翻弄の話
第一章 始まりの少年
王都からの早馬が司祭のもとに着いたのは、夜の礼拝の直後だった。一時も馬を休ませずに走らせたのだろう、馬は礼拝堂の前で泡を吹いて死んだ。
早馬を死なせてまで急ぎ届けられたのはレイヴン卿からの書簡である。すぐに司祭は封を開けようとしたが、卿の封蝋の横に小さな×印が二つ書かれているのに気づき、手紙を懐に忍ばせ急ぎ自室に戻り、ドアの鍵をかけてから、封を開いた。
――この、ラスケスタの町へ魔道師狩りが向かった。夜明けには着くだろう。
最初の数行でそこまで理解した司祭は、最後まで読まずに再び手紙を懐にしまいながらマントを手にした。チェストの鍵のかかった引き出しを開け、小さな小箱を取出し、床に細工された秘密の抜け扉からそっと、司祭は夜の闇に消えた。
「そのまま……そうそのまま……頼むぞ」
フラスコの中では夕凪草を漬け込んだ清水と、熟成させたミタコナの実の粉末が化学変化を起こしてふつふつと小さな泡を立てている。
そのまま、という身振りのように、両手を開き、フラスコに向けて押さえるような仕草をしていた。
フラスコの中の水泡が増えてきてコポコポと音を立て始めた時。
「……あっ、だめだ、だめだめ!」
液体の所々が青白く、弱々しく、ほんのりと光を帯びた。
「だめっ、光ってはだめだ、だめだって!」
だが光はだんだんと強くなり、フラスコの中で蛍が輝くかのように点滅して輝き始めた。
「ああ……だめか」
ため息をついて、栗色のふわりとした髪をくしゃくしゃとかく。
「薬の在庫はもうないんだぞ! はあ、どうしよう……」
この青白い光に、ここしばらくクリノは悩まされている。
夕凪草とミタコナの実から造るのは昔から伝わる関節痛の薬だ。薬師なら誰でも造り方を知っているので、本にも詳しい解説は載っていない。
しかし、夕凪草にもミタコナにも発光素は含まれず、化学反応を起こしても発光素が作られることはない。この単純な薬が発光するなど、聞いたこともない。
発光している時間は短い。化学反応が終わる頃には、いつもと同じ緑の液体になっている。
発光が見られるようになったのは、夕凪草をクリノが自分の畑で育て、薬に使うようになったこの秋からだった。山で取った夕凪草を使っても発光はしない。畑の土に原因があるかと土を入れ替えて育てても、結果は同じであった。
薬師の知識は、子供の頃からファルティノ司祭から教えてもらっていた。
幼い頃は教会の下男の仕事をしながら修道士になる勉強をしていたのだが、聖職者としての勉強に、クリノは向いていなかった。他の子供たちがすぐに覚えられる祈りの言葉を、どんなに努力しても覚えることができなかったのだ。
クリノには両親がいない。司祭や修道士達からは、赤ん坊の時に教会の前に捨て置かれていたと聞いた。
だから聖職者になれなければ追い出されてしまうのではないかと、幼いクリノは必死で努力したのだが、なぜか、どうしても祈りの言葉を暗記することができなかった。
クリノを拾い育てたファルティノ司祭と修道士たちは慈愛を持って、クリノに別の生きる道を示した。それが、薬師としての道だった。
薬師の勉強は楽しかった。そして、野山で植物や生き物に触れるのを好むクリノに向いていた。水を得た魚のようにクリノは薬師の知識を吸収し、今ではラスケスタの多くの人々が、見習いであるにも関わらずクリノのもとに薬を求めにやって来る。
翡翠色のくるりとした大きなクリノの瞳とその笑顔は、体の痛みや病を抱えた人々の光となった。そして、クリノの薬はよく効くと、評判だった。
フラスコの中の光については、気づいてすぐにファルティノ司祭に相談したのだが、司祭の答にクリノは納得できなかった。
「発光した薬はすぐに捨てなさい。そして、発光について誰にも言ってはならない。捨てるのだから発光素を探す必要はない。人々を癒やす薬師が、人々に無用な不安を与えてはいけない」
原因を突き止めたいと言うクリノを、司祭は許さなかった。
発光した薬をクリノは自分で飲んでみたが、特に異常は現れなかった。関節痛とはほど遠く、効き目についてはわからなかったので、黙ってこっそり隣家のマイラ婆さんに一日分だけ処方してみた。
翌日、マイラ婆さんは膝の痛みが全く消えてしまった、おまけに体が十歳若返ったように軽いと、クリノに礼を言いに来た。
発光しない薬と、発光した薬の成分は変らない。発光の原因もわからない。発光について他言してはならない。よく効き、人々を癒やすことができるのに、使うことを許されない。
「何だかね……考えても仕方がないけれどね……うん。お茶にしよう」
一人呟いて、大きく伸びをする。暗く悩むのは、十七歳のこの少年の性に合わなかった。
夜の空に窓を広く開けて指笛を吹く。闇の向こうから羽ばたきが聞こえ、大きなカラスが一羽、小屋の中に飛び込んできた。
「セルゲイ、お腹は空いてる?」
革の肩当てをつけながらお湯を沸かす。大カラスのセルゲイは肩当てがついてから、クリノの細い肩に止まった。
「お前は本当に鳥なのか? 不思議だね。鳥は夜になると目が見えなくなって飛べないのだと思っていたよ」
森で傷ついて飛べなくなっていたセルゲイをクリノが手当てして以来、セルゲイはクリノに懐いている。
クリノが呼べば昼夜を問わず飛んでくるし、セルゲイの方からクリノのもとへ遊びにやって来ることもある。しかし常にクリノの側にいるわけではなく、セルゲイにはセルゲイの暮らしがあるようだ。あくまでも野生のカラスなので、クリノはセルゲイの鋭い爪を切ってしまったりはしない。セルゲイがクリノの肩に止まりたがるので、自分の肩を痛めないよう、肩当てを作った。
セルゲイとパンをかじりながら、お茶を飲む。
十五歳になった時、教会からこの小屋に一人で移り住んだ。親の愛情は知らないが、ファルティノ司祭はもちろん、修道士たちにも、町の人々にも、自分は愛されていると思う。森の動物たちとも楽しく過ごせる。寂しさとは無縁であった。
窓の外に、小屋へ近づいてくる灯りが見えた。急に訪れた寒さのせいで、誰か熱でも出しただろうかと、クリノは小屋の外へ出て来客を迎えた。
幼馴染のアデルだった。少女は急いでいる様子もなく、笑って言う。
「おばあちゃんが薬切らしてしまったって。いつものを、お願い」
「ああ、入って。ちょうど今、お茶を入れた所だから」
小屋に入ったアデルはセルゲイに挨拶する。
「今晩は、セルゲイ」
セルゲイも答えるように一声鳴く。
「時々セルゲイは人間の言葉がわかるんじゃないかって思うわ」
アデルの言葉にきょとんとしてクリノは答える。
「わかっていなかったら、君に『今晩は』の挨拶はしないと思うけど」
アデルはよく笑う。
「クリノにとっては、動物も植物も、私も、同じなのね」
「全く同じでは、ないよ……」
そう返事をし、アデルにお茶を出しながら、クリノは迷っていた。
アデルの祖母のいつもの薬は関節痛の薬だ。ここ数日の間、山に早い雪が降っていたため、野生の夕凪草を取りに行っていなかった。
今クリノの手元にある薬は先程調合したばかりの、発光を終えた分しかない。
しかしアデルの祖母は夜、薬を飲まないと翌日ひどく手指や膝が痛むのをクリノは知っていた。
――マイラ婆さんも、特におかしなことにはならなかったし……。一日分だけなら、いいだろうか。
迷った末に、発光がおさまったばかりの液体をアデルが持ってきた薬壺にいれた。
「今ほんの少ししかないから、一日分だけだけど。明日作っておくから、夜までに届けるって伝えて」
発光について知るのはファルティノ司祭だけだ。黙っていればいい。
「遅いから、送るよ」
「大丈夫よ、来る時も一人で来たのよ?」
「野犬に出くわしたら危ないよ」
クリノは笑って、アデルにコートを着せてやり、自分もマントを羽織った。カンテラと薬壺を持ってドアを開けると、セルゲイもついてきた。
十八歳になったらアデルを嫁にしないかと、アデルの父に言われたのはつい三日前のことだ。
嬉しかったし、アデルと夫婦になるのに何の迷いもなかったが、まだ少し自分たちには早いと思ったので、正直にそう言った。
アデルの母からは、婚約の誓いだけ交しておけばよいとも言われたので、ファルティノ司祭に相談するつもりだった。
アデルも両親からその話を聞いているのだろう。いつもなら元気な声で明るく話す娘だが、今日はちょっぴりしおらしく、うつむきがちに隣を歩く。
夜の冷気から小さな手を守ってやりたかったが、薬壺を右手に、カンテラを左手に持っており、何とももどかしい。
アデルと夫婦になってこのまま一生、ラスケスタの町で薬師として穏やかに暮らしていくのに、何の不安も疑いもなかった。
「グエン叔父さんがね、明日ヴァリヒタルから戻るの。ドレスを、買ってきてくれるって」
「へえ。王都のドレスか。素敵だろうね」
手を振るアデルが家に入っていくのを見届けてから、来た道を引き返す。
――アデルならどんなドレスでも似合うよ、婚約式が楽しみだ。
なぜ、そう言ってやれなかったのだろう。頬にお休みのキスをすればよかった。そんなことを後悔しながら、上弦の月に向かって歩いた。
自分の小屋が見えてきたが、消したはずの灯りがついている。人影が小屋の中で動いていた。今度こそ誰か熱でも出したのかと、走って小屋に戻った。
扉を開けるとファルティノ司祭が蒼白な顔で振り向いた。
「クリノ! どこへ行っておった!」
「アデルを送ってきたのです。司祭様、こんな夜更けにどうなさいました」
「無事だったかクリノ。どこへ行っておったのだ、急がねばならない、ある程度の支度は私が調えた、さあすぐに、すぐに行くのだ」
司祭はクリノの腕をつかんで、急いで小屋を出た。
「時間がない、歩きながら話すから、心を静めてよく聞きなさい。そしてこれから話すことは、他言してはならない」
司祭のただならぬ様子にクリノはうなずくしかなかった。
「私は長らくそなたを偽ってきた。そなたは捨て子ではない、そなたの父と母を私は、よく、知っていた。二人とももうこの世にはおらぬが。
そなたの母の名はミネアラス・エルマ・レイヴン。あのレイヴン家の娘だ。レイヴン家は知っておるだろう、一族は貴族でありながら騎士として王家に仕える。ミネアもまた、女でありながらも、腕の立つ武人だった。
父の名は今は明かせぬ。そなたを守るためだ。今は知らぬ方がよい。時が来れば必ずお前に全て話そう。だが、これを持ってゆくがよい」
司祭は早足で歩きながら小さな小箱を懐から出して開けて見せた。中には掌に収まってしまう大きさの小刀があった。細かな文様が鞘と柄に刻まれており、質素で丈夫そうな作りだった。
「そなたの父からの、預かり物だ」
小刀には紐がついており、司祭はそれをクリノの首にかけてやった。
「片時もその身から手放してはならぬぞ」
「司祭様、私は、どこへ行くのですか?」
「今すぐにラスケスタを出るのだ。町外れに馬を待たせてある。できる限り早く遠くへ、王都と反対へ向かうのだ」
「なぜですか? 私は、ラスケスタ以外の土地を知りません。身寄りもありません」
「北へ向かいなさい。ルクランの領主は私の知人だ、力になってくれる。領主に会ったらその小刀を見せなさい」
「司祭様」
クリノは立ち止まって、司祭に聞き直した。
「なぜ、なのですか?」
司祭は悲しげな目をして、皺深い手でクリノの手を包み、力強く引いて再び歩き出した。
そして極力低く小さく、呟いた。
「そなたに、魔道師の嫌疑がかかっておる」
呆然とするしかなかった。
トラピスタリア王国はグラディスタ神を絶対とするグラスタール聖教を国教としており、魔法や呪術は邪宗の悪しき技として固く禁じられている。
二百年前の魔道師狩りで、国内の魔道師、呪術師は皆、残虐に処刑され、それらを忌み嫌う流れは今でも続いている。
魔道師としての嫌疑がかかれば、国内のどこにいても王都から王家直属の「魔道師狩り」がやって来て捕縛される。一度嫌疑がかかればそれを晴らすのはほぼ、不可能だった。魔道師狩りの手でその場で殺されるか、王都まで連れて行かれて形ばかりの異端審問がされてから処刑されるか、どちらかである。
なぜ、自分に魔道師の嫌疑がかかったのか。クリノは再び、司祭に同じ言葉を投げた。
「なぜ、なのですか?」
「そなた、調合した薬が光るのを誰かに見せたか?」
「いいえ」
「誰かに話したか?」
「いいえ。司祭様の言う通りに……」
一つ、司祭の言う通りにしなかったことがある。クリノは正直に申し出た。
「司祭様、光り終えた薬を、マイラ婆さんに二週間ほど前に、渡しました。それから、さっき、アデルにも」
「一度発光がおさまった後、薬は再び光りはしなかったのだな?」
「はい、発光はいつも一度きりです」
「マイラさんが光っているのを見たのなら、とっくに町中が騒ぎになっているはずだ。マイラさんは、他に変ったことを言ってはいなかったか?」
「特には……とてもよく効いたと、体が軽くなったと言ってくれました」
「……異端審問議会に、そなたが魔法で不老不死薬を作っていると、訴えがあったそうだ」
「そんな、そんな物作れる訳がありません!」
「わかっておる」
司祭がそっとクリノの肩に手を置いた。その暖かさと、そして自分が今置かれている不条理な状況を理解し、自然と涙がこぼれた。
「クリノ、今は言えぬことも多いが、そなたの生まれにも、今までの行いにも、何一つ歪みはない。過ちもない。そなたの心はまっすぐで清い。クリノ、そなたは一人ではないぞ。この国の中に、私以外にもそなたを救いたいと思う者は多くいるのだ。今はまだ、そなたは知らずともな……」
既に二人は町外れまで来ていた。馬が町境の柵に一頭、ぽつりとつながれている。
「司祭様、私は、初めてこの町を出ます……ルクランまで行き着けるでしょうか」
「北の不動の星へ向かって、まっすぐ、まっすぐ進みなさい。そなたを救う手立てを必ずや見出してみせる、しばらくの辛抱だ、さあ、行きなさい!」
有無を言わせない司祭の声に、クリノは戸惑いながらも馬に乗り、馳せ、ラスケスタを去っっていった。
司祭は小さくなるその後ろ姿に司祭として当然の行いを、しなかった。「グラディスタ神のご加護を」と唱えなかったのだ。
代わりに司祭は、不動の星に向かって手を合せ、クリノの無事を心から祈った。
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