第三章 不穏な影
暗闇の鷹①
フェスティバルの混乱が過ぎ、櫻林館には穏やかな空気が戻っていた。
フェスティバルの襲撃に学生にも関わらず対応した千鶴と雪輝は、意外にも咎められることはなかった。
正直なところ、千鶴は櫻林館や航空宇宙防衛隊本部からかなりのお咎めをくらうと思っていたが、それが一切なかったのは一応常影の指揮の下にあったからなのだろうと漠然と感じていた。
何はともあれ、民間人の犠牲者を一人も出すことなく櫻林館に平穏が戻ったことに千鶴は安堵していた。世間は所属不明機の襲撃で国際問題がどうとか大いに騒いでいたが、それも僅かに終息を見せ始めている。
最近は本部や櫻林館付近をマスコミ関係者がうろついているという話も聞かなくなってきた。そもそも櫻林館は部外者が無断で立ち入ることはできないので、実際に取材を見ることも受けることもなかったが。
しかし櫻林館が平穏であるということは、座学の講義も予定通り進むことを意味している。
昼下がりの空き時間、千鶴と陽介はブルーバード・コーヒーのカウンターに座っていた。
千鶴は物性化学の課題に追われ、ノートタブレットを開いたまま教科書と睨めっこをしている。
「s軌道とp軌道って何だ? 新しいドッグファイトの機動か?」
ドッグファイトとは、戦闘機同士が空中戦で後方を取り合おうとする動作を指す。尻尾を取り合おうとする犬の喧嘩に例えたものだ。
「物性化学の課題と戦闘機は関係ないよね。ちゃんと分子の構造と向き合おうか、千鶴」
隣でアイスのクリームショコラカプチーノを飲んでいた陽介はにこやかに言った。そして笑顔のままカップを振って見せる。ストローがカラカラと音を立てた。
「僕もう二杯目飲み終わっちゃったんだけど。課題いつ終わるの? やる気あるの? 千鶴は僕を糖尿病にさせたいのかな?」
「陽介が黒いっ! 笑ってるけど笑ってないっ!」
無邪気な笑みなのに陽介の威圧感は増すばかりだった。
カウンターの奥の莉々亜がくすりと笑う。
「s軌道もp軌道も電子の軌道のことよ。それが分子の形を決めてるの。d軌道もあるわよ」
「すごいな、莉々亜! なんでそんなの知ってるんだ?」
莉々亜は「だって」と肩をすくめて苦笑した。
「私、これでも理系の大学にいるのよ。こういうことも勉強するんだから」
「さすがだね! 千鶴、莉々亜ちゃんは僕らと同い年なのに飛び級して大学に入ったんだよ。僕らが今勉強してることなんか知ってて当たり前じゃないか」
陽介は腕を組んで何度も頷きながら言う。
「そういうもんなのか」
千鶴はフレッシュレモンアイスコーヒーに口を付けて、教科書をぱらぱらとめくった。
「でも俺、こういうの苦手なんだよなぁ。電子なんて見えるもんじゃないし、全然ピンとこないよ。図書室の参考書もどれもよくわからなかったし」
「さっきせっかく図書室行ったのに、結局何も借りてこなかったの?」
陽介の問いに千鶴はしれっと答えた。
「ID端末部屋に忘れたから借りられなかった」
「何しに行ったのさ……」
陽介は呆れたが、千鶴はあっけらかんと笑ってごまかした。そこへ莉々亜が言う。
「じゃあ私が絵を描いて説明しようか?」
「え! いや、いいって! バイト中に悪いし!」
咄嗟に千鶴は全力で首を横に振っていた。そこへ陽介も加勢する。
「そ、そうだよ! ここは僕が何とかするから安心して! 先週習ったばっかりだから、復習がてら教科書見ながら僕が説明するよ」
莉々亜は「そう」と不思議そうな顔をしつつ納得してくれたようだった。
(これ以上混乱したくないんだ! ごめんよ莉々亜!)
そのように胸中で叫んでいると、隣の椅子が音を立てた。誰か座ったようだ。
「なんだ、まだこれだけしかできてないのかよ」
隣の席からノートタブレットを覗き込んできたのは、図書室に行くと言ってランチの後に別れた雪輝だった。
「おお、雪輝。図書室に頼んでた本、来てたか?」
「やっとな。もう少し事務処理が早くなってくれれば助かるんだが」
そう呟いてから、雪輝は「エスプレッソを頼む」とカウンターの奥に言った。すぐに「はーい! ちょっとまってね」と明るい声が返ってくる。
机に置かれた本を覗き見ると、『高機能生物素材化学』というタイトルが書かれていた。
「相変わらず雪輝は難しい本が好きだなぁ」
「読んでみるか? 面白いぞ」
本気で言ってくる雪輝に「俺はこれで精一杯」と教科書を指して断った。
「雪輝の学力なら莉々亜ちゃんみたいに飛び級で大学に入れたのかもね」
もっともなことを言う陽介に、雪輝は「まさか」と笑って肩をすくめた。
「俺は千鶴みたいに戦闘機に乗るしか能がないからな」
「あれ? 褒められているようでものすごくけなされてるような気がするんだけど」
「褒めてる、褒めてる」
雪輝は頬杖をついて本に目を落としながら言った。
「適当に流すなよ! すっげー棒読みだぞ!」
千鶴がわめいても雪輝は慣れたように聞き流す。
「ふん。どうせ俺は戦闘機に乗るしか能がないですよー」
膨れると陽介に「まあまあ」となだめられ、千鶴はレモンコーヒーを飲んで切り替えることにした。
そうしたところで向き合わねばならないのは難解な課題であるのだが。
「フェスティバルが終わってから、座学の方では課題ばっかりだな」
「そういえばそうだね」
陽介が同意に続けて「中間考査が近いからかな」と呟いた。
千鶴はうっすら気づいていたその事実に「あああぁ」と頭を抱えた。
技術試験ならば自信はあるのに、座学となるととたんに自信もやる気も失せてしまう。
オールマイティーな雪輝とは違って、いくら技術試験で雪輝に大差をつける高得点を連発しても、座学の点数が加算された途端に千鶴は中の下という平凡な成績に落ち着いてしまう。
それだけ机に座って頭の中だけで完結させる勉強が苦手だった。
まさしく現在もノートタブレット上で処理しなければならない課題に千鶴は窮屈と退屈を覚えている。いっその事ノートタブレットも教科書も投げ払って、大声を出しながら櫻林館裏の野原の丘を駆け抜けたい気分だった。
「そうだ!」
唐突に名案が浮かんだ。
「中間考査の後の連休に、みんなでぱーっと遊ぼう!」
丁度エスプレッソを雪輝の前に置いたところだった莉々亜が、「なになに、何の話?」と目を輝かせてカウンターの奥から身を乗り出した。
「考査明けの連休に『ことりのいえ』に帰って一泊くらいしようと思ってたんだ。みんなも一緒に来ないか? 近くの野原が天体観測にはもってこいの場所なんだ!」
ことりのいえとは、千鶴が育った養護施設のことである。実家のようなものなので、長期休暇や連休の時にはなるべく帰るようにしているのだ。
「天体観測なんて素敵ね! 私も行きたい!」
莉々亜が満面の笑みで賛成してくれたので、千鶴は残り二人の返事にも期待していた。
しかし陽介は「ごめん」と切り出す。
「僕もその連休は稽古で実家に帰らなきゃいけなくて」
陽介の実家は
それに加え、陽介には特殊な事情がある。それを知っている千鶴は大人しく納得するしかなかった。
「そっかぁ。じゃあ雪輝は?」
雪輝に目を向けると、「俺も無理」と即答されてしまった。
「悪いな。やることがあるんだ」
「えー!」
千鶴は不満を声にした後、肩を落としてため息をついた。
「あーあ、残念。また日を改めるか」
「元気出して! 私は楽しみにしてるから、また誘ってね」
莉々亜がそう言ってくれたのが千鶴には救いだった。
だがそこへ、陽介が一石を投じる。
「なんで日を改めるの? 二人で行ってきたらいいじゃん」
その大胆な提案に一瞬固まったのち、千鶴と莉々亜は同時に叫んでいた。
「ふ……二人でぇ!」
千鶴は慌てふためきながら陽介に迫った。
「な、何言ってるんだよ! 一泊二日の泊りで夜に星を見に行くって言ってるんだぞ! それを、ふ、二人でって!」
「……千鶴さん、顔が真っ赤ですけど何考えてんの?」
陽介が冷たい眼差しを向けてくる。千鶴は必死に首と手を横に振った。
「いいいいいや、お、俺が莉々亜に何かするかとかそういうのじゃなくて、そもそも莉々亜が俺と二人ってのが嫌なんじゃないかと心配しているわけで!」
「慌てると余計に怪しいぞ」
雪輝が面白そうににんまりと笑みを浮かべながら言ってくる。
「なんでだよ! 俺は怪しくもいかがわしくもないぞ!」
必死に反論すると、陽介が躊躇なく二石目を投じた。
「じゃあ本当に二人で行けばいいじゃん。ねえ?」
陽介が同意を促す先の莉々亜は、顔を赤くして視線を落としている。
「わ、私は千鶴君の方が嫌なんじゃないかなって……思って……」
莉々亜の語尾がどんどん小さくなってしまうこの状況が申し訳なく、千鶴はあわあわと慌てるばかりだったが、意を決して「ようし!」と叫んだ。
「莉々亜、二人で行くか! 大丈夫、ことりのいえには
莉々亜は千鶴のわざとらしい勢いに気おされたように目をぱちくりと開いた。
千鶴はさらにわざとらしく「問題は天体観測だが」と難しい顔をしてから、ぐっと親指を立てて爽やかに言った。
「俺はパイロット生命をかけて健全なる星の観察を約束しよう! ただし田舎で虫が多いから、虫が苦手ならやめておいた方がいいぞ!」
「健全って……そういう表現がますます怪しいんだよ」
雪輝の言葉は聞き流して、勢いで言い切った千鶴は莉々亜の反応を恐る恐る待った。
莉々亜は頬を染めて微笑みながら一つ頷いて、「楽しみにしてるね」と答えた。
「え? あ、あれっ? ほ、ホントに……?」
まさか頷いてしまうとは思っていなかった千鶴は、頭が真っ白になった。断りやすいようにわざとふざけたというのに。
「よかったねぇ、千鶴さん」
「連休に女の子とお泊りデートかぁ」
両側から卑しい笑みを浮かべた陽介と雪輝が肩を組んでくる。
「な、なんだよ……」
「僕も稽古じゃなかったらなぁ」
「健全な天体観測、楽しそうだなぁ」
「そんなこと言うならお前らも来いよ!」
そう叫びつつ、紅潮しているのが自覚できてしまい悔しかった。
「じゃあ、千鶴」
そう囁いた雪輝に、唐突に耳を引っ張り上げられた。
「いたたっ! なんだよ急に!」
「さっさと物性化学の課題終わらせるぞ。言っておくが課題も試験も終わらないと連休はこないからな。ほら、教えてやるからあっちに行くぞ、あっちに」
「ちょ、ちょっと待てよ! 痛いっ! 痛いってば、いてててて!」
雪輝に耳を引っ張られつつ慌ててノートタブレットと教科書を抱えると、後ろ向きのまま店の奥のテーブル席へ連行されてしまった。
「俺のレモンコーヒー! カウンターに置きっぱなし!」
「そんなもん終わるまで抜きだ」
「えーっ! 雪輝のドS! スパルタ! ツンデレ!」
「なんだと! 人がせっかく親切で教えてやるって言ってんのに!」
席についてもぎゃあぎゃあと口論が続く二人を見て、陽介が「なんだかんだで仲良しなんだよねー」と呟いた。
「普段から仲良さそうに見えるけど、そうじゃないの?」
莉々亜に尋ねられ、陽介は腕を組んで呻った。
「千鶴に問題はないんだけど、雪輝はたまーに千鶴が赤色人種だってことで突っかかることがあるから。雪輝の二面性っていうのかな。赤色人種を軽蔑してるところもあるけど、千鶴は千鶴で認めてるっていうか……。気のせいなのかなぁ」
呻る陽介に、莉々亜は「仲良しならそれでいいんじゃないかしら」と微笑んだ。
「それもそっか」
陽介は肩をすくめると、莉々亜にブルーベリーヨーグルトマフィンを注文した。
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