三章・07
「あ、」
気付いたのではなく、偶然だった。
部屋に戻り、寝る前に、少し。
広縁にあった揺り椅子で、外の風景でも眺めようと気まぐれに思った。
そうしたら、先客と出くわした。
「田中さん」
「どうも、女神様」
囁く小声。
夜半に相応しい静けさで挨拶して、二脚ある椅子の、もう片方に腰を下ろした。
「眠れませんか」
「ちょっと、考え事をしたくって」
隣り合い、しかし、向かい合わず。
二人、同じ方向を眺めた。
夜の海。
漣の音。
虫の声。
「最近、天使が明るくなったんです」
ぽつりと。
彼女が不意に、語り始めた。
「よく動いて。よく喋って。毎日自分がやるべきことを、探して、目指して、がんばってる。この間までの彼女は、いつでもぴんと張り詰めていて、一生懸命というより、必死な顔ばかりしていました。私から求めれば、笑って話してくれたりはしましたけれど、でも、余裕があることなんてなかった」
「……」
「でも。この間からずっと、そうじゃない。随分と、柔らかく接してくれるようになりました。――田中さんと、出会ってからは」
噛み締めるような言葉に、いいえ、と田中は首を振る。
「天使さんが変わったというのなら、それは、あなたによってですよ、女神様。彼女の日々に彩を与えたのは、あなたが踏み出した一歩だ。あなたが、三百年の悩みに対して、外と関わりを持とうと決めなければ、きっと彼女の世界もまた、閉ざされたままだったでしょう」
返答は、すぐには無かった。
やがて、
「――ずっと、蹲ったままだった」
遠い目で、そう、女神が呟く。
「誰も来てくれない世界。誰にも求められない
「――――」
「こうして欲しい、という要望ならばそれに応えることが出来る。こう創らなければならない、と
――だから。
その、【キレイなだけの世界】、【変化の無い瓶詰】を、満たそうと思ったのならば。
まず、【汚す決意を持つことこそが始まりなのだ】と、気付くことさえ出来なかった。
「『余所の異世界転生課に相談に行ってはどうか』、と。教えてくれたのは、天使だったんです」
「彼女が……?」
「きっと、見るに見かねたんです。私があんまりに、不甲斐ないものだったから」
苦笑と、自嘲の、入り混じった表情。
「あの子には、感謝しています。感謝しかないんです。いつか天使に、本当に、【一緒に居てよかった】と思って貰えるようになるのが――彼女が働いていて、楽しいと思える場所を作るのが、私の望みなんです、田中さん」
背凭れに身を預けて、女神はじっと、天井を見る。
上を、目指す。
「お恥ずかしくも情けなく、目下、夢のまた夢ですけどね。まだまだ不勉強で、経験も足りないことばっかりで、未熟だらけの創造神には。何せ、こういうところがあるのも、その素晴らしさも知りませんでした」
「お。その口振りだと、旅館、気に入りました?」
「はい。実に、実に実にいいところですね。先程、パンフレットを読ませて頂いてわかったのですが――この不思議な弛緩、【まるで自宅にいるようなくつろぎ】と表すのだとか」
ゆったりした気分。
緊張の解れる心地。
そういうものを指す形容。
「私、いまいちそこのあたりの、【家】という概念はまだ理解しきれていなくて」
人には人の悩みがあるように、創造神には創造神の悩みがある。
庶民にならば容易く想像出来る、あの“誰気兼ねない安心感”、“世界で最も油断出来る時間と空間”のごくありふれた感触を、彼女は必死に掴もうと唸っている。
「はは。参考資料なら、それこそ楽に見られますよ。ええ簡単ですとも、そのあたりのお家に夕方ごろぱっとお邪魔して、中を覗かせて貰えばいい。普段僕たち人間が、どんなふうにささやかな日常を、体験を家に持ち帰って過ごしているのかが、きっと思わず吹き出してしまうぐらいに理解してしまうでしょうね」
その隣で、うっかりそんな軽口を滑らせたしまったのが運の尽きだ。
「田中さん」
「はい?」
「言いましたね?」
事態に。
不味さに。
気がつくのも、今更だ。
「では。今度、田中さんの家にお邪魔になって、密着取材をさせて頂いても構いませんでしょうか。決してやましい目的ではなく――創造神的な勉強でっ!」
「…………さて。明日も朝から用事がありますし、そろそろ休むとしましょうか」
「あっ、あーあーあーっ! 田中さんもしかして逃げるんですか!? それってずるくないですかひどくないですか男らしくないと思いませんか!?」
「女神様、どうぞお静かに。天使さんも寝ていらっしゃいますし、他の宿泊客のご迷惑になりますよ。グヤンリーでは夜通しの騒ぎでしたが、本来、とくに日本のこういった風情ある場所では、静寂を存分に味わうのが粋というものですので」
「むっ、う、う、ぅううぅううぅう……っ!」
遠縁から退散し、いそいそと布団に潜り込む。
「では、静かに交渉を」
「……っ!?」
神様というやつは時に人間の予測もつかないことをする。
自分の部屋に帰った、と思われた女神が、するりと田中の布団へ、ごく自然に、当たり前のように、躊躇無く潜り込んで来た。
「な、な、な、何をしていらっしゃるんですかあなた……!?」
「ふっふーん。甘いです田中さん、私が簡単に引き下がるとお思いですか」
近い。
近い。
近い。
否、それどころの騒ぎではない。
密着。
一人用の布団に、大の大人が、正面から向かい合う形で、同衾。
それも、温泉上がりの、夏の、涼やかな浴衣で、あの、豊満な女神が、だ。
この絵は、状況は、非常に不味い。
死ぬ。
諸々の倫理が此処で死ぬ。
「さあ、じっくりおはなし致しましょう。こうして距離が近ければ、声を張り上げずとも強く意志を伝達出来ます――あ、そうですね、いっそ頭からお布団をがばーっと被ってしまえば、こう、回りをもっともっと気にせずに何もかもが自由なのではないでしょうか!」
有限実行の女あらわる。
身体ごと布団を持ち上げ、そのまま田中を取り込むように覆い被さろうとし――
――すんでのところで、田中が敷布団から転がり離れ、魔の手を避けた。
「め、め、め、女神様?」
返事は無い。
そこにいるのは一匹の猛獣だ。
獲物を見定める眼光、じりじりと畳の上をにじり寄るその動きは、田中がどちらに逃げても瞬時に反応する構えを既に取っている。
背後は壁、出口は遠く、何をするにも時間が足りない。
一跳びで届く
考えるだけの猶予は無く、
背に腹は返られなかった。
「わかりました! 秋頃を目安に出来る限り予定を調整いたしましょう!」
ギリギリ窮地のファインプレー。
多少の具体性を持ちながら、実際は何もかもが|曖昧《ファジー)な提示。まだ絶妙に各部の調整、ともすれば言い訳さえきく、後出しの余地ある肯定。汎用性に於いてはあの【行けたら行く】にも迫る、これぞ田中が日々培ってきた、対人会話スキル交渉部門の一つの極北……あまり威張れたものではない分類の!
その効果は覿面だ。
恐怖のにじり寄りが、境界線を越える寸前で止まる。猛獣の本能に、確かな理性の色が宿る。
かろうじて微笑みと取れなくはない表情の田中と目が合って、
女神は一言、
「…………ちぇ、」
あともう少しだったのに、と取れなくもないニュアンスの反応をした。
今日は火を焚きながら寝たい、と田中は思った。
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