現したが、施設長としての勤めは一切代理に任せたままだった。そして施設長代理の無表情には、不機嫌さが加わっていた。

「あなたは黙って爪楊枝を集めていなさい」

 セルゲイはその立場を使って多くの杖職人に相談し、取り寄せ、あらゆる職人の、あらゆる杖をクリノに使わせてみた。金属、貴石、人工貴石、様々な動物の骨、まじないをかけて育てられた植物。しかしどれもクリノが火魔法を使おうと振った瞬間に全てパラリと粉々に砕けた。ちろちろと、弱々しくとも炎が上がるのは、料理長の用意した爪楊枝だけだったのだ。

 ある日、訓練が終わり、クリノが倒れ込むようにして寝てしまった後で、セルゲイはサヘリア家に向かった。

 アミはヴァレリアンでの屈辱を覚えていたが、闇夜の賢者であるセルゲイが丁重にその理由を改めて説明し、また、今クリノが抱えている問題のために力を貸して欲しいと頼むと、事情を理解して協力を示した。

「しかし、私に何ができるでしょうか。当家は水魔法を得意としますが、皆、火魔法も普通に使います。クリノが火魔法を苦手とする理由に思い当たることがありませんし……杖も、水魔法に強い職人しか思い当たりません」

「彼に魔術を教えていて、私が日々感じているのは感受性と探求心の強さです。理由なく物を破壊し傷つけることを嫌い、その魔術を身につける理由がわからないままだと習得できないこともあります」

「……それは、理由がわからないまま殺されかけて祖国を追われ、彼自身が傷ついたからでしょう」

「私もそう思います」

「……そちらにクリノをお願いしておきながら、私がこのようなことを言ってはいけないのかもしれませんが……クリノは、軍人に向いていないのではないでしょうか」

「ええ。向いていないと私は確信しております。彼は理由もなく敵兵を殺すことに迷いを感じるはずです。それに、新兵が向かうのは、おそらくウルファ平原です」

 ウルファ平原では、二百年の間、クリノの祖国トラピスタリアとの戦争が続いている。

「では、なぜあなたはクリノを弟子にしてまで魔術を教えておられるのでしょう」

「軍の命には私も彼も逆らえません。今できるのは、彼が戦場ですぐに死んでしまわぬよう、魔術で武装させてやることです」

「……爪楊枝では、あまりにかわいそうですね」

「爪楊枝で魔術が上手く発動しているのは、爪楊枝を用意しているのが、彼と関わりのある料理長だからかもしれないと考えました。そこで、彼に関わりのあったあなたに、彼がここでどのように過ごしたかを伺いたいのです」

「……あの子、アウスグスの羽を大切にしていると思います」

「ええ、大事そうにいつも身につけています。亡くなった御子息に力を貸した精霊だったと、軍の関係者に聞きました」

 アミは、ふふ、と笑った。

「失礼しました。実はそのアウスグスに、あの子はセルゲイという名をつけていました。大切な友達だと言って、その死を深く悲しんで。この国では珍しいお名前です。あの子の師となったあなたと同じ名であったのは偶然でしょうか。運命の悪戯でしょうか」

 黒鳥アウスグスのセルゲイの墓が庭にあると聞いて、師セルゲイはアミに案内を頼んだ。

 月夜の庭園で、リンゴの木が緑の葉を茂らせ、風にそよいでいる。小川のせせらぎがここでクリノがどのように日々を過ごしたか、語りたがっているようだった。

 ならばせせらぎの意の力を借りようと、師セルゲイはアウスグスのセルゲイの墓に手を当てる。もう片方の手で宙にゆっくりと弧を描くと、雪降る墓の上で、赤く灯った炎のまじないに囲まれてうたた寝をしているクリノの姿がぼんやりと浮かんだ。師セルゲイが更に弧を描くと、クリノが黒鳥の亡骸を抱いて泣く姿が浮かぶ。

 次に見えたのは、血反吐を振りまきながら羽ばたく、巨大な瀕死の黒い怪物であった。鳥のような姿であるが、その足にはしっかりとクリノをつかんでいる。怪物はまさに死にもの狂いで羽ばたき、時折力尽きるかのように落下しながら、また体制を整え、何度も、何度も、クリノをその足につかんでいることを確認しながら飛び続ける。

 アミは、目をそらした。

 セルゲイはアミに構わず弧を描く。

 次は森の中だった。黒鳥はクリノの肩に止まりアッアーっと大きく啼く。クリノも真似をしてアッアーと声を上げては笑う。

 次に見えたのは血を流して地に落ちてもがく黒鳥であった。遠くからクリノが近づくと、黒鳥は枯れた叫び声を上げてクリノを威嚇する。威嚇されるとクリノはゆっくりとじっと目を閉じて小さくうずくまる。しばらくして、またそっと黒鳥に近づく。黒鳥は威嚇する、クリノはうずくまる。何度かそれを繰り返し、やがてクリノはその腕に黒鳥を抱いて連れ去った。

 セルゲイは立ち上がり、墓とリンゴの木を見比べて少し考え込んでいた。

 アミが声をかける。

「あの、アウスグスの羽や骨は杖の材料にすることがあると……」

「ええ」

「でも、それは……」

 師セルゲイはうなずいてアミに言った。

「ご心配には及びません。そのようなこと私の弟子は望まないでしょう。一つ、お願いがあるのですが」

 そのセルゲイの頼みを、アミは快く承諾した。

 セルゲイはもう一度、小川のせせらぎに耳を傾ける。そして静かに、確信したようにアミに聞いた

「もう一つ伺いたい。ただ、お答えになりたくなければ結構です。

 この庭園を、トリエル・ティ・ラナイが訪れたことはありませんでしたか?」

 アミの表情がこわばった。ややして、アミは答えた。

「あなたには、隠し立てしても仕方がありませんね。闇夜の賢者、セルゲイ・キヴィ・シュワルツニコフ。

 ええ、確かに、トリエル・ティ・ラナイはこの庭園を訪れました。二十年程前です」

 それきり、二人は月の光の下でしばらく黙り込んでいた。


 火魔法以外の魔術をある程度使えるようになったクリノは、時折、師を質問攻めにする。

「施設長」

「他の候補生とお前は違う。師と呼びたまえ」

「はい、師匠。精霊と、そうではない動物や物質との違いは何ですか?」

「魔力が強いかどうかだ。人間以外のもので魔力が強いものを精霊と呼ぶ。お前の祖国の人間は魔力が弱い。お前は同じ人間でも魔力が強く、魔術師だ。それと同じことだ」

「そうすると魔術師と精霊の違いは、人間かどうかですか?」

「そうだ」

「人間だけ、特別な感じがします」

「当たり前だろう。人間は他の生物と全く違う社会を営む高等生命体だ」

「高等ですか……本当に高等でしょうか」

「クレイユノ、精霊寄りになりがちなお前が疑問に感じていることはわかるが、魔術は人間のためのものだ」

「四元素と光と闇を、この星にある全てが必要としています。生き物も、植物も、物質も」

「人間は特殊な生き物だと言っている。四元素と光と闇を最も上手く使うのは人間だ」

「人間が、魔術で生み出す風、水、土、火、それは、自然の風、水、土、火とは同じですか?」

「同じでなければ困る」

「では、試合の時に土の中から出てきた植物やグノムスは、命あるものですか?」

「実体を伴うものであっても、命そのものを魔術で生み出すことはできない」

「グノムスは、土そのものではなく、蟻そのものなんでしょうか?」

「グノムスは蟻でない、蟻の姿をした精霊だ」

「じゃあ、サウに焼かれた羽蟻は命のない、グノムスでもない、僕が作った物質ですか?」

「クレイユノ、物質そのものも、人間が魔術で作り出すことはできない」

「では、魔術から生み出される物理壁、あれはどこから来ているのでしょうか」

「それらがどこに消えるのかわかったら私にも教えて欲しいものだ」

「僕たちが瞬間移動の魔法を使う時、移動中体は一体どうなっているのでしょうか」

「分子に別れて移動先でまた集合するという説と、別次元を移動しているという説がある」

「別次元とつながっているのでしたら、物理壁もそこから来るのではないでしょうか」

「お前は戦争から生きて帰って来たら論文でも書け」

「どんな論文にしようかなあ」

 クリノは真剣に考え込んでしまっていて返事すらしなかった。セルゲイはそんな弟子が心配で仕方がなかった。

 数ヶ月が過ぎて人並み以上に魔術を使えるようになっても、セルゲイはクリノが魔術を武力にする軍に馴染めると思えなかった。

 たった一人の弟子にしてやれることを日々考えた末、入軍前にクリノを武術館へ呼んだ。


 クリノに渡されたのは、一本の木の杖だった。丁寧に削り出されており、大きすぎず小さすぎず、腰のベルトにかけると短剣程の長さで丁度よい重みがある。木目は赤みをおびて、彫られたまじないの紋様は木目とよく調和していた。

「火を念じて、振ってみろ」

 クリノは杖を手にした時、今まで壊してしまった物とは違う何かを感じていた。しかし、確信がない。おそるおそる、祈るように念じて、振った。

「あ」

 杖は砕けることなく、クリノの手の中にある。その先には、爪楊枝の時と同じように小さな炎が灯っていた。

「師匠! 壊れていません!」

「喜ぶのはまだ早い。その程度の発動でお前を軍に行かせる訳にはいかない」

 セルゲイは上着を脱いでタイを外すと、自らの杖を出して振った。クリノの杖の先の炎は、瞬時に消えた。

「火魔法で攻撃してこい。軍に入って攻撃ができなければ使い物にならん」

 セルゲイが更に杖を振ると、クリノは風で殴られた。

「軍で一番使う魔術は火魔法だ。水軍でも舟を燃やしてしまえばいい、敵国の街に火を放てばいい、敵の武器を焼いてしまえばいい、そして人間はよく燃える」

 セルゲイはクリノを風で殴り続けている。

「早く火を放て。火魔法を使えない者を軍に送るのはヴァレリアンの恥だ」

 クリノは風で迎え撃ったり物理壁を作ったりして避けたが、セルゲイは容赦ない。サミやサウの比ではない。

「打ってこないなら、君が死ぬまで又は軍に入るのは無理だと認められる程度の重傷を負うまで、私は打つ」

 吹き飛ばされて壁に激突した。

 跳ね上げられて床に叩き付けられた。

 立ち上がる前に風圧の重みで何度も殴られた。

 殺される、とは思わなかった。師のやることには必ず何か理由がある。軍に入って死なないように数ヶ月の間つきっきりで特別訓練をしてくれた師が、今何を本当の目的としているのか。

 確かな火魔法の発動、そのためには、自分はどうしたらいいのか。

 必死で逃げながら、避けながら、考えても考えても、数ヶ月の間出せなかった答えはやはり出てこない。

 師の放つ風に捕らわれ、風圧で息ができなくなる。意識が遠くなる。苦しさで胸に手をやった時、サウと戦った時と同じことが起きた。

 懐かしい、男のささやき声が聞こえたのだ。

「クレイユノ、手を胸に当てたまま、そうだそのまま、杖を振れ」

 ――誰?

「生まれる前からお前を知りし者」

 クリノは言われるまま、左手を胸に当てたまま、右手で杖を振った。

 杖の先からごうっと音を立てて火柱が上がった。それはまっすぐ師に向かいあっという間にセルゲイを飲み込んだ。

「師匠!」

 火柱を裂くように水柱が現れ、無傷のセルゲイが立っていた。

「侮ってもらっては困る。お前ごときが放つ火に私が困るとでも思ったか。だが、クレイユノ」

「はい! 今迄で一番強く発動しました!」

「今、何が起きた?」

 クリノは胸に手を当ててみる。服の上から、ファルティノ司祭に渡され、アミには人に見せてはならないと言われた小刀に触っていた。

「故郷を逃げる時に、逃がしてくれた人に渡された物があります。でもそれは、それ自体の持つ意味がわかるまで人に見せてはいけないと、ある方に言われました」

「なるほど。クレイユノ、お前には火魔法を封じる殻のような呪いがかけられている。私はそれを解きたいと思っている。その呪いと、お前が持っている物はつながりがあるだろう。一体どういう物なのかお前が知るために、私が手を貸すのはどうか」

 師が弟子に手を貸すということにはごく自然に納得ができた。

「お願いします」

 クリノは首から下げていた小刀を出して、セルゲイに見せた。

 細かい紋様を見てセルゲイが言った。

「古代神聖グラスタリア文字か」

 そして、はっとした。

「なぜ、なぜ私は今まで気づかなかったのだ……お前の姓エーレイは、古代神聖グラスタリア語で星の司を意味する。それを我が国の古代ラピニエル語では、ラナイ。これは……トリエルの物か」

 セルゲイが小刀に触れた時だった。まばゆい光の渦がわき上がり、翡翠色の炎が小刀から立ち上った。

「トリエル・ティ・ラナイは火魔法の天才だった。だから息子のお前の身を案じて火魔法が簡単に使えぬよう幼き頃に呪いをかけたのだ。まったく、やっかいな男を私は友に、お前は父に持ったものだ」

「師匠の友が、僕の父?」

「更には、私の曾祖父はトラピスタリアよりもはるか北方の国の出身だ。私の名はその曾祖父から受け継いだ。セルゲイという名を持つ人間はこの周辺の国では私だけだろう。その名を、お前が親しき何かに名を与える時に使うようなまじないをかけたのも、お前の父ラナイだ。

 サヘリア家の庭園で、下等な水霊どもが私を見てセルゲイがいるとはしゃいだ。あの家の水霊はラナイの思考とつながったことがあるのだろう。あの家を通してお前が今ここにいるのも偶然の悪戯などではない。いくつかの偶然はあっただろうが、お前が私のもとへ辿り着くようラナイによって綿密に仕組まれていたのだ。そして、この小刀」

 セルゲイは小刀に目を落として言った。

「魂込がされている。作った者の命をもって、物質に魔力を宿し精霊とする術だ。……わが友、トリエル・ティ・ラナイは、もうこの世にいないのか」

「そう、聞いています」

「……クレイユノ・トマ・ラナイ、これが正しいお前の名だ。火魔法の呪いを解く前に、お前の父について話さねばなるまい」

 セルゲイは深いため息をついてから昔語りを始めた。


 私とお前の父トリエル・ティ・ラナイは、幼い頃から共に過ごした学友だ。もう一人の友と三人合せて三神童と呼ばれる程に、魔力が強く、成績もよく、クパピルハールツムビも我々三人が出れば必ず優勝していた。

 高等科に進んだ頃、トリエルがおかしなことを言い出した。

 この世の全てが歪んでいる、と。

 しかしその思想は、この国の議会制度を否定し、軍を否定し、挙げ句の果てに大四司の存在までを否定する、危険なものだった。全ての制度を破壊しつくしてから、生き残るはずの我々のような優秀な者だけで新たなる世界を造るべきだ、そういう、考え方だった。

 今から思えば、トリエルはもっと違うことを訴えていたのかもしれない。しかし、今の君と変わらない年頃で、語彙も足りず、それを聞いた私たちの理解も足りなかった。とにかくその考えは危険であるから、私たち以外の者に話さぬよう必死で説得した。

 ある時、クパピルハールツムビ大会で奴は光魔法と闇魔法を使った。大会は即中断された。なぜそんなことをしたのかと聞くと、

 ――大四司に直接会ってみたかった。

からりとした顔で、そう言った。トリエル・ティ・ラナイとは、たったそれだけの理由でこの国の禁忌大罪を大観衆の前で平気でやってのける、そんな男だった。

 実際、トリエルは捕えられ、大四司の前に突き出されて裁きを受ける。翌日、奴は施設からは除名処分をの不名誉を受け、名誉あるラピナ国軍の准将となった。

 同時に私は学生のまま闇夜の賢者となり、もう一人の友は光暁の賢者となった。三人とも十六才だった。

 おかしな話だろう、重罪を犯した少年本人とその友二人が突然この国の重要な役職に就いたのだ。大四司はおそらく私たち三人を危険分子として監視下に置きたかったのだと思う。何をしても目立つように、何をするにも、大四司の許可を得なくてはならないように、そして、三人が会えなくなるように。

 光暁の賢者と闇夜の賢者はそれぞれが使う魔術の特性から、同席することは叶わなくなる。持っている魔力そのものに属性が備わり、望まなくても結界を張り合って互いを傷つけてしまうからだ。

 だが、そんな大人たちの思惑など知らない私たちは、人々に持ち上げられ、最年少という褒め言葉に有頂天になり、喜んでその役に就いた。

 トリエルは軍人として戦場へ行った。准将だから普通ならばのうのうと過ごしていればいいのだろうが、奴の火魔法は大変な戦力だった。

 ラピナが交戦中の国はトラピスタリアだけではない。あの頃のラピナは海を隔てた南国へ侵攻して街を焼き、侵略を尽くした。トリエルはあちこちの前線から呼ばれるままに、海戦では敵の舟を焼き尽くし、防衛戦でも炎の盾は敵を一歩たりとも進軍させなかったという。凱旋の度にトリエルは国の英雄になっていった。

 軍事国家での英雄の功績とは、何だと思う、クレイユノ。

 どれだけ敵国の人間を殺したかだ。

 杖一振りで何千何万と人間を殺せば、英雄となる。

 英雄となっていく友を、私は自慢に思っていた。だが本人はどうだったのだろう。帰ってくる度に、大量の本を抱えて、私が勤めるようになったここの図書館にこもっていたよ。人の目に触れぬよう、丁度君が暮らす屋根裏の小さな部屋にこもっていた。

 気分転換に来ているのだと思った。友としてあの時手をさしのべなかったことを、私は後悔している。

 一年程経った頃、トリエルは呼ばれもしないウルファ平原へ向かい、失踪した。様々な憶測を呼んだ。敵国へ身を売ったのではないか、魔物に食われたのではないか、道を誤り、黄泉の国に引きずり込まれたのではないか。トリエルを英雄と持ち上げた国民は落胆して、一転、トリエルを非難した。トリエルに関わりのあった者は皆、口をつぐんだ。

 しかしまさか、他国で子をなしていたとは。最後まであいつには驚かされる。


 話し終えて、セルゲイはまだ柔らかな翡翠色の炎を灯している小刀を愛おしそうに見ていた。

 クリノは会ったこともない父の話を、他人ごとのように聞いていた。

 疑問は沢山ある。父はなぜこの国から失踪したのか。母は父の素性を知っていたのか、ファルティノ司祭は知っていたのか。魔術師は暗黒界へ通じる悪しき者とする国トラピスタリアに、父は何をしに来たのか。

 これらの疑問の答えは、師にもわからぬだろう。

「さて、本来の我々の目的に戻るぞ、クレイユノ。トリエルの計画ではお前にかけられている呪いを解く手助けをするのは、私の役目らしい。小刀を」

 クリノは小刀をセルゲイに渡した。

「……トリエルは私の友でお前の父だが」

 セルゲイは小さく息をつく。

「奴が生前に立てた計画を進めてよいのか、私には迷いがある。呪いも私のもとへの道筋もお前を案じてのことだろうが、奴がまだ何か企んでいるかもしれん。それが、お前にとって良いことかどうか」

 クリノは少し考えてから、セルゲイにまっすぐ言った。

「師匠、父は死んでいます。この先に父の計画が何かあったのだとしても、それを実行するかどうか決めるのはたぶん。生きている僕です」

 セルゲイはこの大事な時に、クリノの翡翠色の目を見て悪友と戯れるような、懐かしい気持ちになっていた。

「よし。いいか、お前には火魔法を封じる呪いがかけられていてそれを解くのがこの小刀の精霊だ。精霊に私がコトノハを与え、封印を解く。だがトリエルの命をもって作られた精霊だ、魔力は強いだろう。わかっているな」

「……自分から近づいては、いけない」

「そうだ。精霊がその姿を現してもお前は言葉を交してはいけない。対話が必要であれば私がする。いいな」

 クリノはこっくんとうなずいた。

 セルゲイは小刀を両手の平で包むようにして、唱えた。

「悠久に在りし霊よ、トリエル・ティ・ラナイの魂をもって生まれし霊よ、我セルゲイ・キヴィ・シュワルツニコフがコトノハを与える。我等が生きる時を越え、この星の姿を語れ」

 翡翠色の炎が小刀から沸き起こり渦を巻き、大きくふくれあがったと思うと、クリノの額にびゅうっと吸い込まれた。

「あ、熱っ」

 額が焼けるように感じたが次の瞬間、げほっとクリノはむせて、緑がかったすす煙を吐出した。

 おもむろに声がした。

「セルゲイ、時間がかかりすぎだ。待ちわびたぞ」

 クリノが振り向くと、そこにはクリノとそっくりな翡翠色の目をした青年が立っていた。クリノと変わらない歳に見えるが、その態度は大人びており、背もクリノより少し高い。

「誰?」

 驚いたクリノに、青年はふっと足音も立てず近づき顔を寄せる。

「クレイユノ、父さんだよ」

 試合の時、そして先程苦し紛れに小刀を触った時に杖を振れと言った声だった。

「クレイユノ、口をきいてはならない!」

 セルゲイの声に、はっとクリノは口をつぐむ。

「そしてこれは、お前の父ではない」

 セルゲイはクリノと青年の間に割って入った。

「ずいぶんな言いようじゃないか、セルゲイ、久しぶりの再会だというのに」

「いいや、私はお前会うのは初めてだよ。お前は姿こそトリエルだが、トリエルに作られた精霊だ」

 青年はチッと舌打ちをする。

「『セルゲイは堅物だ、物の言い方に気をつけろ』あの男は俺を作りながらそう言っていた」

「トリエルは他に何を言っていた」

「他って? セルゲイ、お前が知りたいのはどんなこと?」

 青年は師をからかうように明るく聞き返す。

「転換期、それと破壊の使について」

「ふうん、それは」

 青年はセルゲイの目の前までふっと近づき、言った。

「……お前に教えることにはなっていない」

 そして楽しそうにケラケラと笑った。

「ほう、二重の封印か。お前は話したくても話せない、そうだな」

 途端に青年は面白くなさそうな顔をした。

「だが、お前はトリエルに作られただけではない、契約も結んでいるな」

 青年は黙っている。

「クレイユノ、精霊は自身を守るため、誰とどのような契約を結んだか自らは明らかにしない。しかし、確かなことが一つある」

「待ってくれセルゲイ。お前の考えは正しい。あまり俺を困らせないでくれ」

 青年は邪気なくにっこりと笑うと、きらきらと輝く小さな粒になって、小刀へとよせ集まり、消えた。

「戻ったか。まだ封印が解けたばかりで力も弱い。だが、これは……この先どうなるか」

 クリノは唖然としていた。想像していた父よりもはるかに若く、そしてふざけた男だったからだ。

「あの、今のが、父ですか?」

「違うと言っただろう、姿は失踪した当時のトリエルだが」

「……精霊の性格って、魂込すると、作った者に似たりしないのですか?」

「……ある程度は、似る」

 初めて目にした父の姿とそのふざけた立ち振る舞いに戸惑うクリノを思ってか、セルゲイは言った。

「トリエルとこの精霊の契約は、お前が生きている間はお前を守り続ける、そういうことだろう。試合の時も先程も、お前が危ない時には手を貸した。これはお前の父が命をかけてお前に遺した護守刀だ。大切にしなさい」


 数日後、クリノは施設長室を訪れた。

 旅立つといっても大した荷物はなかった。サヘリアで作ってもらった服も置いてきてしまっており、施設内で着ていた作業着と、数日ですっかり手になじんだ赤い木目の杖が一本。

 セルゲイは窓の外を見てクリノに背中を向けていた。

 施設長代理が、無表情でクリノに問う。

「施設長は今でも疑問に思っていらっしゃいます、あなたが軍へ行くことがあなたにとって良いことなのかどうか。私も同じ懸念を抱いています。あなたに、人が殺せるのかと」

「それは、僕にもわかりません」

「施設長の立場をもってすれば、あなたが訓練中に大怪我をしたと報告して、実際に目玉の一つや二つ潰してしまえば行かずに済むかと」

「行こうと思います。目玉もまだ潰したくありません」

「なぜ。祖国の人々と殺し合えますか?」

「わかりません。でも、僕が軍に行くことで、わかることがあるかもしれません」

「どのようなことが」

「なぜ、父は失踪したのか。なぜ、僕の祖国の人々はラピナと無駄に戦争を続けているのか、なぜ、僕の祖国では、魔術が禁じられているのか、他にも多分いろいろと」

「施設長からの言伝です。

 ラナイの名は軍では名乗らないように。真相は明らかではないが、脱走者だ。それから瞬間移動の魔法は最低限に抑え、逃げる時には使ってはならない。心を落ち着けなければ危険な術だ」

 うなずいたクリノに、施設長代理は修了証を渡した。

「いいのですか、ありがとうございます!」

「ええ、あなたはもう、この施設の候補生ではありません」

「……はい。あの、施設長代理にお伺いしたいことがあります」

「何ですか」

「この杖なのですが」

 クリノはセルゲイより与えられた杖を出して問うた。

「どなたが、作ってくださったのでしょう」

「施設長です。サヘリア家の庭園に生えているリンゴの木から枝を一振りもらい受け、施設長の手で削りだしてあなたのためにまじないの紋様を彫りました」

 セルゲイの心の舌打ちが聞こえるようだった。クリノは涙をこらえたためにセルゲイの背に礼を言うのが、精一杯だった。

「……ありがとうございます」

「それから、これを」

 施設長代理は、紺地の軍服とマントを出してきてクリノに渡した。

 上質な紺色の生地に、金色の糸で刺繍と縁取りがされている。模様は少しシンプルだが、セルゲイのマントに似ていた。

「ヨーギスという仕立屋に命じて作らせました。軍で安物を支給されますが、あなたはこれを着ていなくてはなりません。これは、賢者の弟子装束です。あなたはセルゲイ・キヴィ・シュワルツニコフのたった一人の弟子なのですから」

 厳しい師だった。褒められたことは一度もなかった。しかし厳しい言葉と指導の中には、常にクリノの将来を思いやる深さがあった。

 こらえきれずに溢れた涙を慌てて拭い、マントをその場で身につけた。

 施設長代理がわずかにセルゲイを見てから言った。

「……よく似合っている、と、言えと」

 またしても、セルゲイは心の中で舌打ちしていただろう。

「お世話になりました。師匠セルゲイ・キヴィ・シュワルツニコフ、あなたの弟子であることを誇りに思います。この国では幼子にも満たない僕に魔術を教えてくださったこと、心から感謝します。あなたに教えを胸に、探求を続けて参ります」


 その日のうちに、クリノは入軍手続きを済ませ、ウルファ平原へ向かう馬車に乗せられた。

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