第三章 水箱の館

 せせらぎの音が聞こえていたが、いたずら心に満ちた山の小川とは違い、規則正しく同じ量が、同じ場所で同じ大きさの渦を巻き、音を立てている。その規則正しさに、起きなさいと命ぜられているような気になって、閉じていた目を開いた。

 辺りを見回し、水色の箱の中にいる、と思った。

 床や壁、天井も柱も半透明な水色の石でできており、せせらぎの音は大きく開け放たれた窓の外から聞こえている。

 天国だろうか、と思ったが、異端審問で死刑と決まったのだ、グラディスタ神の御許へはそう簡単にたどり着けはしないだろう。しかし地獄に落ちたにしては、ふかふかの布団が柔らかい。着ている寝間着も滑らかで上質な布で、袖には光沢のある糸が美しい刺繍模様を描いている。

 体を起こそうとしたがうまく力が入らない。そして、布団にくるまれて寝ていたにしては、体が冷えて寒気を感じる。

 音もなく、部屋の壁の一部がふっと消え、白い服を着た婦人が一人、部屋に入って来た。

 婦人が着ている服は異国の物で、上着は詰め襟、下には風船のように膨らみ裾でつぼまった不思議な形の長いスカートを履いている。婦人はクリノの体をゆっくり起こし、湯気の立つカップをクリノに差し出した。

 カップからは紫橘むらさきたちばなの根の匂いがした。食欲を促進し、体を温める薬湯だ。クリノは受け取ってゆっくり飲んだ。ハチミツで薬湯の苦さを消してあり、滋養がつくよう丁寧に処方されているのがクリノにはわかる。

 婦人は黙ってクリノを見守っている。やや疲れて見えるが、その視線はやさしい。

 ――キミハ、タスカル、サア、イクンダ。

 そうクリノに伝えてきた青年の目を思い出した。同じ、鳶色の目だった。

 はっとして婦人に何かを尋ねなければ、何かを伝えなければと思ったが、婦人が先に口を開いた。

「まずは、それを飲んでおしまいなさい」

 確かにまともな言葉は出てきそうにもなく、クリノは黙って、言われるままに薬湯を飲み干した。

 いつの間にか、婦人の後ろに婦人とよく似た白い服の、美しい顔立ちの少女が立っている。粥の入った器を婦人に渡し、少女は黙ってクリノを見ていた。体つきの線の細さとは裏腹に、鳶色の大きな目が強くきらきらと潤んでいる。クリノと変らぬ年頃だった。

「次は、これを」

 婦人は粥の器と匙を小さなトレーごとクリノに渡す。

 腹は空いているのだが、薬湯を飲んでも食欲がわかない。とろりとした粥を一匙すくったが、口の中に匙を入れたいと、思えない。

 婦人が静かに言った。

「……あなたは、生きている。生きることは、食べること。無理をしてでもお上がりなさい」

 体が冷えているのも、力が入らないのも、しばらく食べていないからなのだろう。婦人に促されて、無理に粥を流し込んだ。

 食べ終えると、少女が器を下げて出て行った。婦人が静かに、クリノに問いかける。

「私はアミ・サヘリアといいます。マロウ・サヘリアの母です。あなたの名は?」

「クリノといいます」

「姓は?」

「まだ一人前ではないので、名乗れません」

「そう。トラピスタリアでは、大人になってから、姓を名乗るのね?」

 ――ここは、トラピスタリアではないのか?

 そう思いながらも、クリノはうなずく。

「マロウのことは、覚えている?」

「あなたと同じ色の目をした、私より少し年上の人ですか?」

 婦人がうなずく。

「あの人は、どこですか? ここは、ここはどこですか? トラピスタリアでは、ないのですか?」 

「……マロウは、眠っています。ここは、ラピナ国です」

 くらっとめまいがして、クリノは大きな枕の上にふっかり、と沈んだ。

 トラピスタリアとは長年戦争状態にあり、魔道師ばかりが住まう暗黒の「ラピナ国」に、今、自分はいる。婦人の言葉は穏やかだがはっきりとしており、疑いを挟む余地はなかった。

「あなたはマロウと共に、この国に逃れてきたの。……何も、覚えていない?」

 青年の咽に短剣が突き立てられたことを思い出す。そこまでしかクリノには記憶がなかった。どのようにしてラピナへ来たのか、あの牢からどのようにして逃げ出せたのか。

「マロウは、あなたに魔力があると言っていました。心当たりは?」

「私は魔道師ではありません」

 声が震える。

「落ち着いて。この国で魔力があることは罪ではなく当たり前なのよ。あなたに魔力があっても誰も捕まえに来たりしないから、安心なさい。

 マロウは、あなたの魔力によって、瀕死の傷を癒やされてラピナまで戻ってこられたのだと言っていました」

「……知りません、覚えていません。魔力なんてありません。私は、魔道師ではありません」

「私はあなたに感謝しているの。外国で一人きりのマロウの命を助けてくれて、マロウがこの国に帰る手助けをしてくれたことに」

 手助けをした覚えはなく、頭を振るしかなかった。

 先程と同じように音もなくいつの間にか、婦人の後ろに粥を持ってきた少女と、少女と全く同じ美しい顔をした少年が並んで立っていた。

「マロウの弟のサウと、妹のサミです。兄を助けてくれたこと、二人も感謝しています」

 少女が両手を重ねて胸の中心で合せ、膝を折って頭を下げた。

「……サミ」

 少年がしかるように小さく鋭くその名を呼んだ。しかし少女は動じずに、頭を下げ続けている。

「サウ、あなたも」

 アミが、少年に命じた。少年は唇を少し噛んで、クリノを見ずに左の拳を左胸に当ててやや腰を折った。

 双子がクリノに外国式の礼をしている。だがクリノは二人から目をそらすことしかできない。

 アミがそっと二人に合図をすると、二人は下がっていった。去る前に少年が、白い絹の布包みをアミに渡した。

「不思議なクリノ。あなたは魔力がないのに、精霊を使役していたの?」

「精霊?」

 アミが布包みをクリノに差し出す。

 受け取って包みを開いてみた。

「あっ」

 布の中には、黒い鳥が冷たく、目を閉じていた。羽がだいぶん抜け落ち、その体はひどく軽かった。

「……セルゲイ……セルゲイ! 死んでしまったのか、どうしてっ?!」

 取り乱したクリノに、アミは少し驚いていた。

「それは、あなたの使役していた精霊でしょう?」

「精霊? そんなもの知りません。セルゲイは、セルゲイは、僕の大事な友達です!」

 クリノは泣いた。アミがいることなどお構いなしに作法なども全て忘れて、クリノは泣いた。ラスケスタを出てから、不条理に何度か涙がにじむことはあったが、初めて大声を上げて、泣いた。軽く冷たく動かぬセルゲイを胸に抱いて、大声で泣き続けた。

 もう二度と、クリノの肩に止まりたいとせがんではくれない。陽気に高らかによく響く声で鳴いてはくれない。頭の上をくるくると飛び回ってはくれない。もう、二度と。

 動かすとセルゲイの黒い羽は更に抜け、ラスケスタで過ごした時の緑に輝く艶やかさを、どんどん失っていった。

 アミが言う。

「その、あなたの……友達は、ただの鳥ではありません。おそらく二百年は生きたでしょう、強い力を持った精霊です。使役するには強い魔力と鍛錬された技が必要だけれど、不思議ね、あなたはこれを友達と言うのね。

 あなたとマロウのために霊力と命を使い切ったの。幸せな精霊だわ」

 アミが何と言おうと、セルゲイはクリノの友だった。鳥にしては確かに少し大きいかもしれないが、人から見れば小さな体をした無邪気な友であった。小さな友の突然の死を、幸せだったと思うなど、できなかった。

 全ての羽が抜け落ちてしまう前に、埋葬してやりたいと思った。ふらつく足を運び、庭に出る。アミの許可を得て、館の庭に生えた、リンゴの木の根元に小さな穴を掘る。

 ――ごめんよ、セルゲイ。ラスケスタの森に帰してやれなくてごめんよ。リンゴの実が赤くなったら、きっとラスケスタの森から、山を越えて友達が来る。だからさみしくないよ。ねえ、セルゲイ、君の綺麗な羽を一枚だけ、俺が持っていてもいいかい? 

 立派な風切り羽を一枚、クリノは友の形見にもらうことにした。

 セルゲイが静かに眠れるようにと祈り、土を被せて、クリノはまた、泣いた。もう二度と小さな友に会えない事実に、涙が止まらなかった。

「クリノ、あなたの体はまだ完全ではないの。もう少し休みなさい。すっかり元気になったら、あなたには学ばなくてはならないことが沢山あります。それから、これを」

 アミはクリノの側へしゃがみ込み、まるで誰かから隠すようにしてそっと、何かをクリノの首にかけた。アミの手の中にあったのは、ファルティノ司祭に渡された小刀だった。

「これについて、マロウは軍の偉い方にも、監察官にも、妹と弟にも、話しませんでした。私以外には誰にも。あなたを見ていて、私は息子の判断が正しかったと思います。

 これがどのような物なのかあなたがわかる時まで、誰にも、見せてはいけません」

 小刀をクリノの寝間着の中に隠してしまってから、アミはクリノを支えて立たせた。


 館の上階のバルコニーで、水色の手すりにもたれたサミが、庭にいるクリノとアミを見下ろしていた。

 憮然としたサウがその隣で問う。

「どうしてあんな奴に礼をしたんだ」

「……母様のためよ。サヘリア家で保護すると決めたんだもの」

「母上は、兄上が死んでしまっておかしくなっているんじゃないか」

 優しい笑顔をたたえてサミが答える。

「母様は疲れていらっしゃるのよ。ねえ、サウ」

 振り向いたサミの鳶色の目の奥は、微笑んでいても、十六歳とは思えぬ程の爛々たる光が宿っている。

 サウはその光を美しいと思う。双子で自分の妹であるが、自分よりも、他の同年代の者たちよりもはるかに強い魔術を容易く使い、それを自分と二人だけの秘密にしているサミを誰よりも大切に思う。

「私ね、マロウ兄様を心から愛していたわ。だからね、あの異国人を許さない」

 この妹の望みなら、サウはどんなことでも叶えてやるつもりだった。

「兄様があの異国人を救ったようなものじゃない。精霊だけじゃなく、あの異国人の命も、兄様に捧げるべきだったのよ」

 サミの頬が紅潮するのを、サウはじっと見ていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る