第5話 マレーネの子育て日記(母上視点)
いつの日からだったかしら、あの子の様子が変わったのは。
そうだわ、あれは確かあの子が一歳になる前。
熱を出して何日も寝込んだ後の事だった。
それまでは整った顔立ちや魔力の事を別にすれば、概ね平均的な赤ん坊と言って差し支え無かった。
子供を産んだのはアルトが初めてだけれど、お母様もお医者様も特に不審がる様子は無かったのだからこれは間違いない。
けれどあの日を境に、あの子は時々大人びた目をするようになり、夜泣きを一切しなくなった。
そんな事があるものなのかしら?
その他にも細かな点で寝込む前後で変わった事が幾つもあった。
時折下を向いて、何かをじっと考え込んでいるように見えるのだけれど、勿論何を考えているのかは判らない。
あの子に直接聞こうにも、あの子はまだ上手く喋れないらしい。
時々こちらを何か言いたげな目で見ているのに、なかなか身振り手振りと単語でしか話し掛けてくれない。
こればっかりはあの子自身が話す気になってくれないとどうしようもないのだけど、親としてはやはり物寂しく感じてしまうわね。
こちらの言うことはきちんと理解している節があるから余計恨めしく思ってしまう。
「あ・うぇ・うぃ・う・うぇ・うぉ・あ・うぉ!」
「あらあら、またあの子ったら一人でお喋りを始めちゃったのね。上手ね~、私には何て言っているのか分からないけれど」
ここ数週間ですっかり習慣化してしまったアルトの一人お喋り。
母様も混ぜて、と言っては駄目かしら?
我ながらとんだ親馬鹿だとは思うわ。
でも可愛い我が子の成長を嬉しく思わない母親なんていないじゃないの。
何か法則性があるみたいだけど、残念ながら私にはアルトが何と言っているのかわからない。
それでも内容なんて大した問題じゃないわ。
あの子が楽しそうに喋っているのが重要なのよ。
「しゃ・せ・し・しゅ・しぇっ……ぃちゃっ! ぅっ、うっ……、うわ~んっ!! 」
「あらあら、まぁ大変」
考え事をしながら微笑ましく見つめていたアルトが突然泣き始めた。
どうやら張り切りすぎて舌を噛んでしまったらしい。
息子を抱き上げ、血液の匂いと一緒に漂ってくる魔力で場所を特定すると頭の中で術式を展開し、一瞬で傷を癒した。
光魔法と水魔法が私の得意系統。
どちらも本来は回復や補助系統魔法に属する。
この程度の傷なら、詠唱破棄など私には容易い事だった。
「ううっ、ひっく……」
「ほら、アルちゃんの大好きなペガサスの氷像ですよー」
「っあうぅぐ……きゃーい!」
「あらまあ、さっきまで泣いてた子がもう笑ったわね」
怪我は治ったからもう大丈夫と、泣き続ける愛息子をあやすべく、氷像を造り上げる。
ペガサスはアルトの大のお気に入りだった。
すぐに泣き止み、キラキラした目で氷像を見つめ、ペチペチと小さな手でペガサスの首を叩く。
こういったところは普通の子供と何ら変わり無い。
考え過ぎだったかしら?
この時にはそう思い直した私だったけれど、僅か数週間後にその考えを再び改めざるを得ない事件が起きた。
「あら?」
それはある昼下がりの事。
先程おやすみを告げてきたばかりのアルトの気配が屋敷の中を移動しているのを察知して、私は編み物をする手を止め、首を傾げた。
もっぱら一人お喋りに夢中だったあの子がどういう心境の変化なのか歩く特訓を始め、そろそろ足取りがしっかりしてきたかしら、という頃。
今頃夢の中の筈のアルトが何故?
この屋敷には目に見えない仕掛けが至るところに設置されている。
勿論、それは外敵の侵入を防ぐ為。
無理やり押し入ってきた人間を遠い砂漠の地に飛ばす転移陣や暗い地下牢に落とす罠が数多ある。
それらは基本、屋敷に住まう人間に対しては反応しないように設定されている為、あの子が一人で歩き回ってもほぼ問題は無い。
唯一心配なのは階段からの転倒だけれど、あの子はまだ階段を上れない上に、階段前には柵を設置しているからその可能性も低い。
それでも万にひとつ、賊が侵入してあの子を誘拐なんて事を企てていたとしたら?
そんな策謀が成功するとは到底思えないけれど、可愛いあの子の身に何かあったらと気掛かりでならない。
不安に駆られた私はこっそりとあの子の後をつける事にした。
気配を辿って早々に我が子の姿を視界に収めた私は、人浚いなどの犯行でない事を確認して安堵しつつも目を見張った。
あの子はやっとまともに歩けるようになったばかりだというのに、驚くほど音と気配を殺して歩いている。
魔力察知能力に私が長けていなければ気付けなかったかもしれない。
思わず背中に冷や汗を流しつつ物陰から見守っていると、アルトはある部屋の前で足を止めた。
扉を見据える目が確かな意志を持ってここにやって来た事を物語っていた。
でもいったい書庫などにいったい何の為に?
確かに最近、あの子お気に入りのメイドのカーヤに絵本の読み聞かせをせがんだという話は聞いたけれど、絵本なら子供部屋にもある。
それなのにどうして……。
目の前であの子は扉の向こう側へと消えていった。
流石にここで今、扉を開けて入っていくとバレるわよね?
うまく忍び込んだとして、この部屋は本棚など障害物が多過ぎてアルトの姿がよく見えないかもしれない。
叱って連れ戻す事も全く考えなかったわけではないけれど、これはあの子の考えを知る絶好の機会だと思い、見守る事にした。
幸い、ここには花瓶がある。
「ごめんなさいね」
綺麗に生けられていた花に謝り、引っくり返す。
花瓶の中の水が床を濡らしたのを確認して小さく詠唱した。
「静謐なる水よ、我の前に全てを映し出せ」
ほんの一時、ぼうと輝いたと思えば水面は床でも天井でも私の顔でもないものを映していた。
現役時代にもこの魔法には幾度となくお世話になった。
こんな場面で使う事になるなんて思ってもみなかったけれど。
水鏡の中のアルトは棚から本を適当に引っ張り出し始めた。
『王家の谷』『アイヒベルガー皇国建国記』『世界毒舌大辞典』『これであなたも耳掻き名人』『西の果てへ~あの子を求めて三百年~』
誰かしらね、屋敷の蔵書に変なものを紛れ込ませたのは。
毒舌辞典なんてあの子が読んでしまったら大変だわ。
あとであの人を問い詰めなくっちゃ。
おかしな本に特に興味を持った様子も無く、四苦八苦しながらもきちんと本を元の場所に戻すアルちゃんは本当におりこうさんね。
可愛いあの子に顔面ビンタを食らわせた毒舌大辞典は燃やしてしまおうかしら。
上手にお片付けが出来た息子に拍手を送ってあげたい衝動と必死で戦っていると、やや疲れた様子のアルトが天井を見上げた。
色ガラスが嵌め込まれた天井から外の光が差し込んでいる。
「……っ」
ハッと息を呑んだ。
そこに何処と無く愁いを帯びた表情で佇むアルトは天使のようだった。
いいえ、あの子の髪は紺碧アズールだから色彩的にはその表現は正しくないのかもしれない。
天使といえば白金髪と相場が決まっている。
私が溜め息をつきながら見とれている間にアルトは何かを見つけたのか、書庫の一番奥の棚に近付いていく。
一条の光が当たっている本、その本に伸ばした手をいったん弾かれたように引っ込めたアルト。
やがて恐々といった様子で再び手を伸ばし、棚から抜き出した。
小さな手の上で転がすようにしてその本を観察する。
古ぼけた茶色い表紙にはタイトルは愚か、飾り気のある紋様や挿し絵なども一切記されていなかった。
アルトの指が、やはり草臥れた茶色の背表紙をすっとなぞる。
何も起きない事に不満の色を浮かべたあの子が瞠目したのは、ついでのようにその本を開いた後の事だった。
……何も書かれていない?
けれどアルトはページの下の方を凝視している。
ページが捲られるけれど、次のページもその次のページも私には白紙に見える。
そういえば……。
古くから伝わる書物はその複写本ですら、一定の手順を踏まなければその内容を窺い知る事は出来ないものがあると聞いた事がある。
いわゆる禁書と呼ばれ、その内容を秘匿されるべき類いの書物だ。
実際に昔、王命で乗り込んだ逆賊の館でその存在を口にするのも禍々しい禁術の記された本を押収した事があった。
元来、文字には力が宿るとされている。
それ故か、その禁術書は見るものが見ればすぐに判るようなどす黒い気を発していた。
私自身はなまじ光魔法の適性が強かったせいか、鼻の曲がりそうな匂いを発するソレを嫌々城に持ち帰った記憶がある。
あの時ほど、火魔法の適性がこの身にない事を悔やんだ日は無かったわ。
そんなこんなで危険な本には人一倍敏感だと自負しているけれど、私の知る限りではこの書庫にそんな書物は無い。
もっともさっきの毒舌辞典しかり、全ての蔵書を把握出来ているわけではないから、変わった本が紛れ込んでいる可能性は否定出来ないわね。
――ゴーン、ゴーン、ゴーン。
外から鐘の音が鳴る。 俄に壁の向こうが騒がしくなった。
いつもならアルトのおやつの時間ね。
どうやらあの子は何食わぬ顔でさも今起きたというふりをする腹積もりらしい。
そんなところはさすが現宰相の子供ね。
それならこちらも今日のところは知らないふりで通して、明日も見守る事にしようかしら。
あの子が出てくる前に長い廊下戻り始める。
背中を向けたままさっと手を振ると、水鏡が霧散した。
翌日。
今日も今日とてアルトはベッドを抜け出していた。
そんなわけで私もあの子を壁の向こうから見守っているのだけれど……。
昨日と同じように書庫に忍び込んだアルトは、今日は室内に入るなり真っ直ぐあの本の元に向かった。
昨晩、あの子が眠った後あの本に関しては私が直接この目で確認したけれど、やっぱり中身はどのページも白紙のままだった。
念の為、夫にも尋ねてみると何か知っているようだったので一晩中あの手この手で問い詰めたけれど、あの人は決して口を割らなかった。
得られたのはただひと言、それはあの子に危害を加えるようなものでは無いから、今はアルトの好きなようにさせてやれ、と。
自分の夫を信じていないわけではないけれど、念には念を入れてもう1日観察、というのが現状かしら。
アルトは件の本を手に取ると、トテトテと部屋の中央、ガラス天井の真下まで移動した。
そこにちょこんと腰を下ろす。
人の出入りが少ないせいか、掃除が行き届いていないようね。
せっかくのお洋服が……いいえ、私の可愛い子が埃まみれだわ。
床へ直に座り込んだアルトは膝の上に置いたその本を開いた。
夢中で読み耽っているように見える。
何が書いてあるのかしら?
文字が綴られているのだとしたら、アルトはいったいどこで文字を覚えたのかしら?
文字が理解出来ているのならあまり喋らない、喋れないふりをしているのは何故?
頭の中では様々な疑問が浮かんでいたけれど、今の私に許されているのは只々じっと見守る事だけだった。
やがてアルトはあるページで手を止めた。
幼いながらも眉間に皺を寄せて難しそうな顔をしたかと思うと姿勢を正し、目を瞑る。
眠くなっただけ、なんて事は無いわよね。
考え事、かしら?
一度目のそれはそう続かなかった。
だけど二度目には長い睫毛が頬に影を落としたまま、数分が経過した。
そんな状況が一変したのは、気の遠くなるような静寂に息が詰まりかけた頃だった。
「……くっ」
突然、水鏡に波紋が浮かんだ。
最初は隅の方に発生した小さな乱れだったそれがすぐに全体に波及する。
行使する者の意思に反して水鏡は消えてなくなった。
それだけではない。
私の魔力が何かに引き寄せられるように抜けていったのだ。
すぐに気付いて遮断した為、奪われたのはごく少量だけれど、一体何が……?
身体を離れた私の魔力は目の前の壁をすり抜けていった。
まさか……?
そんなふうに考える間もなく、宙を漂っていた自分の魔力が壁の向こうであの子に取り込まれたのを知覚する。
他人の魔力を本人の了承無く奪い取るなんて真似は普通出来ない筈なのに……。
あの子はいったい何をどうやったというの?
それでもこれであの本に何が書かれているのか、少し分かった気がするわ。
魔導書。
それがたった今、体感した事実から導き出した答え。
そしてそれをどういう訳かアルトが貪るように読んでいる。
いずれ、自分と同じように優れた魔法師になってくれたらと考えた事もあった。
だけどまだ早いわ。
魔法の行使には危険も伴う。
特に情緒不安定な子供では力が暴走しかねない。
あの子は聡い子だけど、驚いたり悲しんだりといった経験を経て強い精神力を身に付ける必要がある。
それにあの子はたくさんの、それこそ無限に近い可能性を秘めている。
早い段階から、視野を広げもせずに魔法だけに没頭するなんて間違っているわ。
魔法以外にも楽しいものがいっぱいある事を教えてあげなくちゃ。
……そうね、まずは同年代のお友達を作る事から始めましょう。
それも出来るだけ早い方がいいわ。
今日ここで見た事、聞いた事、感じた事を全て夫に話そう。
確か身分も年頃も近い子たちが何人か居た筈。
その中から最初に会わせる子を夫と話し合って決めるのがいいわね。
そうと決まればまずアルトのお友達候補の情報を集めなければ。
情報収集は戦の基本。
一秒も無駄に出来ないわね。
とりあえずカーヤに頼んで調査書にまとめてもらいましょう。
カーヤの情報力は現役時代からずば抜けているもの。
昨日と同じ予定なら、そろそろあの子も出てくる頃ね。
二度目の息子の尾行及び張り込みを終えた私は、アルトに見つかる前にそそくさとその場を立ち去った。
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