それぞれの飛翔④

 千鶴が退院できたのは、雪輝の退院から一週間後のことだった。それからさらに二週間が過ぎた今、千鶴は櫻林館の生活に戻っていた。


 退院した直後、千鶴は航空宇宙防衛本部に呼び出され、大人の事情にまみれた都合のいい命令を山ほど提示された。それを簡単にまとめると、今回の件は全て口外無用とすることと、今後も次世代戦闘機の専属パイロットとして協力することの二つである。


 後者の命令は任意であると言われたが、彼らの目や態度はそうは言っていなかった。返答はよく考えてからでいいと言われたが、千鶴はその場で返答を済ませていた。


 全ては極秘という国家権力で隠された。この国でこれまで何があったか、これから何が始まるのかを国民に悟られないように、千鶴は今まで通りの生活を送るようにと言い渡された。


 陽介と同じ部屋で寝起きし、飛行訓練を重ね、座学の課題に悪戦苦闘する。お腹が空けばカフェテリアで食事をし、気分転換にブルーバードでフレッシュレモンコーヒーを頼む。


 今までと変わらないその日常。しかしそこから、四人で笑いあう時間は消えていた。


 その日の訓練と講義を終え、千鶴は校舎の最上階にある少し寂れた展望テラスに来ていた。

 テラスの柵の上に両肘をかけてもたれかかり、フレッシュレモンコーヒーを飲みながら夕空を眺めている。柵には鳩がたくさんとまって羽を休めていた。


 眼下には滑走路が広がり、訓練機が離発着している。グラデーションに染まる夕空は、滑走路の向こう側に広がる海をオレンジ色にきらめかせていた。


「千鶴君、お待たせ」


 莉々亜の声で千鶴は振り返った。


「仕事お疲れさま」

「待った?」


 夏の風が、莉々亜の涼しげなフレアスカートを揺らした。


「いや、さっき来たところ」


 莉々亜が距離をとって立ち止まった。千鶴は尋ねた。


「話って何?」

「雪輝君のこと。措置が決まったの」


 麗櫻国の極秘プロジェクトに関わる莉々亜は、その地位を利用して雪輝の措置が緩和されるよう何度も上に掛け合っていたのだ。


「雪輝君は必死にミサイルの着弾を阻止してくれた。育ての父親を死なせてしまったのは事実だけど、ミサイルの発射を止めるためだった。それは理解してもらえたみたい」


 千鶴は安堵した。だが莉々亜は強張った顔で続けた。


「でもファルコンを強奪した罪は消えない。国はそれを咎めているし、父親の件も含めて雪輝君も自分の罪を認めてる。雪輝君は進んで罰を受けようとしているわ」


 千鶴は視線を落とし、それから苦笑した。


「雪輝らしいな。あいつは几帳面だから」


 莉々亜も「そうね」と静かに頷いた。


「それで、措置って?」

「うん、それがね」


 莉々亜も千鶴から少し離れたところの柵に両手を添えて空を見上げた。どういうわけか、莉々亜は嬉しそうだった。


「雪輝君、うちの研究室に来ることになったの」

「……へ?」


 千鶴はかなりの間を開けてやっと聞き返した。莉々亜の言葉を何度も頭の中で反芻したが、結局よくわからなくてもう一度聞き返した。


「え? ど、どういうこと……?」


 莉々亜は「ふふ」といたずらっぽく笑った。


「雪輝君、私と同じプロジェクトに参加することになったのよ。だって国家機密のデータベースにアクセスしちゃうくらいの天才なのよ! 国が放っておくわけないじゃない」

「そ、そんなに頭いいの?」

「そうよ。私なんかよりずっとね」


 千鶴は呻りつつレモンコーヒーをすすった。


「能ある鷹は爪を隠すっていうけど、本当なんだな。あいつ総合成績は常に上位だったけど、座学だけでも一位になったことはないんだ。わざと間違えて目立ちすぎないようにしてたのか……」


 莉々亜は「さすがね」と笑った。


「だからね、その才能で国に奉仕しろって。それが雪輝君への措置」

「なるほどな」

「それから……」


 晴れやかだった莉々亜が、少し声を曇らせた。


「赤色人種としても研究に協力するように、って」

「赤色人種として?」


 莉々亜は申し訳なさそうにうつむいた。


「次世代戦闘機の開発は、今まで被験者のいないまま進められてきたの。今後効率よく開発を進めるために、雪輝君に被験者になれって……」

「雪輝は、それもやるって?」


 莉々亜はやるせなく頷いた。


「それも快諾したらしいわ。条件は出したらしいけど」

「条件って?」

「雪輝君のクローンの子たちを保護し続けると同時に、治療をすること。抜け殻みたいにされてしまったあの子たちの心が、少しでも何かで満たされるように、って。その条件さえ守ってくれれば、自分ができることならなんでも協力するって言ったらしいわ」

「なんでも、か……」


 だが莉々亜は、「でも!」と意を決したように顔を上げた。


「あの研究室には私がいる! 絶対に雪輝君に酷いことはさせないわ!」


 莉々亜は強く柵を握りしめた。


「暴走はさせない。そのために私はこの研究を続けることに決めたの。花江先生が言ってくれたのよ、自分を自分の味方にしちゃえって。私、こんな研究に加担することが嫌で仕方ないけど、自分の立場を逆手にとって自分の意思を貫いてみせるの!」


 莉々亜の決意の眼差しを受け止めて、千鶴も力強く頷いた。


「俺もパイロットとしてクレインを守ってみせるよ。この国が間違った道に進むのを食い止めるのは、この国で生きる俺たちの役目だ」


 千鶴は呼び出された本部で、クレインの専属パイロットを即答で引き受けていた。

 莉々亜と約束したからというのもあるが、千鶴を見据える大人たちの目が死んだように光がなかったからでもあった。


 彼らにクレインを渡してはいけない。人工ROPシステムによる膨大なエネルギー生産を体感した千鶴は、直感的に強くそう感じていた。


 海からの風が、莉々亜の長い髪と千鶴の赤い髪を揺らした。


「俺はクレインの専属パイロットであり続けるよ。そのためにここで戦闘機に乗るんだ。そしてもっと技術を磨くよ。絶対にクレインは誰にも渡さない」


 千鶴は遠くの空を見た。オレンジ色の空に海鳥の白い影が消えてゆく。

 そこに、静かに莉々亜がぽつりと言った。


「本当は、千鶴君にずっと謝りたかった」


 それはいつかのバス停でのことを思い出させた。


「ごめんなさい。千鶴君との約束、うまく果たせなかった……」


 飲み込み続けてきたであろう言葉を、莉々亜は静かに続けた。


「私、千鶴君のこと小さい頃から知ってたの。私たち、十歳のときに一度だけ会ったことがあるのよ。千鶴君は覚えてないかもしれないけど……」

「覚えてるよ」


 莉々亜は意外そうに目を丸くして顔を上げた。


「でもつい最近まで気づかなかった。あのおさげの女の子は莉々亜だったんだな」

「仕方ないわ。私たちお互いに名前を言わなかったし、名乗っていたとしても私は両親の離婚で名字が変わってしまったから」


 莉々亜は自嘲気味に笑うと、吐息をついて暗い面持ちで話し始めた。


「あの頃、両親は仲が悪くて家はぎすぎすしてたし、飛び級ばっかりで同い年の友達もいなかった。両親の仲をとりもつために勉強漬けだった私は、同い年の友達と、両親のためじゃない自分のための目標がほしかったの。麗明大学で人工ROPシステムの基礎をつくりあげた私はすぐに櫻ヶ原大学の研究室から声をかけられて……。あれは研究室の見学に行った日だった。大学の中庭で、赤い髪の男の子に出会ったのよ」


 千鶴は静かに耳を傾けていた。


「ROP代謝の研究をしていながら、赤色人種の子に会うのはあれが初めてだった。自分が研究している特別な能力を持つ男の子が飛びたいと言ってくれたから、私ならその願いを叶えてあげられると思って、櫻ヶ原で研究を続けようと決めたの。赤色人種の人たちがどんなに苦しい思いをしていたかも知らずに……」


 莉々亜は目を瞑って深呼吸をすると、意を決したように顔を上げた。


「だからずっと謝りたかった。あの子にしか乗れないあの子のための機体を作ってみせようってわくわくしてたのに、気付いたらその子を利用した兵器を作ってた……。その子からしたらあんまりよね! 人の手で赤色人種にされたのに酷い扱いをされて、幻覚症状で苦しんだ挙句に軍事利用されるなんて!」


 半ば叫ぶように言うと、「でも……」と声を落とした。


「ブルーバードで再会したその男の子、すごくかっこよくなってたのよ。びっくりしちゃった。次世代戦闘機を預けるべきかどうかを決めるためだけのつもりだったのに、あんなに明るく笑いかけてくれるんだもん。だから、好きになっちゃった。そしたら打ち明けるのがどんどん怖くなって……」


 莉々亜は大きな瞳を潤ませながらも、千鶴を真っ直ぐに見た。


「でももう弱い自分でいたくない! ずっと謝りたかったの。千鶴君、ごめんなさい!」


 莉々亜は身を縮めるように頭を下げた。しばらく沈黙が流れて、それでも莉々亜は顔を上げようとしなかった。

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