一章・06
知らないということは、それはもうやさしい。
資料を読み終えた田中は、まず、五秒間だけ瞳を閉じて首を反らした。
状況は。
状態は。
想像していたよりも、ずっと。
「青ざめていたことからして、おかしかったのです」
今気付いたが。
机の上には、お冷やがピッチャーで置かれている。
工藤はそれを手酌でグラスに注ぎながら、言う。
「主祭神分霊憑依保険は、別に特別でも新しかったり古かったりするものでもない。何処の異世界転生課、ごく一般的に用いられている制度だ」
「むしろ、無いことのほうが考えられない。調査に行った先で命を落とさないように済む、そんな当たり前の権利すら知らなかったとなると、可能性は二つかな」
「世界は創り人は招くが、その公務に携わる部下の安全などどうでもいいと考える
「異世界和親条約に基づく各界共通の異世界転生の仕組み自体に、本当に詳しくなかった場合」
「不勉強と言うべきですね」
「事情があった、と考えるのは?」
「だからこそ、厄介なのでしょう」
頬杖を突き、資料を示す。
工藤もさぞかし頭が痛かったろう、と田中には容易に想像出来る。
何故ならば、田中もこれらを読み込んでいる内、「どうしたものか」という言葉を何度飲んだかわからない。
「創造神様も創造神様で決して一概に『ああだこうだ』と分類されるものではない。世暦以前のかつての世では【神】という言葉、概念、存在に対し、ある程度共通したイメージがあったと聞きますが、とんでもない。それはあくまで姿の見えない、【畏れ敬うべきもの】に対して築かれた想像だ。現在では、少なくとも【創造神】と呼ばれる方々に関しては、電話一本で確かめられる。彼らが、人より余程はっきりとした欲だって持っているということが」
だからこその、異世界和親条約だ。
個性に溢れる創造神たちは、自分の創りだした世界に新たなる来客を、遠き場所からの異邦人を招くことを喜びとした。
それぞれのセールスポイントを、メリットを、提供出来る新生活とその先の幸福を主張して、神々は、あの手この手で人類をもてなし始めたのだ。
世に言う世歴の紀元。
『ここで終わり』とされていた世界の壁は、そうしてすべてが取り払われて。
地平線のその先に、新たな景色が広がった。
「神様は大勢いるけれど、その中には、どうにも怪しい手合いもある。そんなこと、異世界転生課の私達には――異世界派遣調査員の貴方には、よぉくわかっていますよね?」
【名無しの女神】。
というのが、そもそも有り得るものなのか。
答えは、限りなくノーに近い。
世界を創り出し、異世界との交流を持とうとする創造神は、皆、どのような経緯であるにせよ名を持つものだ。
崇められる過程でも。
恐れられる用途でも。
【異世界転生】の窓口を開設するならば、それは即ち、生命と文明をその世界の中に持つということであり、自らの存在を知られているということなのだから。
「あの女神の世界には、誰もいない」
だから。
それを覆す例外とは、明解で、単純だった。
「喚き散らしていた言葉は真実でした。彼女の生み出した世界には現在、知能を有するモノは存在せず、また、世歴元年以降に転生者を迎えた記録も無い。生命も文明も、彼女が名前を有する為の条件は、一つたりとも満たされていなかった」
規格外。
範囲外。
極めて奇妙な、問題外。
「これは、余りにも異質です。私の見解を言わせてもらえば、田中さんの、一介の公務員が手に負える案件ではない可能性が、非常に高い。早急に手を引き、あの方の機嫌を損ねない内に、より相応しい機関に更なる調査と解決を依頼するのが懸命で、
「工藤さん」
静かに。
丁寧に。
続く言葉を、押し止めた。
「僕は、今日さ。あの方に――もう、願いを、聞いたんだ」
「っ、」
「教えてくれたよ。眼を輝かせて。自分の世界を、どうしたいのか。これから、どんなふうになりたいのか。参っちゃうだろ。そうなった以上、もう、途中で手を引いたりなんか出来ないじゃないか」
「田中さん、」
「っと、もうこんな時間か。ごめん、こちらから誘っておいて悪いけど、そろそろ行こう。勿論、明日も早いからね」
「――なんて、白々しい」
隠しもしない不快。
深々とした、溜息。
「どうせ、寝るつもりもないくせに」
「……う。な、何を証拠に」
「わからいでか、です」
むべなるかな。
工藤は取り出した手鏡を田中に向ける。
その顔には、アルコール由来の赤味が全く無い。
工藤が純米大吟醸を、それはそれはうまそうにかぱかぱとやる真ん前で、田中は一滴の酒も飲まなかった。
普段は。
そんなに強いほうでもないが、工藤に付き合って決まって一杯嗜む彼が。
「最後に、ひとつ聞かせてください」
「僕に答えられることなら」
「どうして、そんなにも乗り気なんですか、田中さんは」
「そりゃあそうだよ。どんなことでもやらないと。何しろ異世界派遣調査員は、例の保険を筆頭に、市役所の福利厚生が無いととてもじゃないけど成り立たない、潰しのきき辛い資格だから。稼業にしていく為には必死になんなくちゃいけないし、それに、大変な分だけ、やりがいもあるしね。……そこまで手当てもよくないけどさっ」
ピッチャーは半ばほども空いている。
元々酒には強いほうで、そこまで水を飲んだおかげで結構酔いも薄れているだろうに、工藤はやたらじっとりとした眼で目の前の同僚を睨み付けた。
――――言ってくれないんですね、と。
そんな言葉を、視線に篭めて。
「く、工藤さん……?」
「ばか」
凄まじい直球かつ豪速球。
それに怯んでいる隙に、先を取られた。彼女は伝票を引っ手繰るように掴むと、田中より先に座敷を出る。
「いいでしょう。わかりましたよ。私の負けです。ばかはきらいじゃありません。気が変わりました。今日は私がおごります。おごらせなさい。おごるんです」
「え、えぇっ!? いや待って待って工藤さん、それじゃあ約束が!」
「黙りなさい田中。一人だけ酒を飲み挙句代金だけを肩代わりさせるとかそんなことを私にさせるつもりですか。させません。お酒に恥ずかしい真似など私には断じて出来ません。明日もまた楽しくお酒と向き合う為に、私は堂々と我が道を行くのです」
「で、でも、」
「大丈夫ですよ」
袖を掴まれていた工藤が、振り帰りつつ、菩薩の笑顔で、
一言。
「私、田中さんより給料もらっていますから」
トドメというにはきつ過ぎる。
これぞオーバーキル、やり取りは座敷の間から入口までの廊下で行われていた為、一連の出来事を目撃してしまった他の客も、眼を覆い思わず嗚咽を禁じ得ない。
ちなみに。
異世界転生課では役職や業務の内用によってその給金には差があって、工藤の所属している【異世界転生コンサルタント】は、所内一番の花形業務、かつ高給取りとされていた。
更には工藤、彼女こそは花形業務の中でもトップの成績を誇り、超難関の甲種資格をも保有する、むしろ市役所の外にこそより好条件で引く手数多の、優秀な人材だったのだ。
――そんな彼女がどうして、本来の自分の能力に相応しい待遇と報酬から鑑みれば遥かに劣るとさえ言える環境に身を置いているのかは、市役所内の七不思議。
「決起に対する応援、決意に送る激励とお考えください。もしも納得できないのであれば――そうですね。あの女神様の案件が片付いた暁に、改めて御馳走して頂けますか。男の甲斐性これでもかと見せつける、倍返しなど素敵です」
「は、は、はい! えぇ、勿論そうさせて頂きますともっ!」
虚勢も甚だしい啖呵であった。
腹の辺りを押さえているのは満腹のジェスチャーではなく胃痛との戦いだろうし、会計を行う際は表示された額を見て小動物のように息を飲む。
つまり。
工藤にとって田中とは、そういうところが好ましい。
明らかに無茶な条件を突きつけられようとも、それを乗り越えるだけの道理と義理があるのなら、言い訳もせずに立ち向かう。
そんな、彼が。
これからどのようにして、あの【難題】をクリアしようとするのか。
それを想像して工藤は、何度も何度も頭を下げる田中と別れた帰り道、心配よりもどうしようもなく楽しくなった。
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