第12話 噺の価値
年が明けると噺家は忙しくなる。まず元旦は自分の師匠のところに挨拶をしに行く。師匠はそこで弟子にお年玉をあげて新年を祝う。そして、寄席の出番のあるものは、寄席に出かけるのだ。
大師匠が存命ならば、自分の師匠と一緒に大師匠のところに挨拶に行く。そして大師匠からお年玉を貰ってまた新年を祝うのだ。だから、この場合は自分の師匠のところに行くのはかなり早い時間となるのだ。おまけに、寄席でも正月はかなり早い時間からやっている。浅草演芸ホールなどは九時から第一部が始まるから、そこに出る前座などはかなり忙しい。そんな訳で正月は噺家にとって大切な月なのだ。
そんな正月の忙しさも、二十日を過ぎるとやっと落ち着いて来る。「東京よみうり版」もこの頃には平常になっている。
俺はと言えば、年末年始は薫がTVの生番組に出たりしていた。俺も寄席や落語会の取材で忙しかったので、この時期になってやっと一緒にいる時間が作れていた。
「少し遅いけど、今から我が家のお正月だね」
薫はそんなことを言って、ワインをグラスに注ぐ。酒の肴には、スモークサーモンや生ハムなどが並んでいる。
「ごめんね。本当は手料理が良かったんだけど、そこまで時間が無いから買って来たものばかりで」
薫はフォークでサーモンをクルクルと巻くとオニオンのスライスと一緒に俺の口に入れた。油の乗った濃厚なサーモンに若干ピリっとしたオニオンの風味が良く合い、白ワインの味を引き立てていた。
「孝之さんは、白が好きなんだよね。世間は赤ばっかだけどね。私も白が好き。お肉でも白がいいなぁ~」
口を開けたところに今度は俺が同じことをする。薫はニコッと笑いながら、サーモンを美味しそうに白ワインで流し込んだ。
「今夜は早く寝よっか?」
「ああ、そうだな。明日は休みだしな」
それからのことは書くまでもなかろう……
休み明けの月曜、編集部に柳生の師匠の柳太郎師が顔を出した。売れっ子で忙しい身なのに珍しいと思った。
「どうしたのです? 珍しいですね」
俺の質問に師匠は
「いや、先日は柳生と柳星がお世話になりました。お礼も兼ねて寄ってみたんです。今日は珍しく今夜の末広だけなんで、お礼に伺うなら今日しか無いと思いましてね」
そんなことを言ってから、改めて俺に向って
「神山さん、この度は本当にお世話になりました。柳星もこれで見聞が広がるというものです。ところで、良かったら何処かでお昼でもどうですか?」
その言い方に何かあると思った。
「いいですよ。もう出られるので、どこか行きましょうか?」
俺は、そう言って編集部の近所の定食屋に案内した。俺とか佐伯が良く行く店で、カウンターの棚に色々なおかずが並んでいて、トレイに好きなものを載せて、最後に会計をするのだ。
俺がトンカツ定食に肉じゃがを載せて、柳太郎師は鯖味噌煮定食に切り干し大根の煮物を載せた。
それぞれで払うと思ったが、柳太郎師が俺の分も払ってくれた。申し訳ないと言ったら
「いや、こんなものしかお返しが出来ませんけどね」
そんなことを言って笑っていた。俺はその言い方に、本当の話は、お礼なんかでは無いと感じた。こういう俺の勘は大抵当たる。
なるべく目立たない端の席に座る。セルフサービスのお茶を俺が二人分入れて持って行き、早速食べ始める。
トンカツには定番の千切りのキャベツが載っているが、これが軟らかくて、口の中に入れると「ふわっ」として噛み心地が非常に良い。トンカツも程よい厚さで噛むと口の中が肉汁で一杯になる。だが決して脂こくは感じない。キャベツの感触がそれを消し去っているのだ。付け合わせの味噌汁も葱とわかめだが、これもいい出汁なので多少薄めでも、むしろ飲み易くて、ここでも御飯が進む。
別に取った肉じゃがも、味がしみていて実に旨い。今度、薫を暇な時に連れてこようと思った。高校を卒業してから親元を離れているので、大事な時期に『親の味』を覚えられなかったのだ。だから、このような家庭的な味を食べさせてやりたかった。
向かいに座った柳太郎師の鯖味噌煮は半身が載っている。師匠が箸で身を割くと白く脂の載った鯖の肉が現れた。箸で骨を拾わないように慎重に挟み、味噌のタレが付いたまま口に持って行く。
「うん、脂が乗ってるのに、さっぱりとしていて、それでいて、魚臭くないですね。赤味噌と白味噌と両方で作った味噌だれですが、これがいい味です。ほんのり柚子の風味もして、これは私好みですね。御飯をおかわりしたいくらいですよ」
そう言って良く口を動かしていた。そして食べながら
「昨年、高倉健さんが亡くなったでしょう。それで、追悼番組で、昔の映画をやってましたよね。実はあれで、ちょっとショックなことがありましてね」
俺は、柳太郎師の今日の本当の目的の話が始まったと感じた。
「健さんの追悼番組というと映画ですか?」
「ええ、そうなんです。追悼の映画ということでウチの協会の前座なんかも見ていたそうなんですよ。仕事の合間にそんな話をしてましてね。その内容なんですが、映画を見ていてセリフが聞き取り難かったというんですよ。それを聞いて、ちょっとショックでしてね。あのやっていた映画は私なぞ若いころ映画館に行って見た作品ばかりですよ。今回の放送は録画して見たのですが、それでもセリフが聞き取り難いとは思いませんでした。これって、時代的にどうなんですかねえ?」
柳太郎師の言葉を聞いて俺は、世界的な名作と言われる黒澤明監督の「七人の侍」を思い出した。俺も、あれを最初に見た時はセリフが聞き取り難かったのだ。何と言うか言葉 の言い回しや、微妙な早さが今と違っていて、肝心なところが聞きそびれてしまったりしていた。DVDだったので字幕をONにして見たのだ。俺はその時のことを思い出していた。
そして、そのことを柳太郎師に言うと、師匠も「アッ」と小さく声を出した。身に覚えがあるのだろう。柳太郎師は俺よりも一回り以上年長だが、やはり「七人の侍」では覚えがあったようだ。
「そうでした。あの作品にも限らず、昔の映画にはそんなこともありました。でも、時代によって言葉が変わって行くのは判るのですが、落語の場合はどうなんでしょう? 志ん生師のCDなぞ今聞いてもそのまま判りますが……」
柳太郎師はプロの噺家だから、イマイチ解りづらいのかも知れないが、志ん生師は落語初心者には、いきなりでは荷が重いのだ。聞き慣れるのに若干の時間を必要とする。慣れてしまえば、あれほど夢中にさせる噺家はいないのだが…‥
俺は、そんなことを柳太郎師に言うと、
「そうでしたか、我々には、そこの所は判りずらいですね。私は新作中心だから良く判るのですが、古典落語で今に生き残ってるのは、人間として普遍の価値を描いた作品ばかりですよね。勿論、くすぐりも良く出来たモノは未だに残っていますが、本当に良く出来ていますよ。自分で噺を作ってると、何かしら古典落語に近いものになってしまうのですよ。それをいつも気をつけて作ってはいるのですがね……でも、いずれ、映画のようなことが落語の世界でも起きるのでしょうね。その時の噺家はどう対処するのか、今から我々がそのことを考えておかないと、落語は本当に古典芸能になってしまいます」
柳太郎師はそこまで一気に言うと、冷めかかった味噌汁を口にした。
食事の後、柳太郎師は別れ際に
「この下席は私が末広の夜のトリを取っていますから、今さっき言ったことを考えて高座に上がっています。良かったら聴きに来てください」
柳太郎師の今日の本当の用事がやっと判った次第だ。
柳太郎師に言われていつ行くか考えていたのだが、給料日前のある日、帰ると薫が嬉しそうにしていたので訳を尋ねると
「明日と明後日、急にオフになっちゃった。ゆっくり出来るんだ。連絡待ちなので携帯の電波が届かない所には行けないけど、家でならゆっくり出来るよ」
眩しいような笑顔を俺に見せてくれる。この顔を見るだけで多少料理が出来ないことなぞどうでも良くなる。
「じゃあ、あした落語聴きに行くか? 柳太郎師から聴きに来てくれって頼まれているんだ」
「うん行く! 孝之さんと寄席に行くのも久しぶりだし、編集部まで私が迎えに行けば良いのでしょう。そのまま一緒に行けば良いよね」
飲み込みが速いので助かる。くどくど説明しなくても、俺が何故寄席に柳太郎師の噺を聴きに行くのか大凡は理解している。
当日、夕方になって編集部に薫が顔を見せた。俺の妻だとは皆知っているが、売れっ子の女優が姿を見せたので、そこに居た皆が色めき立った。
「どうも、いつも主人がお世話になっております」
そんな挨拶も板について来た感がある。俺はやりかけの仕事を終わらせると
「取材兼デートなのでお先に失礼します」
そう言って編集部を後にした。後ろで、まだざわついたた感じが伺えた。
「私が行って迷惑だったかな?」
薫の余計な心配に、俺はそれを打ち消すように言った。
「そんなことは無いよ。むしろお前の顔を見て喜んだんじゃないのか。サインだってしたしな」
地下鉄を新宿三丁目で降りて、数分歩くと末広亭はある。数年前改築されて内部は近代的な感じに変わったが、建物の外観はまるでそこだけ江戸が残ってる感じがするのは変わらない。そこがこの寄席の売りでもある。
取材なら顔で入るのだが、今日はプライベートだ。入場料を払うとテケツのおばさんが
「あら、今日はどうしたの? いいのよ……ああ、彼女連れだから、以外と堅いのね」
そんなことを言われてしまって、もぎりの人にも
「今日はお楽しみですね」
なんて言って笑ってる。まあ良い、お楽しみには違い無いのだからな……
プログラムを見ると喰い付きの後で柳生も出ていた。師匠がトリだから一門がかなり出ていて、柳太郎師の兄弟弟子も大勢出ていた。
七割ほどの入りで、訳なく席を確保出来た。ちょうど噺が終わり違う噺家の出囃子が流れていた。
若手が二人ほど出ると、色物さんが登場する。色物さんとは、寄席で落語と講談以外の芸人の名前を書くときに朱字で書いたところからそう呼ばれている。高座に上がったのはボーイズのコンビで本当はトリオだったのだが数年前に一人亡くなってしまったのでそのまま出演しているのだ。この芸は見事で、この人達の芸を見るだけでも寄席に来る価値があると思う。
その後、数人出て仲入りとなった。座ってそのままにしていたら、後ろから肩を叩かれた。振り返ると柳生だった。
「師匠に言われて聴きに来てくれたのですか。先ほど連絡しておきました。多分師匠は八時頃じゃないと入れませんからね。ゆっくり遊んで行って下さい。でも入場料払ったそうじゃないですか、水臭いですよ全く」
「まあ、今日は薫と一緒だから、デートだから」
そんな言い訳をしたが、俺の入場料が幾らかにでもなるなら、それで良いと思った。
仲入り後の食付きは若手の二つ目が上がることになっている。今日はその中でも最近特に評判が良い者が上がった。そしてその後が柳生だ。
小鍛治の出囃子に乗って彼が登場すると高座に華が開いたようになる。薫が
「柳生さんが人気あるのが良く判る。輝いているものね」
薫は落語の真髄は判らなくても、芸人としての柳生の凄さは良く理解出来るようだ。噺は「崇徳院」だった。これは、若旦那が先日、上野の清水さんで出会った娘さんにひと目惚れして恋煩いの病気になる。その理由を聞いた熊さんが、大旦那にその相手を探すように頼まれて四苦八苦する噺で頼みの綱はその時に娘さんから貰った百人一首の崇徳院様の句「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の割れても末に 逢わんとぞ思う」だけで、散々探して遂に同じように娘さんの親御さんから、ある床屋で若旦那を探すように頼まれた頭と出会う。「お前をお店に、いいいやお前こそ」とやってるうちに床屋の鏡を割ってしまい。「ああ、どうするんだよ!」と言う言葉に二人共「割れても末に買わんとぞ思う」と洒落で下げる噺だ。
柳生は寄席らしくコンパクトに纏めながらも客席を湧かして高座を降りた。薫が
「今日聴いた中で一番面白かったね。さすがだね柳生さん」
どうやら、薫にも判ったみたいだった。
その後、番組が進み柳太郎師のトリの出番となった。この時刻だと帰る客もいるが、さすがに人気者だけあって、ほぼ満員となった。
独特のカントリーミュージックの出囃子に乗って柳太郎師が登場した。割れんばかりの拍手だ。お客がどんなことを言うのかと前のめりになっているのが良く判る。
「え~今日の一番最後です。わたしの後は誰も出て来ません。掃除の小父さんぐらいですね。帰りたくない! という方は一緒に掃除して行ってください」
そんな事を言って笑いを取って客を掴んだ。この辺はさすがだ。マクラを幾つか振って、噺に入って行く。師の場合は新作の時もあるが、どうやら今日は古典みたいだ。噺に入ってすぐに「悋気の独楽」だと判った。この噺は……
夜になるといつも外出する旦那。それを「女のところでは」とあやしく思った女将さんは、小僧の定吉に後をつけさせる。するとやはり、旦那は妾のところへ。定吉に気づいた旦那は、彼をを買収し、妾の家に連れて行く。まんじゅうを食べさせて貰ったりしてゴキゲンだ。そこでは、三つの独楽でその晩の旦那の身の振り方を占うことにしていた。定吉は、その辻占の独楽をみやげにもらって帰ってくる。
ところが、定吉の行動を怪しいと思った女将さんは、定吉の後に女中を付けさせ監視していたと嘘をつく。それを信用して正直に話してしまう定吉。女将さんが
「今日は旦那は帰って来るのかい?」
と尋ねるので定吉は貰って来た独楽を回す。三つの駒はそれぞれ、お妾さん、旦那、女将さんとなっており、三つとも廻すと旦那の独楽はお妾さんの独楽にくっついて仕舞います。
「もう一回やってご覧」
女将さんの言葉に定吉は文句を言いながらももう一度廻します。でも結果は同じでした。
「やっぱりお泊りです!」
「おかしいわね。その独楽見てごらん」
「ああ、女将さんこれは駄目です。肝心の心棒(辛抱)が狂ってます。
サゲが決まって、割れんばかりの拍手の中で柳太郎師が高座で座布団を降りて、
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
と言って頭をサゲている。寄席のトリを取った者はお客が皆帰るか、緞帳が降りるまでこうやるのだ。以外だが立川談志師は自分の会でも、かって出ていた寄席でもお客が皆帰るまで、頭を下げ続けていたそうだ。実はお客も常連になると、そんな所を見ていたりする。
人が空くのを待っていたら、前座くんがやって来て
「柳太郎師が良かったらこの後、ご一緒にということです」
俺は多分、今夜の噺だと思った、多分この後飲みながらでもということなのだろう。
「じゃあ、前で待ってますと伝えて下さい」
そう言ってポチ袋に入れた千円を手渡す。本当はもっとあげても良かったのだが、伝言だけだからこのぐらいでも良いだろうと思った。
薫と二人で末広の前で待っていると、柳太郎師と柳生が一緒に出て来た。
「あれ、一緒かい?」
そう言って囃し立てると柳生は
「神山さんの顔を見たので、これからラジオです。渋谷まで行きます。仕事の始まりが遅いんですよ。だから楽屋で時間を潰していたんです。それじゃ私は行きますから、師匠、神山さん、そして奥様、失礼します」
挨拶をして柳生が駅の方に歩いて行った。それを見送ると柳太郎師が
「この近所にいい店があるんですよ」
そう言って行きつけの店に案内してくれた。
店は、いかにも噺家が好みそうな隠れ家と言った雰囲気の店で、幾つかの肴と柳太郎師の勧めで吟醸酒を三人とも呑むことにした。薫も呑める口なので、一口飲むと
「ああ、これ美味しいですね。とてもフルーティで果実酒みたいですね」
そう言って褒めると柳太郎師が喜んで
「そうでしょう。まるでお米から作ったとは思えないでしょう」
俺も口をつけると確かに果実のような香りと味わいが口の中に広がるが、いつまでもそれが残っていない。他の食べ物の味を引き立てるが邪魔はしないのだ。そんなことを言うと
「そうでしょう。実は今日の噺もそんな感じで演じたんです」
確かに、柳太郎師の古典は古典と言うよりも古典を新作落語の観点から作り直している感じだから、ちゃんとした古典落語とは言いがたい。勿論そんなことは本人が一番知っていることで、かって師は我が「よみうり版」のインタビューで
「古典落語の口調を覚えなくて良かった」
と語った経緯がある。それを取材したのが俺だから、ハッキリと覚えている。趣旨としては、古典落語の口調が身についてしまうと、自分の場合、TVなどのレポーターでは使って貰えなくなるとか色々と障害がある。そして将来古典を演じることがあっても、自分の場合は恐らく新作落語家から見た古典になるであろうから、今覚える必要はなかった。と言う趣旨だったのだ。それが、その部分だけがひとり歩きして、古典一筋の噺家から随分皮肉を言われたそうだ。
その時、俺は雑誌としての「東京よみうり版」の弱さを痛感したのだった。だからあの発言は俺にとっても忘れられない言葉だった。
「私が古典落語をきちんと演じても、どんなに頑張っても正直弟子の柳生にも及ばないでしょう。それは自分が一番良く判っています。でも、古典って本当に良く出来ているんですよ。新作を作っていると、それが本当に良く判ります。だから、何時の時代でも通じるようにしてみたいのです。勿論、昔ながらの言葉を大切にした噺も残って行くべきです。それと同時に、現代の感覚で解釈した判り易く誰でもが共感出来る噺もあっても良いと思うのです。そうやって生きた噺として残して行けば、映画のようなセリフが聞き取れないなどと言うことは無くなると思うのです。だから、今席は聴きに来て欲しかったのです」
俺は空になった柳太郎師のグラスに酒を注ぐ。師はそれに口を付けて呑むと
「ああ、旨いなぁ~」
と溜息をついた。すると横から薫が
「師匠、私は孝之さんと付き合いだしてから落語を聴きだした新参者ですが、今日の師匠の高座、とても良かったと思います。私たち舞台俳優は発声の稽古や訓練をいっぱいします。それはプロとしてのセリフを言えるようになる為です。観客に聞き取り易く、そして感情を判ってくれるように、共感して貰えるようになるために稽古をします。今日の高座は、師匠が『落語ってこんなに面白いんだよ』って言外に語りかけてくれるようでした。私、そう感じたんです。だから、今日連れて来て貰ってとても良かったと思いました。師匠の考え間違っていないと思います」
以外なことだが、薫は俺以外には自分の考えを余りハッキリとは言わない方だ。その薫がここまで言うのはやはり感じるものがあったのだろう。
俺達三人はもう一度乾杯をした。
柳太郎師と別れて、家路につくと薫が
「ゴメンねなんか偉そうなこと言ってしまって」
腕を絡ませながら俺の顔を上目使いに見上げる。それは俺にとってはとても魅力的な表情で、そんな顔をされたら俺が何も言えなくなるのを判っているだと思った。
「柳太郎師の考えは間違っていない。だが、あの考えが出たのはやはり柳生と言う古典落語の名手になりうる弟子を持ったことからだろうな。だから吹っ切れたんだと思う」
「吹っ切れたって?」
「噺家になる者は大抵の者は一度は古典落語に憧れる。なれるなら自分も名手になってみたい。でも自分にその素質がなかったり、新作を作る能力があったりしたら、道は違って来るだろう。そんな時に中途半端に古典をやってて、弟子が自分よりも遥かに上手かったら、どうする?」
俺の言葉に薫は暫く考えてから
「そうか、だから自分にしか出来ない道を選んだのか……」
「まあ、俺の想像だけどな。寒くなって来た。早く帰って温まろう二人で」
そんな冗談をさらりと受け流して、薫が微笑む。明日も薫は休みだそうだ。頑張るかな……
見上げると天に月が煌々と輝いていた。
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