第60話 月夜のペガサス
じきに日が落ちるという事でその後は邸に戻り、ユニコーンの説得はまた明日という事になった。
滞在初日という事もあり、お腹がはちきれんばかりに上等な食事をご馳走になったその晩。
身体は疲れを感じているというのに、俺は寝付けずにいた。
肌触りのよいシーツの間を泳いで豪奢なベッドを抜けだし、バルコニーへ出る。
月が明るい。
空を、陰りの無いまん丸の月を見上げながら、未だ高鳴る胸を押さえるようにして俺は深呼吸をした。
『幼い身に夜更かしは良くないぞ』
「かはっ……」
音も無く急に目の前に現れた馬面に、たった今大きく吸い込んだばかりの息を詰まらせるのは不可抗力だった。
『驚かすなよ』
やはりペガサスは俺を驚かせるのが趣味のようだ。
苦情を言うと、大きな翼ごと身体を震わせながらペガサスはくつくつと笑った。
『お前、絶対性格悪いだろ?』
『そういうそなたこそ、昼間とは随分と物言いが違うではないか? 仮にも我はそなたより年上なのだぞ?』
ああ言えば、こう言う。
呆れながら俺は左右に頭を振った。
『こうして見るとやはりそなた、アダルブレヒトにそっくりだな』
『そうなのか?』
『ああ。この髪といい、瞳の色といい、そっくりだ』
そういえば、父上や家の使用人さんたちもそんな事を言っていたなあとどこか他人事のように思い出した。
『金色の瞳が珍しいんだっけ?』
『古い言い伝えでな。金色の瞳は神の血を引くものと言われているのだ』
『神の血ね……』
この国で神と言えば大抵は国教であるヴァールサーガ教が祀る、運命の女神を指す。
俺がその血を引いているのだとしたら、ちょっと面白いなと思う。
そういえば前世では神なんてあまり信じていなかったな。
それでも母が行けとうるさいものだから毎年、初詣だけは欠かさなかったし、クリスマスも何だかんだ言って人並みに楽しんでいた。
転生が現実に起こり得るのなら、神もまた実在するのだろうか?
だとしたら、俺は何のためにこの世界に生まれ変わったのだろうか?
いや、言い伝えなんてどこまで本当か怪しいな。
書物になっていてさえ、誤りや偽りがままあるのだ。
『いや、少なくともこの言い伝えだけは真だ』
『何故そう言い切れる?』
『我もまたそうだからだ』
俺の考えを読んだのか、言い伝えが本当だと断言してみせる。
自分がそうだからって、対外向けには全く根拠になっていないじゃないかと言い掛けたところで、思いの他真剣な眼差しとぶつかった。
煌めくのは金色だ。
『血は肉体に宿るが、血に力を与えるのは魂、生命力だ。見たところ、そなたは面白い魂をしておるようだな』
『俺の魂は異世界のものだって言ったら、お前は信じるか?』
『そなたがそう言うのならば、そうかもしれぬな』
試すように訊ねるとペガサスは月光浴を楽しみながらどちらでもいいと言うように呟いた。
のらりくらりとした物言いに肩透かしを食らったような気分にもなるが、俺がこんなふうにすんなりと己の出生の秘密を明かせるのは相手がペガサスという幻獣だからこそだろう。
『まあ、信じるも信じぬも好きにするが良かろうよ』
それは金色の瞳の伝承の話についてなのか、俺の転生の話なのかついてなのか、或いは両方なのか。
真実を知るのはペガサスのみである。
『お前がやたらと偉そうなのは、この言い伝えが原因なのか?』
『我などより、ユニコーンの方がよほど高慢だと思うが』
冗談めかして言えば、ペガサスは俺の不安を煽るような発言をする。
偉そうなペガサスをしてなお、偉そうだと評されるユニコーンはどれほど破綻した性格をしているのだろうか?
『ペガサス、お前はユニコーンにも一緒に来て欲しいか?』
『それはあやつ自身が決める事であろうよ。我はどちらでも気にはせぬ』
今度ははっきりどうでも良いと告げるペガサスを清々しいくらいに自分勝手な天馬だと思った。
今まで当たり前だった日常が変わる事への不安は無いのだろうか?
馬は元来臆病な生き物だ。
それに近い姿形をしたペガサスは神聖な生き物で、俗世とは一線を画した存在だと思っていた。
だけど、目の前のペガサスは好奇心の塊にしか見えない。
殆どの地元住民が一生に一度も得る事の出来ないペガサスとの対面という経験を俺は既に二度果たしているが、これでいいのだろうか?
『お前、フットワーク軽いよな』
『それが我の長所だ』
誇らしげに立派な白い翼を、胸を張るようにして俺に見せつけるペガサス。
フットワークが軽くて好奇心旺盛なクセに、こちらが一歩踏み込んだ答えを期待している時に限って身を引いてしまうのだから、意地が悪い。
天の邪鬼か。
『翼に触れてもいい?』
こいつの思うツボだと思うとほんの少し躊躇いを覚えたが、俺は衝動を抑えきれなかった。
ペガサスの翼が綺麗過ぎるのが悪い。
昼間も触りたかったけれど、人の目があるので我慢していたのだ。
使用人さんたちにはいらぬ心配を掛けたくない。
だけど今、ここには俺とペガサス以外誰もいない。
思う存分触りたい放題だ。
まずは翼に触れるだろう?
それから鬣たてがみを指で梳いて、綺麗な曲線を描く背筋をなぞって、尻尾を弄びたい。
『待つのだ。お触りは契約が終わってからだ』
ワキワキと動かす俺の視線に不穏なものを感じたのか、ペガサスは若干身を引きながらお預け宣言をした。
恐るべし野生の勘だな、もうすぐ野生じゃなくなるけれど。
待ての号令を掛けるのが人間で無く、獣の方というのが珍妙だが気にしない。
『よし、やろう。すぐやろう。さくっとやろう。そして、もふもふタイムにレッツ・ゴーだ!』
『契約は簡単だ。我にそなたの血を呑ませるのだ』
『どのくらい?』
『ごく少量でいい』
善かどうかはさておき、俺には契約をさっさと終わらせてペガサスの鬣を堪能するという使命があるのだ。
魔法で鋭利な氷柱を作り出して、自分の左手人差し指を突く。
ピリッと痛みが走ったかと思うと、ガーネットのように紅い玉が浮かび上がってきた。
それはみるみるうちに大きくなっていく。
『それを我の口の中へ』
徐に開かれたペガサスの口の中へと俺は指先を差し入れ、傾けた。
しとりとそれは静かに零れ落ちる。
『我が名はフリューゲル』
『俺の名はアルフレート。アルフレート・シックザールだ、フリューゲル』
『そなたが望むのであれば、我はそなたの翼となろう。アルフレート』
互いの名を呼び交わす。
俺の血はペガサスの舌の上で一度跳ねた後、やがでスッと馴染むように消えていく。
それを見て俺が引こうとした掌に、フリューゲルは額を押し当ててきた。
その行為に漫画や映画によくある場面の、男同士が友情や同盟、仲間の証に拳を合わせる行為に似た感覚を覚える。
これは主従の契約ではない。
対等の、友としての契約なのだと言われたような気がした。
『どうやらうまくいったようだな』
『……これで終わりなのか?』
随分とあっけない契約の儀式に、果たして本当にうまくいったのだろうかと不安すら抱いてしまう。
『我の額を見るが良い』
疑心暗鬼になって首を捻る俺にフリューゲルは告げる。
言われるがままに手をどけると、ちょうど触れていた辺りにかかる鬣の一房が青く染まっているのが目に入る。
『何か変化は無いか?』
『青い……』
『そうか、青か……』
真っ白なペガサスも綺麗だったけれど、額の青いその姿もなかなかどうして神秘的だった。
フリューゲルは自分の顔だから見えていないようだが、青と聞いてしみじみと呟く声がどこか嬉しそうな響きを帯びていた。
『他にも、腕輪に変化がある筈だ』
『そうか? 俺の方は何も感じなかったんだけど……』
スルスルと軽い衣擦れの音をさせながら絹製と思しき寝間着の袖を肩まで捲り上げる。
きらりと月光を反射して輝くそれには、確かに見た目で判る異変が起きていた。
青い石の嵌まっている台座部分はそのままだが、無地のすべらかな手触りだった筈のプレート部分に、模様が浮かび上がっている。
『これは……ペガサス?』
『いかにも』
ぐるりとなぞって彫金の微かな凹凸の感触を確かめ、フリューゲルに顔を向けるとしっかりとした首肯で返された。
我が家の紋章とよく似た意匠の模様が刻まれている。
これが初代の腕輪・完全体らしい。
『良かった、変なデザインじゃなくて』
最初に口から出たのはは綺麗だとか格好いいだとか月並みな感想ではなく、安堵のため息だった。
密かに心配していたのだ。
悪趣味な腕輪になってしまったらどうしよう、と。
初対面の時から質量保存の法則を堂々と無視してくれた腕輪なのだ、何をしでかしても不思議は無い。
とんでもなく悪趣味な上に、衣服の袖で隠すのもひと苦労なとんでもなく嵩張る代物に変化を遂げなくて良かった。
『その腕輪についても我の知る限りの事を後日教えよう。今宵はもう休むが良い』
『そうだな、言われてみればそろそろ……』
寝ろと言われた瞬間に、瞼が重くなった気がした。
あれから、ベッドを抜け出してからどれくらい時間が経っているのだろうか?
だいぶ月が傾いたような気がする。
『子供の身体に寝不足は毒だ。何より明日も大事を控えているのだからな。我もユニコーンの件で準備があるゆえ、今宵はラヴィーネに戻る』
『わかった。おやすみ……』
『良い夢を、アルト』
「えっ……?」
欠伸をしていたところに初めてフリューゲルに愛称で呼ばれた事に驚いて、いったいどうしたのかと問おうとしたが、既に白い翼は遠くの空をはばたいていた。
ベッドに戻った俺が、またももふもふタイムを先送りされてしまったと気付いたのは翌朝の事である。
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