序章

第1話 発声練習と天馬の氷像



「あ・うぇ・うぃ・う・うぇ・うぉ・あ・うぉ!」



 ぽかぽかと麗らかな陽射しが窓辺から差し込む春。

俺は今日も日課である発声練習を始める。


 え、何?

何言ってんのか分からないって?

そりゃそうだ。

何せこの俺、アルフレート・シックザールは御年1歳なのだから。

まともな発音なんて出来ようはずもない。


 毛足の長い絨毯の上に座り込んだ赤ん坊が、虚空に向かって謎の言語で吠える。

実にシュールな絵面だ。


 しかし赤ん坊など多少奇怪な行動に出ようが、何処の国のものとも知れない言葉を喋っていようが、元気でさえあればそれでいいのだ。



「あらあら、またあの子ったら一人でお喋りを始めちゃったのね。上手ね~、私には何て言っているのか分からないけれど」


 その証拠に、母上殿もこう言っているではないか。

赤ん坊の喋ってる内容なんて、誰も気にしやしない。



「おっ、奥方様……」


 どこかでメイドさんがコケたような気がするけれど、気のせいだよな。




「か・け・き・く・け・こ・あ・くぉ!」


 おお、これはだいぶ惜しい!

あと一息だ!

この調子でさ行も。


「しゃ・せ・し・しゅ・しぇっ……ぃちゃっ!」


 叫ぶと同時に口の中に鉄の味が広がる。


 しっ、舌噛んだ!

頭がそう理解するよりも早く、痛みに呻く。

歯がまだ上下4本ずつしか生えてなかろうが、乳歯だろうが痛いものは痛い。

途端に、両の目に涙が浮かんだ。



「ぅっ、うっ……、うわ~んっ!!」


 さ行のバカ~!!

忘れていた、さ行は最難関の部類に入ることを。


 中身は前世・今世を合計するともうすぐ二十歳なのに情けない、とは言わないでほしい。

何故かは分からないが、肉体年齢に感情が引き摺られるようなのだ。


 赤ん坊は痛ければ泣くし、悲しくても泣く。

それは無力な自身の身体を守る手段だからだ。


 赤ん坊は泣くのが仕事、とはよく言ったものだと思う。

泣いて、自分の身に危険が迫っていることを伝える。

怪我をして痛みを感じるのもまた、身を守る為のメカニズムである。


 泣き真似など出来るほど俺は役者魂に溢れている人間ではないので、ある意味ではこれも好都合と言える。



「あらあら、まぁ大変」


 泣き声を上げると母上が慌てた様子……には見えないが、すぐに駆け寄って抱き上げ、あやしてくれる。


 貴族の家系においては子供の世話など使用人の仕事ではないかとも思うが、少なくとも我が家の育児・教育方針は前世で抱いていたイメージとは異なるようだった。

特にこの母は実によく動く。


 いわゆる貴婦人の嗜みというやつもやらないわけではないが、それより子供の相手をしている方が楽しいから、とは母の談だ。

加えてやや天然の気質がありながらも、何事にも動じず胆が据わっている。


 普段おっとりとしていながら、これで父と結婚するまでは水と光属性を駆使した幻惑魔法――そう、この世界には魔法が存在する!――で一夜にして城を落としたり、生まれ持った膨大な魔力をちらつかせて国の重鎮を黙らせたりしていたというのだから、俄には信じがたい。

そんな母を慕ってか、屋敷の使用人もよく働く者ばかりだった。



「ううっ、ひっく……」

「ほら、アルちゃんの大好きなペガサスの氷像ですよー」

「っあうぅぐ……きゃーい!」

「あらまあ、さっきまで泣いてた子がもう笑ったわね」


 母、マレーネは単純そうで複雑な人とするならば俺、ことシックザール侯爵家長男は単純そのものだった。

だって、ファンタジーな生き物って抗いがたい魅力があるじゃないか。


 前世で非モテ人生を歩んだ“僕”の趣味といえばひたすら本を読み漁ることだった。

基本的にジャンルを問わない“僕”だったが、一番好んで読んでいたのはファンタジーだった。

前世で読んだ物語に出てきた伝説の生き物が、この世界には実在するのだ。


 三頭犬やユニコーンにまさか会える日がくるなんて、生きてて良かった(一度死んでいるのだが)と思う。

ああ、母上の清流の如き魔力から作られた氷像のなんと美しきことか。


 ……だいぶ話が逸れた、もとに戻そう。

何故発声練習をするのか?


 それは前世で受けた呪い・乙女ゲー言語の呪縛を解くために他ならない。

挨拶をするだけで女子にはゴミを見るような目を向けられ、男子には煙たがられる人生などもう懲り懲りだ。


 頭では普通に「おはよう」とだけ言おうと思っていても、口が思い通りに動いてくれない。

それが乙女ゲー言語による洗脳の恐ろしさである。


 俺はこの世界で、前世で為し得なかった夢の実現、彼女及び親友ゲットを目指している。

その為にはまず、一刻も早くこの世界の言語をマスターする必要がある。


 転生の影響なのか、今のところリスニングには困っていないが、文字の読み書きはどうか分からない。

発音に関してはやはり最も主要なコミュニケーション手段とだけあって、脱・乙女ゲーム言語の重要なファクターと睨んでいるが、赤ん坊故にままならないのでこうして毎日トレーニングしている次第である。

もう少し大きくなったら母上に絵本をおねだりしてみよう。



 もう一つ、現世で俺が彼女と親友を得るためにやるべきことがある。

それは件のゲーム『運命の二人』本編のアルフルートのバッドエンド及び恋愛エンドの回避である。


 彼女ならヒロインがてっとり早いと思うかもしれないが、これははっきり言って罠だ。


 幸い、俺ことアルフレートは隠し攻略キャラ扱いとなっていて、ルート分岐の条件が複雑であるが、他キャラのルートに分岐後でさえヒロインはアルフを頼れるお兄さん的存在として慕い 、度々彼の元を訪れる。


 そんな二人の関係に嫉妬した他の攻略キャラが、この国の宰相である父の失墜を画策したり、ヒロインもろとも俺を殺害、などという過激なバッドエンドまで存在する。

加えてゲームで描かれたヒロインは俺の好みではない。


 多くの乙女ゲームヒロインがそうであるように、『運命の二人』のヒロインもまた導かれるまま、相手キャラの為すがままという性格だった。

プレイヤー=ヒロインという立場で描くことが多い以上、どうしてもヒロインは受動的で個性の薄い人間になってしまいやすい。


 仕方のないことだが、ヒロインに群がる男性キャラが個性的なせいで余計にヒロインというキャラが無個性に映ってしまっていた。

ゲームだからこそ良しとされたそれも現実となれば話は別だろう。

もっとも俺がヒロインを避けたい最大の理由は他にあるのだが。


 冴えない・モテない男に女を選ぶ権利はない。

神はそう言うだろう。

つまり、前世の“僕”には。


 だが今の俺には将来有望なこの顔がある。

そして俺には前世十八年分のアドバンテージがある。

ここでこのイケてる顔をドヤッと歪ませてしまえばすべてが無に返るのは前世で学んだ。


 世の中は金と知恵と見た目とまでは言わないが、“但しイケメンに限る”は人類普遍の心理だと思う。

つまり二度目のこの人生は神が与えたもうたチャンスなのだ。


 せっかくイケメンに生まれ変わったのだから、良妻賢母をパートナーに夢見てもいいではないか。


 俺の理想とする女性、それはヒロインのライバルとして登場する女性キャラだ。

八方美人なヒロインと違って一途な彼女は一途故に時に行き過ぎた言動に走ってしまいがちだが、やはり一途ゆえに健気だと思う。

プレイヤーの選択肢によっては、多くのルートで彼女もまた報われない最期を迎えるのだが、そんなことはこの俺が絶対にさせない。


 高原に咲く一輪の花のような彼女に見合う男になるため、そして彼女を守り抜く力を得るため。


「あ・え・い・う・え・お・あ・おっ!」

「あらあら、アルちゃんったらまた一人でお喋りかしらね?」


 手の内の氷のペガサス――どういうわけか長時間直接触れていても凍傷にならない――に見とれつつ、俺は今日の修行を再開させた。


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