夜目遠目、傘の内

「赤い女に声をかけてはならない」

それは、俺の住んでいる町に、いつからか語られるようになった都市伝説のようなものだった。


赤い傘をさし、赤い服を着て、赤い靴をはく女。

声をかけると、魅入られて黄泉の世界へ連れて行かれるだとか、取り憑かれるだとか、結末は曖昧模糊な漠然とした不安。


そして、その女は、今俺の目の前に居る。

恐怖というより、目が離せない。

その理由は一つだ。

この世の者とも思えないほど美しい。

傘に隠れて見えなかった顔が一瞬、こちらを向いた瞬間に俺は恋に落ちた。


今までに、ただの一度も一目惚れをしたことがない。

どんなに美しい女でも、俺は冷静に見る自信があった。

美しい女は鑑賞には堪えるが、実際に話をしてみると面白みのない女が多かった。

面白みがあると思えば、病んでいたりと、今までの恋愛経験から、ロクなことがなかったので、自然と俺は、女の外見にさほど興味を抱かなくなっていたのだ。


その俺が、こんなにも簡単に恋に落ちるほど、その女は魅力に溢れていた。

その女は不思議な女だった。

必ず雨の降る日に、その女は現れた。

駅のホーム、雨には濡れない場所にも関わらず、ずっとその女は傘をさしたままだった。

混雑の中、その姿は傍目にも異常だし、迷惑行為は甚だしいはずなのに、俺の目は曇っていた。


いつも俺とは反対方向のホームに佇んでいるから、俺は遠くから見つめることしかできなかった。

そして、俺はついに我慢ができなくなり、通勤途中にも関わらず、そのホームの方向へと歩き出そうと歩みを進めた時だった。

「よお、おはよう!」

後ろから、肩を叩かれ、振り返るとそこには同僚が白い息を吐きながら立っていた。

「ああ、おはよう。」

「なんだよ、朝から、ボケっとして。そんなんじゃ、仕事でミスるぞ?」

同僚が笑った。

俺は慌てて、彼女の姿を追ったが、もうすでに傘をたたんで、電車に乗る後姿しか見えなかった。


満員の電車に、同僚とともに放り込まれて、自由を奪われて行く。

目的の駅で、電車から吐き出されると、同僚は溜息をつく。

「はあ、毎朝まいっちゃうよなあ。人間の扱いじゃないぜ。いっそのこと、地方の田舎の支社に左遷させられてもいいかな、って気分になるよな。」

「まあな、仕事の前から精神が削られる。」

会社の歯車に組み込まれた俺たちには選択肢はない。

人生のほとんどをこの無益な時間と共に過ごし、安らぎを得るために家族を作り、そしてますます歯車から抜けられなくなる。ようやく家族と有益な時間を過ごすことができるような年になった時には、自分の居場所がそこに無いというのはよくある話だ。

若いのに、そんな絶望的な話をするなよと同僚が笑う。

実際にうちがそうだから仕方ない。

俺がなかなか実家に寄り付かない理由も、そんな冷え込んだ関係の家に戻りたくないからだ。


現実逃避。

しかし、俺には目をそらす勇気はない。

恋愛に関しても、さほど興味がなく、来るもの拒まずできているから、当然女には愛想を尽かされるわけだ。

女は鋭い。自分が愛されていないことに敏感だ。

だから、執拗に愛しているかを問う。

口だけの愛しているは、通用しないのだ。

恋愛は面倒くさい。だから俺は、ここ数年、彼女は作らずに一人で居ることの気楽さを楽しんでいたのだ。


その俺が、一目惚れをした。

どうしても、彼女と話がしたい。

俺のほうを振り向いて欲しい。


そして、ある日の夕暮れ。

珍しく、会社を定時で終わることができた。

取引先から直帰して良いとの会社からのはからいで、俺は普段乗らない時間の電車で帰宅することになったのだ。

あの女は、相変わらず、赤い傘に赤い服、赤い靴で佇んでいた。雨も降らないのに、傘をさし、人混みに紛れていたのだ。俺は必死で彼女を追いかけた。


俺が声をかけると、女は驚いたように振り向いた。

「雨も降らないのに、どうして傘をさしているのですか?」

「私、肌が弱いんです。少しでも日に当たると、肌が水ぶくれになってしまうから。」

そういう皮膚の病気を聞いたことがある。

そして、俺は、彼女が幻ではなく、実態を持った女性だということに喜びを隠せなかった。

都市伝説など、バカらしい。やはり彼女は実現する女性だったのだ。

俺の執拗なナンパ攻勢に負け、なんとか彼女とアドレスの交換をすることができた。

彼女の名前は、真帆。

皮膚の弱い彼女とは、昼間のデートはままならなかったが、夜逢うことはできた。

だが、彼女の家は、門限が厳しいらしく、9時前には彼女を送らなければならなかった。

家に送るというと彼女は、頑なに駅までで良いとやんわりと断ってきた。

俺はまだまだ、彼女に受け入れられていないようだ。

彼女に何度か、好きだと伝え、キスまでは許してもらえたが、そこからの進展はなかった。

そのことが、余計に俺を燃えさせた。


ある雨の夜、彼女は俺を待っていた。

いつも、俺からの呼び出しに応じる形で逢っていた彼女が、自ら俺の帰りを駅のホームで待っていたのだ。

彼女は相変わらず、駅のホームにもかかわらず、赤い傘をさしていた。

「待っててくれたんだ。嬉しいな。」

俺がそう相好を崩すと、彼女は微笑んだ。

今日は、彼女の家まで一緒に帰ろうと言うのだ。

俺は歓喜した。ようやく彼女に受け入れられた。

電車がホームに入ってくると、彼女は傘をたたみ、俺の手を引いた。

夢のようだ。俺はフラフラと彼女の後をついていく。


「危ない!」

俺は、いきなり、後ろから手を引かれ、体が後ろに倒れそうになった。

そして、鼻先を猛スピードの電車が通り過ぎていった。

手を引いているのは、同僚だった。

「彼女は?無事か?」

俺は、すぐに同僚にたずねた。

「はあ?彼女?どこにいるんだ、そんなもん。お前を見かけて、フラフラしているから、心配になって近づいたら、お前、いきなり特急電車に飛び込もうとしたんだよ。お前、何があったんだ?話して見ろ。」

「女が、女がいただろう?赤い服に、赤いかさを持った女。アレ、俺の彼女なんだ。彼女、どこにいったんだよ!」

「はあ?そんな女はいなかったよ。お前、大丈夫か?」


嘘だろう?


俺は今までの経緯を話した。

いつも向かいのホームに赤い傘に赤い服の女がいたこと。

声をかけて、付き合うようになったこと。

「俺も今まで、ずっとお前と同じ駅から通勤していたけど、そんな女は見たことが無い。そんなに目立つ風貌だったらわかるはずだ。」

同僚はそう答えた。


彼女は幻だったのだろうか。

その日以来、彼女からはまったく連絡もないし、電話番号も使われていないと告げるばかりだ。


失意の俺の前に、夕方、逢魔時と呼ばれる時間帯に、彼女は再び現れた。

彼女は珍しく傘をさしていなかった。

確か、傘をささないと、皮膚が水ぶくれになるのではなかったのか。

彼女はぼんやりと、夕日を見つめていた。

そして、俺は、彼女の違和感に気付く。

行き交う人々の影が、長く伸びているにもかかわらず、彼女の足元には影がなかった。

俺はそこで、全てを悟った。

そして、彼女に気付かれぬよう、そっと後ろから彼女に告げた。


「ねえ、影はどうしたの?」

彼女が傘をさして、人混みに紛れていた理由はこれを隠すためだったのだろう。

自分に影の無いことを隠すため。異様な格好をしていれば、自然に足元の影ではなく、彼女の姿だけに人の目はとらわれてしまう。

その姿を見ることのできる人間は限られているのだろう。


その日から、彼女はずっと俺と暮らしている。

それが俺の望んだことだから。


人間に気付かれた魔物は、ずっとその人間の言うことを聞かなければならないのだから。

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