四章(破)・05



 穏やかな喧騒に満ちる、居酒屋の空気。

 あの日から随分と年月を足した顔で、そういえば、と浩幸が言う。


「どのぐらい振りだったかな。こうやって一緒にお酒なんて呑むのは」

「……僕が、松衣の出張から帰ってきた後の、課での飲み会が、最後だったかな」

「いや、」


 相手の。

 顔より後ろの、もっと遠くを見る表情。


「親子として、だよ」

「、」

「君がまだ、情けない僕を、親と思ってくれるのなら、だけどね」


 言葉が止まると、賑やかになる。

 空白に雪崩れ込む周囲の状況。満員の店内。色々な客層。会社員同士が愚痴を吐き出し合いながら笑っている。しみじみと泣く女性を寄り添って慰める女性。調理の音。喧騒の声。明日一限出たくねぇなあ、と清々しく言い放つ大学生。


「僕が、大学を卒業して。守月草の異世界転生課に、就職が決まった夜だ」

「――――ああ、そうか。そうだったねえ、そういえば」


 酒ではなく、水を飲んだ。

 グラスの中の氷が揺れる。

 過去を見るように、田中浩幸はわずかに俯く。


「もう、そんなにも経つのか。あれから」


 “あれ”とは、いつのことだろう。

 親子として酒を飲んだ最後か。


 高校の頃か。

 中学の頃か。

 それとも、


 少年が、神様を諦めた、あの夜か。


「ずっと、聞きたかったことがあるんだ」


 視線が戻す。

 田中は見る。

 義父の手が、かすかに震えた瞬間を。


「君は、僕を恨んでいるよな」


 昔。

 普通に、普通の、当たり前の、【家族】をやっていたころ。

 やれていた、ころ。

 その時節は、【守月草神隠し事件】という分水嶺で彼方に消えた。


 攫われた子供は、【親の愛情】を受け付けぬまでに変貌し。

 妻を失った父は、知らず蝕まれていた【絶望】で枯れ果て。

 互いに。

 まるで、別世界の相手に触れるような、余所余所しい関わり方しか出来なくなっていた。


 表向きは平穏に、問題無く、順調に。

 しかし、その根の部分は、決して交わることが無く。

 ただ、臆病で。

 触れ合うことが、恐ろしくて。


「君が帰るべき場所を、僕は守れなかった。それが原因なのだとは、どうしたってわかっているんだよ。もしも、……あの日、きちんと妻と一緒にきみを迎えられていたのなら、あそこまで思い詰めさせることは無かった。までに、追い込まずに済んだんだ」


 情けないなあ、と自嘲する。

 五十九歳の無念が、狭い座敷に吐き出されてわだかまる。


「今になって思うなんて、本当、不甲斐ない話なんだけどね。僕がしなくちゃいけなかったのは――傷ついてしまった君を、不用意に触れることで苦しめないこと、僕と話して嫌なことを思い出さないように、出来るだけ遠くから見守っていることなんかじゃあなかった」

 

 他人行儀な会話。

 心地良いだけの距離感。


 求められたものを渡すだけの、

 それ以上でも以下でもない、

 超過の。

 線を越えて踏み込むことの無い、関係性。


「お笑いさ。結局、言い訳でしかなかった。誰より傷付きたくなかったのは――何のことは無い、僕だ。妻に先立たれ、その上、折角帰ってきた君にまで拒まれるのは絶対に嫌だと恐れた、勇気のない義父だった」


 愛あればこそ。

 愛すればこそ。

 それを失うことは堪え難く、

 そして、心を曇らせる。


「違う。違うんだよ、そうじゃない。僕のことなんか、どうだっていい。たとえ僕が、君に心の底から嫌われることになったとしても。いつか君が、自分のことを、自分の周りの世界のことを、またあの頃みたいに好きでいられるように――その傷口が決して治らないものならば、それを認めた上でどう生きるのか、苦悩を一緒に克服する為にその隣で関わることが、僕の、親としての役割だったんだな」


 それらは、過ぎ去ったことだ。

 既に歩き終えた道。結果になったかつての未来。


 どれだけ悔やもうと。

 ようやく分かろうと。

 手の届かない、硝子の向こう。


「【連盟】から連絡があって。天照主祭神と話をして。君を、彼女とこれ以上関わらせてはならないという話が、纏まった時。僕は、安心、したんだ。君がやっているのが、どれだけ過酷で、険しくて、自分自身を苛め抜く行為なのか、わかっていたから。【創造神と手を取り合っての異世界創造】なんて――君にとって、どんなに酷な話だろう」

 

 猪口を、傾けた。

 深く、息を吐く。


「僕は、君を、課長の立場として庇えなかったのじゃあない。自ら望んで、庇わなかった。むしろ、賛成さえしていた。そうだ、君には、本当は――――【異世界転生】になんて、関わって欲しくは、なかった」


 そうして、目を見る。

 父が、子の目を見る。


「気持ちが悪いと、何様だと、言われることを承知で言うよ。――――僕にとっては。どんな神より、息子が大事だ。たとえ彼女が泣いたとしても、君に幸せでいて欲しかった」


 それは、心底だった。

 本物の、真心だった。


 彼の、田中浩幸の、責任を抜いて、立場を越えた、“やらなければならないこと”を上回る、“やりたいこと”がそれだった。

 何を。

 引き換えにしてもよいと、感じるほどの。


「――――そうやってまた、良かれと思ってしたつもりの決断すら、間違いだったんだな」


 返事は、要らない。

 その結果がどうだったのかを、今、浩幸は目の前にしている。


 伸ばした背筋。

 結ばれた口元。

 決意を秘めた、その眼差し。


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