四章(急)・18
失うことで与え、与えることで失わせる。
多層多面で構成される異世界ハルタレヴァの、それは根底に共通した
過剰な幸福感で自我を奪う。第一層、【求愛の
記憶を失わせ安楽を与える。第二層、【常春の夜】。
そして、
第三層。
多層自意識内世界無制限願望具現化構造――
――【満願の園】。
「しぃいぃぃいいいぃいャァッ!」
振る舞われる大鞭。
横薙ぎの軌道。のたうつ暴力。撓んだ凶器。一線打撃。
全長にして100メートルはあろうかというそれを、
「だぁぁぁぁぁあああぁあぁッ!」
田中は真下から切り払った。
荒唐無稽な膂力。切断せず打撃。揺れ逸れる軌跡。伝導破壊。
一瞬早く手を離すことで、グヤンキュレイオンの影響が本体に伝わるのを天使は避けた。
歪曲が矯正される。
不自然は元に戻る。
天使の手が空になる。
何の問題も無い。
「『槍よ、在れ』」
その願いと同時に、彼女の手には、新たな武器が出現した。
馬鹿馬鹿しいほどの長槍。障害たる重量を感じさせぬ、羽の如き取り回し。
繰り出される刺突は、瞬きの内に百を貫く。
グヤンキュレイオンで向上した性能でも追い付き切れない。その性能の解放が十全であろうと、彼女とて万全だった。
元よりこの世界に在るモノ。
外様の侵入者ではなく、異世界ハルタレヴァを構成する要素の一つ。
そして、この世界を創った主の任命代行者。神の手で成る被造物。
【天使】。
鎧を纏った重装の田中とは対照的に、その衣服は薄く、軽く、美しい。
身に巻きつける羽衣は、隅から隅まで【神に与えられし権威】にて織られた理外の品。この姿になるということは天使にとって、全能力解放の表明に他ならない――さながら、公務員がアイロンのかかったスーツを着るように。
不自由さをあえて楽しむ“ごっこ遊び”は終わった。
天地ほどにも開きがある。
持って生まれた力が違う。
分不相応な剣を振るい、似合いもしない鎧を着込み、無様に足掻く人間を――天使は、その背に生えた翼で以て、遥か高みより見下ろす。
今しがたの槍、神の権能の具現たる【太陽の鎧】に傷をつけられる武器さえも使い捨てにし、
「『山よ、在れ』」
畳み掛ける。
そこに生じる。
本来、このような形で、このような向きから、決して見られようはずもない――真下から眺める、土と、岩と、植物と、水と、マグマの、数え切れない多くの要素が、一つの存在として固まった、その塊の、下部分。年輪じみた、断面図。
落下してくるそれに、
神剣を構え直し、
「うぅぅぅぅおおああああぁああッッッッ!!!!」
真正面から、突き貫いた。
グヤンキュレイオンの刺突、その先端が山へと接したその瞬間、軌跡の延長線上までも貫く穴が巨大な穴がそこに開く。その一点をきっかけに、山は崩れて二つに割れる。落下軌道が田中を避ける。
あまりにも容易い。
容易過ぎる、と気付いた時には、もう遅い。
寄られている。
大胆不敵に。
怖れを知らず。
たとえ相手が神の第一次被造物であろうとその権能を執行する、グヤンキュレイオン――山塊崩落の派手さに紛れ、その間合いに踏み込んできた天使が、
「『
打ち抜く拳の一撃で、田中を吹っ飛ばした。
何かの冗談のような速度と距離。
キロメートル単位の移動。
その余波で破壊する。
濫立した建築物。侵食した動植物。宙を泳ぐ奇怪な鉄塊。鯨が踊る巨大な水槽。千の足を持つ蛇。眼の無い竜。
巨大なマシュマロに跳ね返って、ようやく止まった。
悪夢の中にいるようだった。
地面に落ち、立ち上がり、田中は改めて――無秩序の蔓延る地獄を見つめた。
【満願の園】は、人の求めたものが具現化する楽園である。
類似を探すならば、それこそ――田中も経験済みの、【人の願いが叶う世界】が相当近い。
そこに、ありったけの狂気と、澄み切った悪意と、丁寧に丹念に仕上げられたとびっきりの呪詛を混ぜ合わせれば、きっとこういう場所になる。
神為的に操作された、
「っ、」
足元に纏わりつく、どんな図鑑でもどんな異世界でも見たことのない蛭と蛞蝓と蟷螂を足したような何かを振り払う。
ここにあるのは全て――落ちてきた人間の、想像から生み出された現実だ。
それも、第一層と、第二層で、十分に精神を歪められた者たちの。
彼らは、【種】だ。
この世界を願いで満たし、創造神を喜ばせる、独善の花を咲かせる為の。
神が、人の愚かさを笑いたい時に眺める、明確な証拠としての庭が、ここだった。
想像力や願望の、本来の働きを管理し、時にアクセルとなり時にブレーキを兼ねる【理性】を取り払われた人間は、通常の社会の中にいては思いもつかない、或いは思ってはならないと自ら禁じる願望を、蛇口の壊れた水道のように垂れ流しにする。
そして、それらの空想とも妄想とも付かない思考を、【満願の園】は無差別に拾い上げて形を持たせる。
自動的に。
強制的に。
悪意的に。
第二層で、本来ならば区別されない記憶の喪失を、意図的に残す部分を選ばれた、出力する要素を限定された【お気に入り】がここに落とされる。
「――――その結果が、この有様か」
何を願って。
何の為に。
何が欲しくて。
何に憧れ。
そういうことすら、窺えない。
推測し、覗こうとすれば、その汚染に侵される。悲鳴を上げながら飛ぶ綿毛、落とした帽子を探し続けるコーヒーカップ、結合と分離を繰り返しながら笑う影絵の群、逆立ちして空中を歩く三匹の鼠。
これらを生み出した本人は、何処に居るのだろう。
きっと、そこらじゅうに居るのだろう。
今も見える。
ここにも居る。
透き通った人間たちが。
一見して、彼らは第二層の住人たちのような状態にも見える。
違うのは、誰もが皆、心の底から満ち足りた笑顔を浮かべていることだ。それだけで、【完全に幸福だ】ということが、寒気がするほどに窺える点だ。
そして、.ここに居る誰にも、触ろうとしても触れない。【太陽の鎧】による、【浄化】も届かない。そういった領域に居ない。
この世界を創り出した創造神の、最も得意とする権能――【
彼らは一人一人、誰もが自分だけの、自分の異世界を与えられて、何もかもが願うだけで叶う、手に入る、理想通りの中に生きている。願望の実現を、うっとりと眺めている。
――――ああ、つまり。
この地こそは。
【満願の園】こそは。
人間が、創造神を体験出来る――段違いに優れた異世界だと、言えるのだろうか。
【幻想】を与え、【現実】を喪失させる、人の手が届いてはならない誘惑に満ちた、有り得べからざる神の庭――
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