四章(破)・08
守月草運動公園総合体育館の、在りし日の姿や今何処。
もぎ取られたバスケットゴール、真っ二つに折れたバレーの支柱、開け放しの倉庫を覗けばマットからは綿が飛び出し、跳び箱の木枠は微塵切りになって散乱、バリケードとして使われて突破された卓球台、中心から食い破れたネット、床に壁に天井にまで抉れ裂き刻み付けられた生々しい爪の跡。
正体不明の猛獣が何十匹も暴れまわった――そんな空想が湧き出てくる惨状の中心点に、
そいつらはいた。
思わず口をついて出た。
「田中が死んでる」
死んでいる。
生傷だらけの身体。
ずたずたに傷ついた、異世界公安訓練服。
状態はまあひどいものだが、とりあえず命に別状は無いようだ。精神は別にして。
手足を大の字に投げ出し、規則正しい寝息を立てて、彼は、砕けた刃物、唐竹割りの突撃銃、潰れた棍棒、T字に開いたさすまた、ピンだけが残った手榴弾、繰り返し繰り返し繰り返したらしい激戦の名残の中、一時の休息についていた。
「おかえり、クドウ」
対して。
こちらはもう、何語る必要も無くなるほどに明確だった。
袖の端から裾の端まで、汚れも破けもしていない訓練服。呼吸も乱れていなければ発汗の名残も見つからず、その出来過ぎた程の美貌には掠り傷さえ有り得ない。
グヤンヴィレド・ベル・オウル。
無防備に眠る主を
「どうですか、そちらの手筈は」
「そうだな。紆余曲折ありはしたが、ともあれ必要な【手続】は無事に完遂された。やれやれ、骨が折れた。中々どうして難儀だった」
「でしょうね。そのひと、それで案外堅物ですから」
「知っている。忠を捧ぐに値する身勝手さだよ」
「あら。あなたは、真っ直ぐなものにしか興味が無いと思いましたが」
「ああ、かつてはそうだったかもな。先日グヤンドランガを出て以来、御蔭様で見識が広がったもので、色々と気がつけた。人が何かに惚れるのは、得てしてその美しさに感銘を受けてのものだが、時に、その歪さに魅入られることもある。彼にあるのは、そういう類の目の離せなさだ」
「それはそれは妬けてしまいますこと。大概に貴方も尻軽ですね、皇帝陛下。それに些か意地も悪い。かつてあれほど情熱的に愛を謳った女の前で、きっぱりと興味が移った様を宣言してみせるだなんて」
「なに。これも挨拶さ、クドウ」
「ふうん?」
「先達への敬意、と受け取ってくれればいい。或いは――『油断してるとその席を頂くぞ』とでも言うべきかな?」
「……こんの、駄犬」
「生憎と。お仕着せのしつけなんぞは一旦全部忘れてしまえというのが、敬愛する最初の飼い主からのお達しでね」
放った平手が空を切る。
オウルは鷹揚に笑い、ネフティナが溜息を吐き、そして、眠る田中の頭の横へ屈みこんで頬を撫でた。
「こちらの準備は順調です。田中さんへの定着も、次に目覚める頃には終わっているでしょう。出発は――そうですね。
「予定通り、というわけか」
「手筈通り、というわけです」
「話を聞いた時にも思ったが、随分と急だな。急過ぎる」
「猶予がどれだけ残されているかがわからない。必要最小限の条件が整い次第作戦を決行するように、というのが上層部の命令ですので」
「大変だな、兵士というのは」
「現場の人間にはいつだって、上司の都合に無茶と苦労が付き物ですよ。異世界コンサルタントも、異世界公安も変わりません――いいえきっと、何処の世界でも同じなのでしょうね、困ったことに」
「参ったことだな、まったく」
交し合う、乾いた笑い。
「出来ればいつまでも、こうして田中さんの寝顔を眺めておきたいのですが、そう言ってもいられませんね。場所を移しましょう」
「ここは?」
「ああ、放っておいて構いません。
よいしょ、と田中を担ぎ上げるネフティナ。
それにオウルは手を貸さない。重荷に看過せずなど紳士的とは言い難いが、それよりも、先に淑女の願いを酌む。
というより、その必要も元より無いのだ。
異世界公安、現場組。
その鍛え方も柔ではない。自分より大柄の成人男性を、ネフティア・クドゥリアスは易々と運搬していく。
――改めて。中立的な、贔屓の無い物差しで計る。
この場において。
【戦力】として、最も劣る人間は――どう足掻こうと、田中だった。
「クドウ」
「なんです、グヤンヴィレド」
「君はどう見る。タナカが、あの大創造神とどう闘うか。どの程度の勝算を持つか」
「そんなもの」
当然のように、帰した。
「ゼロに決まっているでしょう。彼がたとえ――【神殺しの人】でも」
そうだ。
それを、初めからネフティナは、わかっている。
何故ならば。
もしもそれが出来たのならば、彼が本当に、異世界公安の上層部が思っているようなジョーカーだとしたら――
――そもそも、こんな事件を起こす前に、ハルタレヴァは十二年前に消えている。
「
「――おい、では、何か。君は、勝ち目がないとわかっていて、それでもタナカを奴らの元へ送り込むつもりなのか。その荒ぶる御霊を宥め賺す、生贄でもするつもりか!?」
「はい。驚きましたね、グヤンヴィレド皇帝陛下。貴方、本当に賢くなられた。よくわかっているじゃあないですか」
残酷な言葉。
上から目線。
そこに、オウルが怒りを燃やして掴みかからなかったのは、
彼女が。
ネフティナが――【勝ち目の無い戦い】を投げ出したのとはまるで違う、不敵で、悪辣で、一筋縄ではとてもいかない、策謀の笑みを浮かべているからだった。
「ご機嫌伺い、異議申し立て。真正面から勝てない相手を曲げるには、弁舌搦め手騙し討ちこそ正道で、それでも駄目ならいよいよ以て、ルール外ルールの御登場――俗に言うところの神頼みと相場が決まってるんですが、ここで重要なのがまた、何を祈るかというよりも、誰が祈るかが大事な場合というのがありまして」
だから田中さんなのです、と。
ネフティナ・クドゥリアスは――彼と二十一年来の付き合いを持つ友人は、宝物を自慢するように、笑った。
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