火星の記憶③
はるか遠くに数えきれないほどの星が輝く宇宙で、まだわずかにしか大気が生産されていない火星の赤い大地は、くっきりとした輪郭を描いて接近する千鶴へと迫った。
移住計画のために大気を生産しているとはいえ、大気はまだ地球に比べてほんの少ししか存在しない。地球のような大気圏の出入りの衝撃は全くなかった。
転送された着陸航路通りにファルコンは赤い大地の上空を飛んでいる。それを追うように赤土の大地の上空を飛ぶと、遠くの方にコロニーの郡が見えてきた。各国のコロニーが集中する、火星移住計画の中心となっている区域だ。
ファルコンが高度を落とし始める。千鶴も同じように高度を落とした。
二機が着陸した場所は、コロニーの集合区域から外れた所だった。
コロニーは用途によって様々な種類があり、集合区域にあるコロニーは企業や住居のために作られている。もちろん火星についての研究施設も多いが、必要に応じて集合区域外に建てられたコロニーもある。
ファルコンが着陸したのは寂れた小さなコロニーだったが、それはもはやコロニーと呼ぶべきではないと千鶴は思った。
コロニー特有のドームはなく、それは直接赤土の大地に直接建てられている。平たい大きな建物だったが、それは太陽光パネルが併設された巨大な溜池であることを、千鶴は上空から見て知った。
ファルコンのハッチが開き、紫のパイロットスーツに身を包んだ雪輝が降り立った。モニターに雪輝を拡大すると、雪輝は降りて来いという仕草を示す。
松波に通信を開こうとしたが、あちらがワープ中のため通信障害が発生していた。雪輝はこれを狙っていたようだ。このまま電源を切れば松波からクレインの位置情報はつかめなくなるが、仕方なく指示通り電源を切り、千鶴はコックピットを出た。
赤土の大地を両足で踏みしめる。地球の三分の一しか重力がないので踏みつけている感覚は薄いが、砂利のこすれる音が足の裏に伝わってきた。
千鶴はパイロットスーツの腕を見た。小さいながらも様々なデジタル計器が埋め込まれている。
酸素濃度を示すところには『2.98』と表示されていた。単位は『%』だ。地球の大気の酸素濃度が二十一%なので、酸素量を増やす計画が始動されてからかなりの年月が経つとはいえ、ヘルメットを外すべきではないのは一目瞭然だった。
雪輝は巨大な溜池の方へ歩みだしていた。ハンドガンなどの武器の装備もない様子だ。気は進まなかったが、雪輝の向かう溜池の方へ行くことにした。
地上から見ると溜池は屋上にあるだけのようで、溜池が主体の建造物ではなさそうだった。
雪輝が建物の扉を開けて中に入った。
千鶴も扉の方へ向かうと、壁面に貼られている金属プレートに気付いた。『酸素発生機構開発研究所』と書かれている。覚えのない施設名だったが、千鶴は『研究所』という文字を見て薄々感づいていた行き先に確信を持った。
ボタンを押して赤土で汚れた扉が開くと、目の前にもう一枚扉があった。中に入り、背後の扉が閉じてからもう一つの扉が開く。
そこから先は、白っぽい廊下が非常灯でぼんやりと照らされていた。今は使われていない建物のようで、埃や赤土で薄汚れている。
パイロットスーツの酸素濃度計は『21.1』を表示していた。重力も制御装置が働いて地球とほぼ同じ感覚で動けるようになっている。
「何年か前に来たが、まだ生存に必要なシステムは動きっぱなしのようだな。おかげでヘルメットが外せる」
千鶴を待っていた様子の雪輝は、紫のヘルメットを外した。
雪輝のウエーブのかかった長い黒髪が揺れ落ちる。その仕草は櫻林館の訓練でよく見た何の変哲もない動作だったが、エメラルドの瞳が千鶴に大きな違和感を抱かせていた。
改めて現実を受けとめながら、千鶴もヘルメットを外した。
「そんなに怖い顔するなよ。こんなところでやり合おうなんて思っちゃいない。言っただろ、話すことがあると」
それでも千鶴が警戒を解けないでいると、雪輝は小さく笑ってから踵を返した。
「ついて来いよ。見せたいものはこっちなんだ」
雪輝の後について、千鶴は薄暗い廊下を進んだ。
「ここは酸素発生機構開発研究所。火星で効率よく酸素を発生させるための研究をしていた施設だ」
雪輝は薄暗い廊下を進みながら説明を始めた。
「ここではシアノバクテリアを用いて酸素発生システムを研究していた。シアノバクテリアは光合成によって太古の地球の酸素濃度を一気に高めた生物だ。地球と同じ方法で火星にも酸素を満たそうとしたんだよ。だからこの施設自体が巨大な溜池なんだ。溜池の中で遺伝子操作した様々なタイプのシアノバクテリアを飼い、火星の環境下でより酸素を発生させるものを生み出す実験をしていたんだ」
あるところで雪輝は立ち止まると、パイロットスーツに携帯されている小さな懐中電灯を取り出した。
それで照らされたのは地下へ続く階段だった。もともと階段は扉で閉ざされていたようだが、今は乱暴にこじ開けられたような無残な姿であった。
雪輝は何のためらいもなく、何もかもを吸い込むような暗闇の階段を下りてゆく。
千鶴は嫌な予感を覚えながらも、雪輝と同じように懐中電灯を手に取って階段に踏み出した。
階段を下りながら雪輝は続ける。
「実験はシアノバクテリアに留まらなかった。この研究グループの幹部たちがかなり極端で歪曲した考え方を持ったやからの集まりだったらしくてな。火星にあって、さらにコロニーの集合区域から外れたこの立地をいいことに、裏で極秘の研究を進めていたんだ」
階段を下りきったところには、また無残な姿のひしゃげた扉がある。その奥に、非常灯でぼんやりと広い空間が浮かび上がっていた。
「火星に行くと言ったときからわかっていただろ」
雪輝はゆっくりと千鶴に振り返った。
「ここが、俺たちが生まれ、七歳まで育った場所だ」
雪輝のエメラルドの瞳が面白いものでも見るように細められる。
千鶴は奥歯を噛みしめた。ヘルメットを抱えた腕に力が入る。
「まさかとは思うが……」
雪輝は地下室の壁を探った。地下室が急に明るくなる。
「どうやら太陽光発電で電気は溜め続けられているみたいだな」
千鶴は明るくなった地下室を見渡した。実験台が並び、様々な機器がある。全て埃まみれだったが、雪輝はその中をためらいもなく進んでゆく。
「この地下室が極秘の研究に使われていた。ここに地球から受精卵が運びこまれ、それを遺伝子操作し、人間兵器を生み出す研究が進められていたんだ。ほら、これ見てみろよ」
雪輝が千鶴に見せたのは、実験台の上に置かれた不思議な形の機械だった。顕微鏡のようなものに見慣れない操作レバーがついている。
「受精卵に遺伝子を注入する機械だ。こんなものがそこらじゅうにあって、どうして赤色人種の誕生が事故だったなんて言えるんだよ」
嘆息交じりに、ただし語気を強めて雪輝は言い捨てた。
千鶴は言葉も出なかったが、雪輝は歩みを進めながら語った。
「俺たちはこんなところで生まれた。ほら、ここは疑似母体装置の部屋だ」
雪輝が入った小部屋の壁一面には、透明なロッカーのようなものが並んでいた。
ガラス製のロッカーのようになっている各スペースに、半透明の分厚い風船のような形のものが一つずつぶらさがっている。透明なロッカーの裏側には配管が複雑に這っていた。
ロッカーは叩き潰された跡がいたるところにあり、引き裂かれた風船もいくつかある。床には何かの液体が飛び散った痕跡が残っていて、埃に加えてかび臭さが充満していた。
千鶴は気分が悪くなり、思わず口元を手で覆った。
「ガラスの箱は温度管理をする装置だ。これで箱の中を子宮内と同じ温度になるようにしていたらしい。この風船みたいなのが子宮の代わりだ。中に受精卵を着床させることができて、胎児が成長するのに合わせて膨らむ構造だ」
雪輝は冷めた目で埃とカビに汚れた疑似母体装置を見つめていた。
「見ろよ、このあり様。俺たちが生まれた場所は、こんなにも大切にされていない」
そう言い捨てると、雪輝はさらに奥へ進んだ。
こじ開けられたまま放置されている扉を通過すると、未熟児を治療するような保育器が並んでいた。そこを通過し、また開きっぱなしの扉を抜けると、無機質な保育所のような部屋になっていた。
雪輝はどんどん奥へ進む。
すると、まるで刑務所のように鉄格子で仕切られた小部屋がずらりと奥まで続いていた。
千鶴は悪寒と共に体が強張るのを感じた。足がすくんでその部屋に踏み込むことができない。落ち着くように深呼吸をしてみたが、まるで肺が震えているようだった。
「思い出したか?」
すでに部屋の中に踏み込んでいる雪輝が振り返った。
「血の気が引いているようだが、もう少し頑張れ。あと少しでたどり着く」
雪輝がどんどん奥へ行くので、千鶴は嫌な気分を振り払うように頭を振って、鉛のように重たくなった足を前へと動かした。
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