第11話 育てるということ

 沖縄のロケから薫が帰って来て「子作り」をすることになったのだが、ドラマのスタジオでの収録が始まったので、相変わらず忙しくしていた。

 近郊でのロケの日はかなり早く出て行く。薫はそんなことも気にしているようで、

「ごめんね」

 と言って俺が休みの日に出て行く日にはそんなことも口にしていた。

「気にするな。そのうち授かるよ」

 俺がそう返すと嬉しそうに「うん」と言って出て行った。

 今日は、俺は休みだが仕事が無い訳ではない。来月号に載せる原稿を書かなくてはならない。ノートパソコンを立ち上げて原稿を書いていると、携帯が鳴った。着信を見ると柳生だった。

 電話の内容は、弟子の柳星くんについてだった。彼の所属している噺家芸術協会では、前座になる前に見習いという身分がある。これは前座としての仕事を覚える為の準備期間とでも言う期間で、寄席の楽屋に入る前に、師匠に付いて、様々な事を覚えるのだ。それはまず、落語界のしきたりや礼儀作法、着物の扱い方、鳴り物の稽古、そして噺と色々な事を覚え、ある程度それらが身に付いた時点で晴れて前座として楽屋で働くことが許されるのだ。噺家協会や、別の一門でもこれはそう変わらない。言い換えれば、大衆芸能で、いつも庶民のものだった落語がそこから少しずつ乖離して段々と古典芸能化して来ていると言うことなのだ。

 その柳星くんについて相談があるのだという。俺は、今日は一人なのでマンションで原稿を書いてると言うと、それならこれから行くと言って電話を切った。


 

 昼少し前に柳生は弁松の高そうな弁当を二つ持ってやって来た。それを見て

「法事の帰りかい?」

 と世間では通じない冗談を言って笑った。

「嫌だなぁ、デパートに寄って買って来たんですよ。手ぶらじゃ来にくいし」

 柳生も笑いながら返すので上がって貰う。コーヒーでも入れようとすると、別な袋から吟醸酒を出して

「原稿はもう終わったのでしょう? ならいい酒を貰ったので少し飲みましょうよ」

 そんなことを言って俺に冷酒用のグラスを出すように促す。全く、勝手知ったる何とかだと思った。

 酒をグラスに注ぎ、吟醸の旨味を味わいながら、持って来てくれた弁松の弁当に箸をつける。煮物などのやや濃い味が吟醸に良く合う。柳生は酒飲みの好みが判る男だと思った。

「で、柳星くんについての相談って何かな」

 柳生は飲んでいたグラスの吟醸を飲み干すと

「実は見習いの間に、上方の世界も見させておこうと思いましてね。向こうはこっちとは違いますから将来色々と参考になると思うのですよ。でも私はそんな事を頼めるほど仲の良い方がいませんしね。それで神山さんなら桂雀枝師とも親しいから、紹介して貰えないかと思いましてね」

 なるほど、柳生の趣旨は良く判った。俺も正直、上方落語の業界についてはそんなに詳しくはない。教えるなら直に接した方が吸収は早いと思った。

「つまり、雀枝師に少しの間預けようというのかい?」

「ええ、そうなんです。雑用にでも使って貰えば、色々な益になるかと思うのですが……」

 柳生の考えは判ったが、問題は雀枝師が引き受けてくれるかどうかだった。それに雀枝師は今は上方噺家協会を既に抜けてしまっている。その辺の問題もある。

「第一、柳星くんはどうなんだい。上方落語には抵抗がないのかい?」

「それは無いです。元々あいつは兵庫の出身ですから。もっとも田舎の方ですけどね」

 そうか、元々があっちの出なら多少は知って於いた方が良いかも知れなかった。

「判った。兎に角、連絡を取ってみるよ」

 その後、雀枝師に連絡を取ると、近々落語会の告知で編集部に来るというので、その時まずは俺から話してみて、その後正式に柳生が雀枝師に頼むという手筈になった。


 翌週、雀枝師がその陽気な姿を編集部に見せてくれた。

「やあ、ご無沙汰しております。神山はん始め佐伯はんも皆さんお元気そうで、宜しいですなあ」

「師匠こそ、こっちでも忙しそうで良かったですね」

 俺の言葉に雀枝師は

「いや、ホンマですねん。こっちでは濃い上方落語なんぞ、そうウケはしないと思ってはりましたんやけど、以外に需要があるんですわ。そこで二月に一度開いていた独演会を月一にしようと思いましてな。それの告知をお願いに参上したと言う訳けですわ」

 雀枝師に椅子を薦めてお茶を出す。

「ああ、おおきに」

 お礼を言って美味そうにお茶を飲むと

「この前、電話で言っていた頼みたいことってなんですねん」

 早々と俺に尋ねて来た。相変わらずせっかちだと思った。

「実は、麗々亭柳生って噺家がいますよね。彼が今度弟子を取ったのですよ。まだ見習いで寄席には出られないので、その期間に上方落語の世界に触れさせたいそうなんですよ。でも自分にはそんなことを頼める人物も居ないので、相談を受けたのです」

 俺がそこまで言うと察しの早い雀枝師はニヤリと笑いながら

「そこで、ワテの顔が浮かんだんですな。なるほど……」

「駄目でしょうかねえ?」

 俺が頼み込むと雀枝師は更に嬉しそうに

「良かったですわ。正直、向こうで取った弟子は向こうでやってますから連れて来る訳にはいきませんやろ。だから、こっちで難儀しておったんですわ。預かってる間、弟子同様で宜しいんですやろ?」

「それはは、もう。良いなら、柳生師とその弟子の柳星が正式に頼みに伺いますよ」

「なら、決まりですな。最近はこれでも月に一~二度は上方での仕事もあるんですわ。全部断って出て来たんですが、そうは問屋が卸さない言うんですかな。そんな時に連れて行って向こうの世界も見せますわ」

 それは有りがたかった。そして貰えれば柳生も喜ぶだろう。

「神山はんは知ってるかどうか判りまへんけど。実は上方噺家協会にも、ランク言うんはあるんですわ。見習い、前座、真打とね。見習いと前座はこちらと同じ意味ですが、向こうの前座は寄席の仕事はやりしまへん。それはお茶子さんがやりますからな。まあ、協会内のランクですわな。二つ目と言う言い方はしまへんが、弟子を取れる噺家を真打、取れない噺家を事実上の二つ目と分けておます。まあ、それはそのランクに合った名前を襲名することで、判るという寸法ですわ」

 そんな区分けが身内だけとはいえ行われているとは全く知らなかった。聞いて見なければ判らないと思った。

「それなら、都合の良い時に引き合わせますよ」

「そうでっか、なら楽しみにしております」

 そう言い残して雀枝師は帰って行った。すぐに柳生に連絡を取って今日のことを話したら大層喜んだ。


 日時の調整をしたところ、次の週の初めに柳生が一席設けることで落ちついた。最近売れて来ただけに少し格の高い店を奢った。

 都心からやや外れた小奇麗な庭のある店に着いて、柳生の本名を言うと中居さんが案内してくれた。部屋に入ると、柳生と弟子の柳星くんが既に到着していた。柳生らしく人を待たせるのが嫌いみたいだ。

 柳星くんは次の間で正座して控えている。下座に座った柳生が、

「神山さんも、どうぞ上座へ」

 と言ってくれたが、どうもそんな身分じゃないので、長方形の座卓の横にとりあえず座らせて貰い雀枝師を待つことにした。

 時間丁度に雀枝師が到着して、挨拶が始まる。

「はじめまして、お噂は常々伺っておりましたが、今回はご無理なお願いを致しまして本当にありがとうございます!」

「なんの、わても一人では色々と困ることが多くて難儀しておったんですわ。柳星くんには本当の弟子と思って色々と上方のことを勉強して貰おうと思っておるんですわ」

 結局、そのままの変形的な座り方で宴席が始まってしまった。柳星くんは雀枝師に挨拶をして、色々なことを雀枝師から言われると、

「何時からこっちに来れる?」

 雀枝師がそう尋ねると柳星くんは

「何時からでも伺えます。師匠からは今日これからでも良いと許可を貰っています」

 そう言って真剣な目をしたので雀枝師が

「いくら何でも今日はアカンな……じゃあ明後日からウチに通いなさい。柳生はんそれでよろしおますか?」

 そう柳生に尋ねてきたので柳生も「構いません」と許可を出して話が纏まった。その後、柳星くんは柳生から小遣いを貰ってどこか外に食事をしに行った。まあ、妥当だと思う。


 宴席では、雀枝師が上方の師匠達の色々なエピソードを話したりして大いに盛り上がった。終わって外に出て見ると、表で柳星くんが師匠達を待っていた。師弟二人は雀枝師に挨拶をして帰って行った。それを見送った俺に、師弟を見ていた雀枝師は

「柳生はんという人は細かいところにまで神経の行き届く人でんな。わてとは大違いでっせ」

 そんなことを言って感心していた。

 近くの駅まで一緒に帰り

「ほなら、べっぴんの奥様によろしゅう」

 そう陽気な声でそれぞれ反対の電車の人となった。

 柳星くんは柳生の弟子だから、どう育てるのかは自由だが、面白いことを考えるのだと思った。俺の見たところ柳星くんは行儀作法はきちんと身に付いている感じだ。きっと柳生が厳しく仕込んだのだろう。それは、この前の稽古を見ていても良く判る。あいつは落語に妥協をしない性格なんだと理解した。

 家に帰る道でタクシーが止まった。後ろのドアが開くと降りて来たのは薫だった。

「歩いているのを見つけちゃったから、降りたの。家まで一緒に帰ろう」

 薄手のコートに薫の腕が絡んで来る。肩に少しだけ重みを感じて歩き出す。

「今日は早く終わったんだな」

「うん。私の出番はもう少しで終わるんだ。そうしたら少しゆっくり出来るんだ」

「そうか、それからだな」

「孝之さんは仕事はどうなの?」

「変わらんよ。人の顔ぶれは変われど、やることはそう変わりはしない。お前は気にするな」

「うん、でもわたし、奥さんらしいこと余り出来ないから……」

「それも含めて、気にしなくていい。女優をしてるお前を貰ったんだからな」

「ありがとう! 寒いからもっとくっつくね」

 そう薫が言って体全体を俺に密着させて来た。俺は薫の肩を抱いて家に帰る道を歩く。そして今日のことを話すと

「柳生さん、落語界の将来を見据えているんだね。噺家としては若手なのに凄いね」

 妙に感心している。薫も腕を俺の横腹に伸ばして来た。

「帰ったら、ワインでも飲むか?」

「うん!」

 見上げると冬の月がくっきりと天で輝いていた。


※……話の最初の方で、弁松の弁当云々の洒落とは落語「子別れ」で、熊さんが黒豆のおこわが入った「弁松」の弁当を持って葬式の帰りに吉原に遊びに行くシーンがあり、その洒落という意味です。

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