第55話 カティア・ブロックマイアー
「アルトくん、女の子だった!」
お城のいつもの部屋に到着するなりパタパタと駆け寄ってきたのは、ルーカスだった。
「おめでとう!」
「あらあら、おめでたいわね」
いつも肌が透き通り過ぎて青ざめてすら見えるルーカスは珍しく少し汗ばみ、気分も上々バラ色に彩られていた。
これがバルトロメウスなら実際に背景で花を乱れ咲かせているに違いない。
そんな彼の様子を微笑ましく思いながら、俺も母上も心からの祝福を告げた。
いきなり藪から棒に女の子だったなんて言われたのなら何の事だろうと首を傾げるだろうが、数ヶ月前からある話を聞かされていたのですぐに分かった。
ルーカスに妹が産まれたのだ。
「女の子か……」
「うん! 赤ちゃんってこんなに小さいんだね!」
興奮しきりのルーカスはそう言って、自分の頭の大きさくらいに両手を広げる。
「さすがにそんなに小さくないよ」
「えっ? そうかな?」
笑いながら指摘するとルーカスは自分の手元と俺の顔を見比べてこてんと首を傾げた。
それだと身長が三十センチも無いことになってしまう。
「これくらいじゃないかな?」
どのくらいの大きさだったかと自分の身体の前で両手の間隔を広げたり狭めたりするルーカスを見かねて同じように手で示した俺だったけれど、ルーカスはイマイチ納得がいかない様子だった。
そこへさらに思わぬ方向から横槍が入る。
「あら? アルフレートくんは赤ちゃんを見た事があったかしら?」
「お店をやっていた時に街で見たの!」
先生モードの母上の指摘に慌てて言い繕う。
残念ながら俺には弟も妹もいない。
それなのに赤ちゃんの平均的な身長を把握しているのはどう考えても不自然だろう。
さいわい母上はあっさりと頷いてくれたけれど、豆腐屋をしていなければ危なかったかもしれない。
いつもの苦しい言い訳の『ご本で読んだ』でも頷いてくれたかもしれないが、あまり乱発するべきではないな。
「そうねぇ、女の子だから守ってあげたくなるように小さく産まれてきたのかもしれないわね」
「うん! とっても可愛いんだ!」
大真面目で面白味の欠片も無い俺と違い、母上のフォローは夢に溢れていた。
さすがは一児の母というところだろうか?
パッと電気がついたかのように顔を輝かせたルーカスを見て、子供心を上手に掴んでいる母上に俺は感心しきりだった。
「お名前はなんて言うの?」
「カティアって言うんだ」
「カティアちゃんか……。うん、女の子らしくて可愛い名前だね」
「ありがとう」
自分の行いを反省しつつ、名前を褒めるとルーカスは自分の事のように喜んで頬を綻ばせた。
アメジストの瞳は心なしか甘く潤んで見える。
既に妹にメロメロのようだ。
先ほども祝福の言葉を述べたけれど、これは建前での何でもなく俺にとっても本当に喜ばしい出来事だった。
乙女ゲーム『運命の二人』に登場するブロックマイアー公爵夫妻の間の子供は生まれつき病弱な男の子が一人きりだった。
つまり、ゲームのルーカスは一人っ子だったのだ。
ルーカスの妹はゲームには存在しない。
これは作中において明確に言及された設定だ。
ゲームではルーカスの誕生以降、公爵夫妻の仲は息子の容色が変わっている事と病弱である事を巡って諍いを起こしており、芳しくなかった。
どんな容貌だろうと貴方の子だから可愛いがって欲しいと望む夫人と、気味悪がって近づかない公爵の間で意見の対立が起きたのだ。
冷え切っているとまではいかないまでも、二人の熱は愛情とは別の方向へと流れていった。
顔を合わせれば口論ばかり、公爵はそれを次第に疎ましく思うようになって仕事にのめり込み、家に帰らなくなる。
そんな状況では新たな命なんて生まれよう筈もない。
だけど現実にはその問題が毒殺未遂事件に絡んで一緒に解決した結果、カティアは生まれた。
自分の行動でゲームの設定を覆せる事が今、確かな形で証明されたのだ。
こうして目に見えた形で確認出来たのはこれで二回目だ。
二重の意味でめでたい。
「何があったのだ?」
三人でニコニコと笑い合っていると、眠そうに目を擦りながらレオンが輪に入ってきた。
最近になって、週に二回ほどレオンはマナー講習を受け始めたらしい。
これがなかなかうまくいかないようで、いつも叱られてばかりだと愚痴を零しているのを授業後のティータイムに聞いた。
マヤさん情報によると、もともと手先が不器用なのと座学はすぐに眠くなるのが問題だそうで、それを耳にした瞬間その光景がありありと脳裏に浮かんだ。
レオンならやりかねない。
一度一緒に受けようと言われて、俺には豆腐屋の業務があるからと丁重にお断りすると、薄情者だと罵られた。
眠そうにしているところを見ると、今日は座学だったみたいだな。
「僕の妹が生まれたんだ」
「ほう。どのような女人なのだ?」
訳を聞いたレオンの第一声は『どんな子?』だった。
マナー講座は前途多難らしいと、おもむろに懐から羊皮紙とクシャクシャに草臥れた羽ペン、それからインク壷を取り出した幼き王子を見ながら嘆息する。
「うーんと、小さくて、でも目は大きくて、髪はまだちょっとしかないけど赤っぽい茶色い髪の毛で……」
「出来たぞ!」
レオンはルーカスの説明を聞きながら、羽ペンを羊皮紙の上で右へ左へと勢いよく舞わせた。
そうして数秒でペンを置くと、羊皮紙の上隅を持って俺たちに見せる。
「違うもん……」
「あらあら、元気いっぱいね」
「これまた個性的な……」
どうやらレオンはカティアの似顔絵を描いたらしい。
線の途中でインクが掠れている様から、スピード感溢れる筆致が窺える。
だけどルーカスは自分の妹はそんな子じゃないと、首を振った。
相変わらずレオンハルト画伯が描く似顔絵は、顔の輪郭線から目や口が飛び出している。
髪の毛に至っては何故かモヒカンヘアになっていた。
母上の仰る通り、元気いっぱいだった……レオンが。
「何故だ? 言う通りに描いたぞ?」
「でも違うもん……」
「いいや、そっくりの筈だ!」
うまく描けていると言い張るレオンと妹はそんなんじゃないと頭を振るルーカス。
いつもならルーカスの方が早々に折れるのだけれど、今回は可愛い妹の事だからなのか、譲らない。
母上はニコニコと黙って見守っているけれど、放っておいたら喧嘩になりそうだ。
「じゃあ、ルーカス。今日この後レオンと二人でカティアちゃんを見に行ってもいいかな?」
「うん、アルトくんとレオンくんならきっと母上も父上も大歓迎だよ」
水掛け論を繰り広げる両者の間に俺は物理的に割り込んでわざと話をずらした。
まあ、動機には俺自身の好奇心も含まれているけれど。
そんな俺の提案に真っ先に難色を示したのはルーカスではなく、レオンだった。
「なっ! アルト! 今日の余には新作兜の鑑賞という重要任務がだな……」
「それはいつでもいいだろう? 生まれたばかりのカティアちゃんは今しか見れないんだからな」
「しかし! ……む~っ」
小さな王子は腕組みをして考え込んだ。
新作兜『マサムネ』と新生児カティアの間で揺れているようだ。
「あんまり長居すると迷惑だろうから、パパッと見てパパッと帰ればいいんじゃないかな?」
「ゆくぞ!」
「待て待て。まずは授業だ」
決断するが早いか駆け出そうとするのを襟首を掴んで阻止すると、がっくりとうなだれたレオンの顔が皆の笑いを誘った。
*****
「可愛いな……」
「でしょう?」
授業終了後、レオンに急かされるようにして訪れたブロックマイアー家別邸の一室にて、俺とルーカスはベビーベッドを囲んで額を寄せ合い、頬を弛ませていた。
小柄な身体。
折れてしまいそうに細い手指。
くるんとカールした長い睫は伏せられ、スースーと寝息を立ててカティアはよく眠っている。
赤ちゃんの寝顔は天使みたいだなんてよく言うけれど、本当にその通りだと思った。
ルーカスがデレデレしてしまうのもよく分かる。
「なんだ、やはり余の絵にそっくりではないか」
「えーっと、どの辺りが?」
カティアを一瞥したレオンの感想は先ほどの似顔絵を自画自賛するものであった。
実物を見れば似ていない事に納得すると思っていただけに、これにはびっくりだ。
何をどう見たら似ているのか、レオンの感性がよくわからない。
「目元の辺りなど、そっくりではないか」
「違うよ。カティアはそんな吊り目じゃないもん!」
よりによって一番有り得ない目元を指してそっくりだと言うレオンにルーカスは断固として首を振るのはまあ、当然の事だった。
吊り目とかそんなレベルじゃない、はみ出している。
そんな画伯の絵を見せられても、『よく描けている』などと言って余裕で微笑めるのは母上やルーカスのご両親が大人だからだろう。
俺だって前世と今世を合わせれば成人に達するけれど、その辺りは単純に足し算とはいかないらしい。
「じゃあ、鼻筋はどうだ? そっくりだろう!」
「カティアの鼻はそんなにぐにゃぐにゃに折れ曲がってないよ!」
「あの、お二人さん。声のボリュームが……」
ちょいと声が大き過ぎやしませんか、と告げようとした俺だったがすでに一手遅かった。
「うっ、うっ……」
ぱちりとつぶらな目が開いて、綺麗な菫色の瞳が顔を出す。
その瞳から涙が溢れるのに時間は掛からなかった。
「ふえええん!!」
泣き声でようやく自分たちのしでかした事がわかった二人は口論を止めた。
レオンの手から滑り落ちた自慢の似顔絵が宙で一回転して足元に着地する。
もはや似顔絵どころの話ではない。
三人でみっともないくらいに慌てた。
「マヤさん!」
いつものようにレオンについてきて、黙ってドアの側で控えていたマヤさんを振り返るが、彼女は赤ん坊の世話は不得手だと頭を振る。
母上は別室にてルーカスのご母堂とお茶を楽しんでいる。
あいにくとブロックマイアー家のメイドさんたちも部屋には不在だった。
「僕、誰か呼んで来る!」
そう叫んで脱兎のごとく駆け出していったのは他ならぬルーカスだった。
お兄ちゃんになったからだろうか、ついこの間までより背中が頼もしく見える。
一方、レオンの方はというと彼も少なからず責任を感じたようで、直接交渉を試みた。
「これっ、泣きやむのだ!」
「ふえええん!」
びしっとカティアの顔を指差して見得を切るようにポージングする。
しかし、当たり前だが赤子は泣きやまなかった。
「泣きやめと言ったら泣きやむのだ! 余を誰と心得ておる!?」
「ふええええんっ!!j
「うっ……、うっ……」
何度もレオンが命令するが、カティアは泣いてばかりだ。
泣きやむどころか、泣き方が激しくなる一方だった。
自分ではどうにも出来なくて、悲しくなってきたレオンがもらい泣きをするように嗚咽を洩らし始めたのを聞いて、俺は焦った。
援軍はまだ来ない。
ここは俺が何とかするしかない。
「カティアちゃ~ん! べろべろ、ばぁ~!」
羞恥心をかなぐり捨てて、渾身の変顔をした。
「ふっ……うっ、ううっ……きゃーうふふふっ!」
サイレンのような泣き声はようやく止まった。
目尻に涙が光っているがそんな事も気にせず、カティアは四肢をバタつかせて喜ぶ。
「ふっ……」
良かったと安堵したのも束の間、方々から聞こえてきた笑い声に変顔で固まった表情のまま振り向くと、レオンとマヤさん、それにルーカスと母上、公爵夫人、セバスチャンが揃って口元を押さえていた。
「……見た、よね?」
無意識にスッと真顔に戻り、気まずいものを感じておずおずと確認の言葉を発すると、爆笑の渦が巻き起こった。
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