胸騒ぎな出発②
千鶴は櫻林館の門の手前で、停めてあるシルバーのサイドカー付き大型バイクにもたれていた。地獄のようだった課題と中間考査を乗り越え、櫻林館の訓練も講義もない三日間が始まる。
櫻林館の日常から解放されたことを象徴するかのように、千鶴の装いは白いつなぎから一転し、ラベンダーグレーの半袖Tシャツに濃紺のジーンズだった。胸には念のためのIDタグをさげ、フィンガーレスグローブはいつも通り。荷物とオレンジのパーカーはバイクにひっかけてある。
空は驚くほど晴れていた。雲一つない青空からそそぐ太陽の光をエメラルドの瞳に受けながら、今晩は星が綺麗に見えそうでよかったと千鶴は安堵していた。
しかしその一方で、動揺もどんどん膨らんでゆく。心のどこか、ほんの数パーセントの部分では、雨が降ればよかったのにと思わないでもない。星なんて見えないから天体観測は中止。そうなればどれほど気持ちが楽だろうかと考えてしまう。
できることならこの状況を素直に喜んで、好きな子に振り向いてもらうために一生懸命になったり、告白の勇気を奮い立たせたりしてみたいというのが千鶴の本心である。
しかしそれをしないと心に決めている千鶴にとって、好きな女の子と二人きりで星を見上げるのは生き地獄に他ならない。
好きという想いを抑え込んで、届く距離の手も握らず、目の前でなびく髪にも触れず、木漏れ日のような笑顔を独り占めすることも叶わない。あきらめなければならないのだ。たとえ星空の下、つややかで柔らかそうな唇が差し出されたとしても。
「だから、なんでそういうことを想像するんだっ!」
千鶴は頭を抱えて叫んだ。シリアスな思考を歩んでいたはずだったのに、着地地点が健康男児のそれそのものである。
「俺、本当に大丈夫かなぁ……」
頭を抱えたまま、千鶴は得も言われぬ罪悪感を背負ってうなだれるしかなかった。
すると、不意に肩を誰かに叩かれた。
「ひゃーーっ!」
心臓が飛び出るほど驚いて振り向くと、同じように驚いた顔の雪輝が立っていた。
丁寧にアイロンがかけられたシャツにアーガイルのベストを着ている。シャツの袖をまくって着崩してはいるが、雪輝の知的な雰囲気が前面に押し出された私服だ。
「な、なんだ、雪輝か……。驚かすなよ」
「それはこっちのセリフだ!」
雪輝は胸を抑えながら怒鳴った。
「さっきから一体何なんだよ! 突然叫んだかと思ったら落ち込みだすし、声かけても気づかないから肩叩いたら馬鹿みたいに驚きやがって!」
「あっははー、ごめんごめん」
「笑ってごまかすな!」
機嫌悪そうに嘆息してから、雪輝は腕組みをして左右を見渡した。
「莉々亜はまだみたいだな」
「ああ、うん……」
「なんだか暗いぞ。どうした?」
千鶴は深々とため息をついた。
「だって、晴れちゃったし……」
「行きたくないなら莉々亜にそう言って中止にしたらどうだ」
「行きたくないわけないだろおおおぉぉっ!」
そのように空に絶叫すると、引き気味の雪輝に詰め寄った。
「楽しみすぎて夜は全然眠れないし、そわそわするから珍しく掃除なんて始めたら深夜にやめろって陽介に怒られるし、喋って落ち着こうと思って雪輝の部屋のインターホン鳴らしまくったけど出てきてくれないし! まあその後なんとか眠れたけどさ」
「ほう、あれはお前だったか。午前三時によくも貴重な睡眠時間を邪魔してくれたな」
雪輝は視線だけでありありと怒りを表現しているが、千鶴は「気づいてたなら出てくれよ!」と口を尖らせた。
「色々やってて疲れてたんだよ。出る気になるかっつーの」
「中間考査は終わっただろ。そういえば終わって早々部屋にこもってたみたいだけど、何してたんだよ。雪輝の方こそまた顔色悪いぞ」
すると雪輝は持っていたファイルを掲げて見せた。
「現代社会学のレポート。近年の社会問題について論じろって課題が出てただろ。しかも古風に手書きって条件で」
それを聞いて、千鶴は驚愕した。
「だって、それって提出期限はまだ一ヶ月も先だろ! もう終わらせたのか!」
「やるべきことは早々に片付けるのが俺の主義だからな」
千鶴は「さすが雪輝」と肩をすくめた。
「じゃあ今から、提出しに行くのか?」
「ああ」
さらりと肯定する雪輝に、千鶴は真顔で詰め寄った。
「終わったなら一緒に行くよな? どうせ暇なんだろ? な? な!」
「寄るな! 顔が近いっ!」
千鶴の顔面を雪輝が鷲掴みにして押しのけた。
「ほら、莉々亜が来たぞ!」
「えっ、も、もう? 雪輝さん、その手をどけてくれませんか!」
「え? なんだって? 聞こえないなぁ」
「雪輝のドS! ガリ勉! ツンデレ! あいたたたたた!」
顔面を覆う雪輝の手に明らかに力が入る。
「おはよう! 遅くなってごめんね!」
莉々亜の声が聞こえたところで、ようやく雪輝の手から千鶴は解放された。
千鶴の目に入った莉々亜は、まるで初夏の妖精だった。
ひらひらと風になびく黄色いシフォンのブラウスにショートパンツを合わせ、ドルマン袖の薄手のカーディガンがとてもよく似合っている。リボンのついたつばの広い大きな帽子はピクニックの時にもかぶっていたもので、小麦色の髪にはぴったりだった。ショートパンツから伸びる長い足先のサンダルはとても涼しげで、パステルピンクの花飾りが可愛らしいアクセントになっている。
「おっ、おはよう!」
千鶴はぎくしゃくと挨拶を返した。
「もしかして待った?」
「全然! だってまだ待ち合わせの時間じゃないだろ?」
腕時計を一瞥すると、まだ九時四十分。待ち合わせの二十分前だ。
「楽しみで早く来ちゃった」
莉々亜はそう言って肩をすくめて笑うと、雪輝に視線を向けた。
「雪輝君も来るの?」
雪輝の目が、どういうわけか一瞬とても冷ややかなものになったように千鶴は感じられた。しかしすぐに「いいや」と面白そうに笑みを浮かべて首を振った。
「安心しろよ、俺は行かないから。二人で楽しんでくるといい」
そして「じゃあな」と踵を返した雪輝だったが、すぐに立ち止まって振り返った。
「千鶴」
「お、おう!」
緊張で無駄に返事が大きくなった。
雪輝が手招きするので駆け寄ると、雪輝は真顔で言った。
「莉々亜のこと、頼むぞ」
「まさか……!」
千鶴は息をのんで、声を押し殺した。
「雪輝ってやっぱり莉々亜のこと――」
「そうじゃないと何度言ったらわかるんだ!」
雪輝にファイルで思い切り頭をはたかれ、千鶴は「いってー!」とむくれて頭をさすった。
「だって絶対そういう感じの言い方なんだもんなぁ」
「馬鹿野郎! 安全運転しろってことだよ!」
「それは任せろよ! これでも操縦技術は学舎内トップなんだからな」
雪輝は疑わしそうに目を細める。だがすぐに肩をすくめて小さく笑った。
「隣に見とれて田んぼに突っ込むなよ」
そう言い残して、雪輝は今度こそ課題の提出に行ってしまった。
「なーんか変だよなぁ……」
そうは呟きながらも雪輝の背を見送りつつ、千鶴は大きく深呼吸をしてから莉々亜に振り返った。
「よし、準備するか!」
「うん!」
千鶴は莉々亜の持っているボストンバッグを受け取ると、バイクの荷台に置いた。
するとポケットに入れていたID端末が鳴った。陽介からのメッセージだ。
『もう出発してるかな? 今日と明日は莉々亜ちゃんと思いっきり楽しんできてね! ちゃんとエスコートしなきゃダメだよ! 健全な星の観察で何があったか、後でちゃ~んと教えてよね☆ お土産話、楽しみにしてます♪』
画面をスクロールしていた千鶴は、「陽介のやつ……」ともらした。ただでさえ緊張しているのに、余計に顔が熱くなってくる。
しかしその後の文面に気づいて、千鶴は真剣な面持ちで画面に目を落とした。
『この前調べてほしいって言われてたやつ、少しずつわかってきたよ。あのワインレッドの鳥のマーク、ちょっとヤバそう。ここでは詳しいことは書けないから、今度直接話すよ。では、また後日』
「どうしたの? 何かあった?」
心配そうに聞いてくる莉々亜に、千鶴は「陽介からだった」と笑顔で言いつつ端末をリュックに突っ込んだ。
「陽介が楽しんでこいってさ」
「陽介君、もう実家に戻ってるの?」
「さすがにもう着いてるだろうな。かなり朝早くに出て行ったみだいだから」
千鶴は莉々亜のボストンバッグをバイクに固定すると、オレンジのパーカーを羽織ってリュックを背負った。
「莉々亜、せっかくそんなにかわいい帽子を持ってきてくれたのに悪いんだけど、これかぶってくれる?」
千鶴は申し訳なく思いながら、ミラーにかけてあったピンクのヘルメットを差し出した。莉々亜は受け取ると小さく笑った。
「かわいいヘルメットね。これ千鶴君の?」
「そんなわけないって! ここで借りたんだよ。このバイクもレンタルしたんだ」
言いながら千鶴もシルバーのヘルメットをかぶった。お互いに顔がみられるように、フルフェイスではなくハーフタイプのものを選んでおいた。耳は覆われるようになっていて、そこがスピーカーになっており、小さなマイクも内蔵されている。走行中でも会話ができる無線付きのものだった。
「あごの下のベルト緩くない?」
「大丈夫よ」
「じゃあ、莉々亜はサイドカーに乗って」
莉々亜は「すごい! こんなのも櫻林館で貸してくれるのね」とはしゃぎながら、帽子を抱えてサイドカーに納まった。千鶴もバイクにまたがってエンジンをかける。
「よーし、それじゃあ出発!」
櫻林館の校門を出て、莉々亜を乗せた千鶴のバイクは広大な緑地に続く道を進んだ。
それを校舎の外階段から見送っていたのは雪輝だった。課題の入ったファイルはまだ抱えたままだ。
千鶴の姿が遠くへ消えると、雪輝は無骨な小型通信機の通話ボタンを押した。ワンコールで通話状態に入る。
「予定通り出発した」
一方的にそれだけを告げて通話を切ると、通信機をポケットにしまって校舎に入った。
少し顔がやつれているものの、雪輝の眼差しはいつになく鋭かった。
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