第二章 翼を持つもの

 クリノがラスケスタを去った夜より三日前。


 王都ヴァリヒタルの魔道師狩り首隊長、ケルマンは北方の村からの急ぎの報告を受けていた。最後まで聞き終えるとケルマンは、報告してきた事務官に言った。

「お前が理解している内容を、もう一度、お前の言葉で話せ」

 若い事務官は戸惑い、ケルマンの横に立つ副隊長のタキムの顔をそっと見る。タキムは小さく事務官を勇気づける様にうなずいた。

「……二日前、スーシェフ村の沼地で、村人が渡り鳥を射落としたそうです」

 そこまで言ってから、事務官は自身が慌てていたために、要点を得ぬまま話していたと気づき、顔を赤らめ報告し直した。

「二日前、スーシェフ村の沼地で村人が渡り鳥を射落としたそうです。しかし、空から落ちてきたのはラピナ国の服を着た男で、傷を負って意識がなく、村人たちは魔道師ではないかと恐れ、男を縛り上げて沼地に放置し、遠くから見張っているそうです」

「まだ生きているかは、わからないのだな?」

「はい、縛り上げた時はわずかに息があったそうですが」

「馬を用意しろ、私が行く」

 事務官はうなずいて、走り去った。

 この奇妙な報告を受けても、ケルマンは驚くでも慌てるでもなく、若い事務官を育てる度量を持っている。愛想はないが常に組織全体と部下を思うケルマンが上官でよかったと、魔道師狩りの仕事に就いてからタキムは何度思ったか。

「私もご一緒したい所ですが、首隊長がルスの王都をどうぞお任せ下さい」

「うむ。このこと、しばらく伏せておけ。審問所議長にだけ、お前から内密に知らせろ」

「はい」

 ケルマンは手早く支度をしながらタキムに指示を出す。

「ラスケスタの少年はすぐに捕まるだろうが、孤児で教会の保護にあったそうだから生かして審問にかけるよう」

「その後は?」

「手順さえ踏めばよい。いつものように」

「はい……しかし、スーシェフの男が本物だとすると何年ぶりでしょう」

「さあ、な……」

 ケルマンの眉間に深い皺が刻まれた。

 このトラピスタリア王国とは、交戦状態にあるラピナ国、その魔道師。落ちてきた男が鳥に姿を変えて空を舞っていたのなら、偵察だった可能性がある。

 もしもそれらが、常日頃からこの国の上空を舞っているとしたら?

 魔道師狩りが糾弾されるだけでは済まない。国全体に衝撃が走り、政局が動くことにもなりかねない。教会、国軍にとっても大ごとである。

 しかしケルマンには、これから起きるかも知れない国の大事より気になることがあった。

 ――十六年前に出会った、あの男の目。何度忘れようとしても、心を揺さぶられ乱される、あの目だ。再びそれに出会うのかもしれない……。

 ケルマンの心には期待に似た興奮が湧き立っていた。

 魔道師狩りの歴史は長い。グラスタール聖教が国教と定められて以来、信仰によって国政を安定させるため、施政者達は生贄の血を求めた。

 二百年前までは国内に数多くいた魔道師や、微力な土着の呪術師までもが、邪悪な暗黒界と通じているとして、獣のごとく狩られた。

「魔道師狩り」は教会の推薦を受け、国王より任ぜられた武人集団である。対外国の軍武官や騎士、兵士たちとは全く異なる武術、技術を以て、特定の人物を探し、追い、始末する。

 彼等のほとんどは、家督の継承と同時に、魔道師狩りの仕事と秘密も、継いできた。

 ケルマンの父も、祖父も、その秘密を知りながら、敬虔なグラスタール聖教徒として神のためにその手を血に染めてきた。

 ――国家と信仰を守るため。

 だが十六年前、ケルマンの幼い頃からの強い信仰と信念を揺るがした男がいた。そしてその男を、ケルマンは自分の手で処刑した。

 タキムは十年前に魔道師狩りに就いたため、その男を直接は知らない。

 ケルマンは興奮した心を誰にも気取られぬよう努め、スーシェフ村へと向かった。



 王都ヴァリヒタルからスーシェフまでは、馬で一日半かかる。「標的に生きていて欲しい」と願ったのは、初めてのことだった。

 いつもの狩りなら、金地の王家の旗と、赤地の教会の旗、両方を掲げて目立つように王都から出立するが、今回は全てを内密に進めなくてはならない可能性がある。ケルマンと十名の部下一行は静かに、迅速に、旗を掲げずに王都を発った。

 途中馬を乗り換えただけで休まず走り、スーシェフに着いたのは翌日の夕暮れ時だった。五十を過ぎた体にはきつい移動だったが、気が急いているのを部下たちに気づかれないよう、無愛想な無表情は変らなかった。

 村の入口で村人が隊を待っていた。

「遠い所、ご苦労様でございます。すぐに、ご案内しても?」

 ケルマンはうなずいて言った。

「休むつもりはない、すぐに案内を」

 村人は肩を丸めてせかせかと先導した。

 スーシェフは貧しい小さな農村である。どの家もこの騒ぎで固く門戸を閉ざしているのは、人々は怯えの現われである。

 だが、薄く小さく開けた窓の隙間から、人々の目線を感じる。王都を出る時には掲げていなかった旗を、村に入る前に掲げてよかったとケルマンは思った。

 魔道師狩りが人を狩り殺すのは、人々の安らかな暮しのためでなくてはならない。そのために、王による統治の安泰と、教会への信頼を絶対のものとするのだ。

 沼地に着くと、まだ明るいのに男たちはかがり火を焚いていた。村の司祭も一緒である。

 ケルマンたちの姿を見て、男たちから安堵の声が漏れた。

 馬を下りると、司祭が近づいてきて遠くを指す。

「あそこです。がんじがらめに縛りましたが、どのような魔術を使うか知れません」

「まだ生きていますか?」

「……わかりません」

「鳥の代わりに、空から落ちてきたと聞きました。その場にいたのは?」

 三人の男が、おそるおそる手を挙げた。

 彼等に代って、司祭が話す。

「私も最初は彼らを疑いました、酔っていたのではないか、寝ぼけていたのではないかと。しかし、彼らは酔っていても人を弓で射るような者たちではありません。

 それに、あの者が着ているのは異国の服です。長らく目にしておりませんが、間違いなくラピナの服です。私の父は船乗りでした。子供の頃、父と共に外国を回りましたので、私はラピナ人を見たことがあります。間違いありません」

 司祭の顔には疲労の色が濃く、事が起きてから村人たちを励まし続けてきたのが見て取れた。

「司祭殿、よく村人を守ってくれましたな、後は我々にお任せ下さい」

 そのの言葉に、司祭は目を潤ませて何度もうなずいた。

 ケルマンは、狩装束を着けるよう部下全員に命じた。

 魔道師狩りには決められた狩装束と武具がある。全身を覆うマントと手袋。顔を見られて呪われぬための仮面。魔力を封じる、ベダリウ山の鉱石でできた武具。これらは全て暗黒の力を寄せ付けぬ祈祷がされている。

 村に入る直前、部下に装束を着けてもよいかと許可を仰がれたが、ケルマンは装束の見た目の特性から、許さなかった。村人を安心させるのが先であると考えたためだ。

 しかし、部下たちが緊張するのも無理はない。

 魔道師狩りは、人々の国教への信仰を強固にするために存在する。狩りの標的が魔道師であっても、事実はそうでなかったとしても。 実際に処刑されている者は、疑いをかけられたというだけで魔道師などではないのを、魔道師狩りと異端審問所は知っていた。

 ――暗黒界と通じた疑いだけで、グラディスタ神を冒涜する重罪に当る。重罪を犯した者は処刑すべきである。処刑は、神に仕えることを国王に許された者の神聖な行いである。

 そう、信じて、魔道師狩りは人を狩り、殺す。

 だが、呪術、魔術が禁じられてから二百年が経ち、今の魔道師狩に真の魔道師を狩った経験はなかった。

 ただ一度、例外があったとケルマンは信じているが、それを誰かに言ったことはない。

 装束をまといながらケルマンは司祭と村人全員に声をかけた。

「皆、家族の待つ家に帰るがよい。魔道師を捕えてこの村を去る時、村外れの家の戸を四回叩いてゆく。全てが終わり安全な村に戻ったという合図だ。しかし異国の者を捕えるのも裁くのも、慎重に進めざるを得ない。審問所での協議が終わり次第村に使いを出すので、それまで決して余所者に、他言してはならぬ。よいな」

 村人たちはうなずき、足早に家へ帰って行った。



 狩りは、あっけなく終わった。

 血と泥にまみれた青年は、確かにラピナ国の服をまとっている。わずかに息があるものの血を流しすぎたのか、冷たい沼地に放置されたためか、青白い顔をして、意識が戻る様子はなかった。

 外が見えぬように頭ごと黒い袋に入れ、村人たちが縛り上げた縄を解き、ベダリウ鉱石でできた手枷と足枷をはめ、鉱石を練り込んだ縄で縛り直す。生きて王都へ連れ帰りたかったために手加減して縛り、簡単な治療も施した。

 部下たちは緊張から解かれ笑顔すら見せるようになった。瀕死の青年を移送用の牢へ入れ、村はずれの家の戸を叩くのを忘れず、ケルマンたちはスーシェフを去った。

 

 ケルマンの心には、満たされない思いがあった。

 青年はラピナの服を着ている以外は、ごく普通の人間に見える。気を失ったままなのでそれ以外は何もわからないのだが。

 ――何かが、違う。この青年は、俺の知っている『魔道師』とは、違う。

 報告を聞いた時から十六年前のあの男にもう一度会えるような、そんな期待を持ってしまっていた自分に戸惑いもあった。

 ――だが、あの男との違いは一体何だ。

 考えてはならないと、ケルマンは帰路、何度も繰り返し自分に禁じた。

 自身の信仰と信念を揺るがした、異端審問にかけられても当然の思いを、呼び起こしてはならない。

 青年を入れた牢を引いて、青年の容態を確認しながらヴァリヒタルに着いたのは二日後の夜、真夜中を過ぎだった。

 タキムが門まで出迎えに来ていた。

「ご無事で何よりです」

 ケルマンは黙ってうなずいた。

 三十代のタキムはケルマンから見ればまだ若いが、聡明な男だった。首隊長に聞きたいことは山ほどあるはずだが、矢継ぎ早に質問を浴びせたりせず、相手の様子をうかがい思いやるやさしさがある。

 そのタキムの性格が、あまり魔道師狩りには向いていないとも思える。だが、家柄に縛られ、転属など叶わぬのはどの隊員も同じである。タキムが魔道師狩りという仕事の冷徹さに傷つかぬ程の老獪さを身につけた時、ケルマンは首隊長の席をタキムに譲るつもりだった。

「ラスケスタの少年が先程、連行されてきました」

「うむ」

「ラスケスタから北へ逃亡していましたが、ルクラン領に配置していた潜伏員が捕縛したそうです」

「内通者か手助けした者がいるな」

「捕縛に向かったことは公になっていましたから、教会や貴族とも考えられます」

 スーシェフ村で捕縛した青年の取り調べによっては、今後、どの方面と政治的なやりとりが必要になるかわからない。今は見えない相手に恩を売っておくべきだった。

「内通について、今は探りを入れるな」

「わかりました」

 捕えてきた青年には、審問所へ引き渡す前に聞き出さなくてはならないことが多くある。眠る時間はなさそうだった。

 夜中だというのに鳥の羽音が聞こえ、すぐに遠ざかる。兵士たちの怒鳴り声がやや離れた所から聞こえてきた。

「ああ、あれです、ラスケスタの。おや、頭の袋が取れてしまったのか」

 見てみると、灰がかった髪色の色の白い少年が連行されて行く所だった。タキムの言う通り、少年の頭には袋が被されていない。

 脚に力が入らない様子で、膝が時折、がくりと沈む。両脇から抱えられ、怒鳴られながら引きずられるようにして牢へと連行されていく。

 異端審問が終わった後は皆、そうだ。何一つ聞き届けられはしない。告げられる内容に何一つ正しさはない。不条理に絶望したまま国の安寧のためにその命を絶たれるのだ。

 ふと、連れ去られる少年がケルマンを振り返った。

 その翡翠色の目を見た瞬間、疲れていたケルマンの心に稲妻が走った。

 あの男と同じ色の目だ。年が若く悲しみに満ちており、あの男のような威厳はないが、目の色が、その奥にたたえた光の強さが、あの男と同じものだった。

「……タキム」

「はい」

「あの少年の処刑時刻は」

「すぐにと、命じてあります」

 殺してはならない。あの少年を、あの目を、殺してはならない。十六年前と同じことを繰り返してはならない。

「処刑の時間を、延ばせ」

 タキムは驚いてケルマンを見た。

「……はい」

 聡明な男は、ケルマンの顔をうかがいながら尋ねた。

「理由を、お聞かせ頂けますか」

 やや置いて、ケルマンは答えた。

「スーシェフから連行した青年、素直に色々と教えてはくれないだろう。しかし、同じ境遇の者がいるとなったらどうだ」

 タキムは納得したようだった。

「では、同じ牢に入れてみますか?」

「うむ、そうしてみろ。スーシェフの青年を異端審問所に引き渡すまでそれほど時間はない。試すだけだ、わずかな間でいい」

「では、少年の処刑の時刻は?」

 ケルマンが思っているよりも、タキムは冷徹なのかも知れない。

「夜明けでいいだろう」

「わかりました」

 タキムは命令を伝えるべく、足早に少年が連れ去られた処刑場へ向かった。

 自分は何をしようとしているのか。ケルマンの心は再び揺れ始めている。



 監察官の声が、暗い審問室で響いた時、クリノはひどいめまいと吐き気を覚えた。

「魂を清め、グラディスタ神の裁きを。ラスケスタの薬師見習いクリノを聖死刑とする。聖水に沈めよ」

 ひどく悪い夢を見ているのだ、目を覚ませばいつもの小屋なのだ、そう思いたかった。

 しかし捕えられて以来、物のように扱われ、次第に人としての何かを奪われているようで、深く考えることができなくなっていた。

 頭から黒い袋を被せられて何も見えないまま、引きずられるように連れて行かれたが、空気の冷たさと足音が変ったことで建物の外に出たと知った。

 突然、鳥の羽ばたく音がして、クリノを連行していた兵士がわめいた。

「何だ! 魔道師の使いか!」

 足枷を着けられたまま引っ張り回された時、頭に被せられていた黒い袋が何かに引っかかる様にしてするりと脱げた。

 突然視界に広がった夜空には、アデルと別れた時に見上げたのと同じように、少し丸みを帯びた月が、ひどく嫋やかにやさしく光り輝いていた。

 遠くにはケルマンとタキムがいたのだが、クリノの目に入っていなかった。

 兵士が叫ぶ。

「こっちを見るな! 呪うつもりか!」

 頭を下へ向けて押さえ込まれた。

「今の鳥が袋を持って行っちまった! 早く処刑場へ!」

 頭を押さえ込まれたまま、クリノはまた、引きずられていった。

 なぜこのようなことになったのか知りたかった。なぜ、自分は死ぬのか。なぜ。

 兵士たちが誰かと話をしていたがまるでクリノには聞こえていなかった。なぜ、という問いしか浮かばなかった。

 やがて突然、固い石の床に突き飛ばされるようにして転がされ、牢の扉が閉まり、錠の音がした。

「ルームメイトが、来た、か、うれしいね」

 弱々しい声が、牢の奥から聞こえた。

 牢の高い天井近くに小さな窓があり、鉄格子がはめられている。わずかに射している月明かりを頼りに牢の奥を見てみると、人が床に寝かされていた。

 怪我をしている様子で包帯と服が血泥に塗れている。その服は、汚れてはいるが白地に金糸で草花の模様が刺繍されており、クリノが見たこともない、異国の高価な服のようだった。

「君も……魔術……師?」

 今にも消え入りそうな声だったがどこか人なつこい陽気さがあり、クリノは思わず返事をしていた。

「いいえ、違います。でも、もうすぐ、処刑されるんです」

「へえ、同じ、だ。俺ももうすぐ、死ぬ……」

 声の主に、クリノは近寄って顔をのぞき込んでみた。

 土色の顔色をして、目は落ちくぼみ、唇は乾き、息が弱く浅い。死相が現れていた。

 クリノは見習いではあったが薬師として、医師や司祭と共に村人を看取ったことがある。青年からは確かに逝ってしまう者の気配を感じた。死を目前にした鳶色の目には、既にクリノを映す力もないようだった。

「あなたは、魔道師なのですか?」

「俺の国では、魔術師、と、いうけれどね、数日前までは、そうだった。この手枷と、牢の石は、魔力、を吸い取る……安心したまえ、もう、魔術は使えない」

「異国から、来たのですか?」

 青年はそれには答えず、ひび割れた唇をふるわせた。

「……寒い」

 青年が血を流しすぎているのは明らかだった。

 クリノの心の中で、何かが、チリリ、と音を立てている。それは、クリノがずっと思っていた、なぜ、という言葉とも繋がっているようだった。

 ラスケスタで薬師として看取った人々は、家族に囲まれ、ベッドの上で、暖かいろうそくの光りに時折やさしく頬を撫でられるようにして、穏やかに死んでいった。老いた者も、若くして逝く者も、病気でも怪我でも、最期はやわらかな顔つきをして、遺される者たちをいたわるように死んでいった。

 この青年はどうだ。寒さに震え、冷たい床の上でろくな手当もされずに、血と泥にまみれたままだ。

 これは、人の死に方ではない。人は、このように死んではならない。

 そう思ったクリノは、手枷をはめられた不自由な手で自分の衣服を破り、引き裂き、少しでも暖めてやろうと青年の首に巻き付けた。小さく千切った布で、青年の顔に着いた血と泥をそっと拭ってやる。

 青年が見えていない目を細める。

「君は面白い、ね……処刑される前に、死んでいく、他人の、心配をするの、か」

「だって……あなたも、こんなふうに死にたくはないでしょう?」

「……俺は……国に帰りたい。死ぬなら、生まれた国で、死に、たかった」

 それは、叶えてやれそうにない。

 代わりに髪についている泥を落としてやる。

「おや……この国にも、精霊が、いるか」

「え?」

 何を言っているのか聞き返す前に、牢に足音が近づき、錠が外された。

 ぬっと、大柄な男が入ってきた。黒いマントを羽織り、仮面を着けている。

 ――死神に、処刑場へ引き出される!

 クリノが絶望に絶望を重ねそうになった時、死神が口を開いた。

「ラスケスタの少年、父親の名は」

 震えて、声が出ない。

「答えろ」

「こ、孤児です。父の名は知りません」

「育ての親から父親について聞いていることはないか」

「何も、知りません」

「親から譲り受けた物はないか」

 チリ、チリリという音が、何の音なのかわからないまま、クリノの中で次第に大きくなっていく。

 ――これは人間だ。死神ではない。僕も、どうせすぐに死ぬのだ。だったら、聞きたいことは聞いてやる!

「……な、なぜ、この人はこんなふうに死ぬのですか?」

「……」

「なぜ、僕は魔道師なんかじゃないのに処刑されるのですか?」

 男は黙っている。

「なぜ、異端審問の時には何も聞いてもらえなかったのですか? それなのになぜ、あなたは今になって僕に色々と聞くのですか?!」

 男は、仮面を外した。壮年の男の黒い目が、クリノを静かに見ていた。

「少年、姓を何という?」

「僕は薬師見習いです。見習いは、姓を名乗りません」

「見習い修行を終えた後、名乗る姓が決まっているだろう」

「……エーレイ、と言います」

 それを聞くと男は一度、深く息をついたが、突然ギラリと短剣を抜き、大股で進んできた。

 ――殺される!

 クリノが目をぎゅっと閉じた瞬間、男は短剣を、異国の青年の咽に突き刺した。そしてクリノの肩を両手でつかみ、小声で、しかし激しい勢いで言った。

「私は大罪を犯してお前をここから出す。お前にはやるべきことがあるからだ。時間はない、今すぐあの者の服をお前が着るんだ。お前の服をあの者に着せろ、急げよ!」

 男は素早く鍵を出してクリノの手枷を外す。そして異国の青年の手枷も外した。

「私は『異国の魔道師』を移送する手はずを整えてくる。五分後に戻るまでに着替えて、お前が異国の魔道師となれ。あの者は壁に立てかけておけ。わかったな?!」

 男はマントを翻して牢から出て行った。

 青年の口から、咽から、既に弱々しくなった勢いでとくとくと血が溢れる。それを見てクリノは駆け寄って咽の傷を押さえたが、血は止まらなかった。

 再び沸き起こる、なぜ。

 ――なぜ? なぜ、この人は自分の身代わりに殺されるのか。

 司祭様もそうだ、異端審問所もそうだ、今の男もそうだ、なぜ、理由を教えてくれないんだ?

 クリノには何一つ、自分の身に起きていることの理由がわからない。

 青年の手が動き、そっとクリノの手に触れた。

 ――キミハ、タスカル、サア、イクンダ。

 流れ込むように青年の意思が伝わってくる。

 青年の顔が穏やかになってゆく。ラスケスタで看取った人々と同じような顔になってゆく。

 ――違う、違う、ここは、あなたの死ぬ場所ではない。

「僕はあなたの代わりに生きたくなんかありません!」

 果たしてクリノは、声に出してそう、叫んだのだろうか。

 ごうっと風が湧いたのは、青年の咽に当てていたクリノの手の中からだった。続いて牢の中で激しい閃光が渦巻き、すぐに、消えた。



「お前たちは、この少年を護りしものか」

 ――俺ハ違ウ。ソイツニ借リがアルダケダ。

「俺も今、借りができた。一緒に返す絶好の機会じゃないか」

 ――オ前ハ、死ヌ。

「ああ、わかっているさ。でも俺の望みは叶う。そしてお前も俺も借りを返せる。一夜契約にはもってこいだ」

 ――死ニ損ナイガ、命ヲモッテ誓エルノカ?

「翼を持つ者、俺を侮るな。お前の翼と命も使いこなして、この少年を助けてみせる」

 ――イイダロウ。

「それと、まだコトノハを与えられぬお前も、その力を試してみたいだろう? 時間がない。……さあ、すぐに始めよう」

 意識を失って倒れているクリノの、首にかけられた小刀がそっと外された。



「タキム様! 大変です! ベダリウ牢が破られました!」

「何だと?」

 部下たちとタキムが駆けつけた時、魔道師を封じるベダリウ鉱石で頑強にできた石牢の塔が、ガラガラと音を立て、煙を上げて崩れていた。そして崩れた塔の壁に、黒い大きな影が、牢の中からのそり、のそりと這い上がってくる。

 ――なんと禍々しい気配か……あれは人ではない!

 瞬間的にタキムはそう感じて、隣にいた兵士から大弓を奪い、きりりと引いた。

「待て!」

 ケルマンが駆けつけ、タキムを制した。

「あれは……何だ……」

「魔物でしょう!」

 タキムは弓を構え直す。

「待てと言っている! あそこを見ろ!」

 ケルマンが指したのは魔物の足だった。胴をがっちりとつかまれた人の姿が見えている。意識を失っているのか、手足はだらりと垂れていた。誰なのか、月明かりだけでは見分けがつかない。

「どうせすぐに処刑してしまうのです!」

 タキムが言返した時、魔物が、月に向かって吼えた。その咆吼はヴァリヒタルの夜に響き渡った。耳にした全ての者が腹の底から凍てつくような恐ろしい咆吼だった。

 魔物はバサっと巨大な黒い翼を広げる。

 そして、片脚で人をつかんだまま、もう片方の脚で牢の壁を蹴ってバサリバサリと羽ばたく翼で突風を起こし、夜空に舞い上がると、その大きさに合わぬほどあっという間に、闇に紛れ、姿が見えなくなった。

 夜空ではいつの間にかに、月はその姿を雲の陰に隠してしまっていた。

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