第10話 受け継ぐということ
木枯らしが街の中を吹き始めた頃のことだった。薫が
「ドラマのロケでひと月沖縄の方の島に滞在することになってしまったの」
そう言って頬を膨らませた。仕事なら仕方あるまいと思うのだが
「わたしが居ない間、ちゃんと出来る?」
何が出来るというのだろうか、理解に苦しむ。大体俺は独身が長かったから今更妻が居なくても平気なのだが……それは、顔を見ないというのは寂しいものだが、それさえ我慢出来れば何とかなる。
「浮気とかしない?」
結局はそこが心配なのかと腹の中で笑った。
「あのな、どこにこれから他の女と浮気します。なんて言う男がいるかよ!」
そう返事をすると、意外とケロリとして
「そうね。訊いたわたしが馬鹿だった。でも信じてるし、毎日電話するからね」
そう言い残してひと月のロケに旅立って行った。薫は沖縄と言っていたが、正しくは慶良間諸島の渡嘉敷島と座間味島でのロケらしい。らしいというのは薫が地理に弱く、俺も余り気にしなかったからだ。女優と結婚したのだ。このぐらいは覚悟の上だった。
そんな訳で俺が久しぶりの独身を謳歌していた時だった。編集部に三遊亭盛喬がやって来たのだ。
そう盛喬はあの圓朝師の怪異談の時の噺家だ。あれからもたまにだが会って話などをしていた。
「何だ師匠、珍しいじゃないか、どうかしたの?」
俺の軽い質問に盛喬は
「実はちょっと困った事になってしまいまして、相談と言うか紹介して欲しいんです」
「紹介? 誰を?」
「実は、話せば長いんですが、聞いて下さい」
盛喬はそう言って語りだした。
「実は、私の幼なじみに宮大工になった奴がいるんです。そいつの親父さんが実は宮大工でして、親父さんは、息子にそんな絶滅しかけてる職業に就かせたく無くて、大学の建築科をださせて、設計士の資格を取らせて、どこか一流企業に就職させるつもりだったのですが、幼なじみは大学を出たら『宮大工になりたい』と言い出したのです。親父さんから言えば宮大工になるなら高卒でも構わないし、設計士じゃなくて建築士でも良かった訳なんです。だから、今更なんだと反対したら、幼なじみは『じゃあ別のところで修行する』って出て行ってしまったんです。それからは絶縁状態が続きました」
盛喬はそこまで言って、高梨が入れてくれたお茶を飲んだ。
「それが、俺とどう繋がるんだ?」
どうも盛喬の話はまどろっこしい。先を急がせる。
「それが、もう十五年前です。今では一人前になりました。宮大工なんて噺家みたいに狭い世界ですから、色々な噂がすぐに伝わります。幼なじみの親父さんも寄る年波には勝てなくて、最近は思うように仕事が出来なくなって来たのです。そうしたら、幼なじみの努めている会社の社長が、『お前の親父さんも大分調子が悪いと聞いている。どうだ、そろそろ帰ったら。お前が出て来た事情は良く判っているが、そろそろ拘りを捨てたらどうなんだ』と言ってくれたのです。でも、幼なじみは『俺は死ぬまでここで……』と言って実家に帰ろうとしないんですよ」
そこまで言って再びお茶を飲んだ。俺が
「そこで、何なんだ?」
全く前説が長い
「いや、噺家なものでマクラから言わないと調子が出なくて……。ああ、そうそう、それで今度の自分の会で二人のために『火事息子』をやろうと思ってるんです。そこで、柳生師匠を紹介して貰おうと思いましてやって来ました。お願いします。稽古をお願いしたいのです」
そこまで言ってやっと盛喬が何の為に来たのかが判った。
「話が長すぎる。実は親友の為に『火事息子』をやりたいので、柳生師匠を紹介して下さい。で済むだろう」
全く呆れる。こいつこんなんで難しい「火事息子」なんて出来るのか?
「要するに、二人を会に呼んで噺を聞かせて仲直りをさせたいんだろう?」
俺がそこまで言うと盛喬はにっこりと笑って
「さすが神山さんです。話が早い!」
「お前が遅いんだろう。でも師匠、付き合いが無いのか?」
「協会が違うから寄席では会いませんし、私が有名な落語会には呼ばれませんから」
なるほど、復活してからの柳生は寄席はおろか、有名な落語会にも出演している。盛喬とはレベルが違うという訳だ。
「判った。そういう事情なら紹介はしてやるが、交渉は自分でな」
「はい、ありがとうございます。それはもう……」
こうして俺は盛喬に柳生を紹介することになったのだ。
それから数日後、俺は編集部で柳生と盛喬を引きあわせていた。盛喬が柳生に「火事息子」の稽古を頼むのは理由がある。「火事息子」という噺は六代目圓生師の型と八代目林家正蔵師の型とある。まあ、他にもあるのだが(三代目三木助師の型とか)ここでは取り上げないことにする。
近年では古今亭志ん朝師が有名だが、柳生の「火事息子」はその志ん朝師直伝なのだ。柳生の才能を早くから見て取った志ん朝師は協会の垣根を越えて稽古を付けてくれたのだ。だから、盛喬もそれを知っている。本来なら彼も六代目圓生一門に連なるはずだが、今や三遊亭は惨憺たる有り様だ。芸の伝承がなされていない。活躍する直弟子が新作の圓丈師では致し方ない。そこで盛喬は柳生に稽古を頼んだのだ。
「いいですよ。他ならぬ神山さんの紹介ですからね。その代わり、私の稽古は厳しいですからね」
そう言って笑ってた柳生の目は真剣だった。こいつのこんな真剣な目は始めて見た。
ちなみに「火事息子」という噺は……
神田の質屋の若旦那は子供の頃から火事が大好きで、火消しになりたくて頭の元へ頼みにいくが、ヤクザな家業には向かないと断られ、どこも引き受けてくれません。
仕方なく火消し屋敷に入り、手首の先まで入れ墨をして、当然家は勘当されます。
質屋の近くで火事が発生し土蔵の目塗りをすることにしたが左官が来てくれないので、番頭が梯子に登り、素人細工をするがうまくいきません。
そこへ、屋根から屋根を飛び越えて臥煙が駆けつけて、手伝ってくれたので、やがて鎮火し、駆けつけてくれた臥煙にお礼をいうことになったが、何と実は勘当した息子でした。
親父は冷たい態度を取りますが、母親は嬉しくって、結城の着物をあげようしますが、父親は捨てろといいます。
目の前に捨てれば拾っていくだろうとの親心。
「よく言ってくれなすった、箪笥ごと捨てましょう、お小遣いは千両も捨てて……」
しまいには、この子は小さいころから色白で黒が似合うから、
黒羽二重の紋付きを着せて、小僧を供に……
黒羽二重を着せてどこに行かせるのか、と父親。
火事のお陰で会えたのだから、火元にお礼に行かせましょう。
そう言って下げる噺だが、親の子に対する情と子供が親を心配する情が噺のメインになる。その辺を上ずらだけではなく、きちんと表現出来る事が求められてる噺だ。生易しくはない。
噺の稽古は主に「東京よみうり版」の会議室が使われた。会議のない時に二人がやって来て稽古をするのだ。防音装置がある訳ではないので、たまに柳生の盛喬を叱責する声が聴こえる。
「駄目駄目! なにやってるんですか! そんなんじゃ真剣に聴いているお客さんの心は掴めませんよ。もう一度!」
普段の穏やかで人当たりの優しい柳生の声ではなかった。何回も聴いているうちに、俺は柳生も命を掛けて伝えているなら、それを受け継ぐ盛喬も真剣だと感じた。理屈ではない。噺家の心と心がぶつかり合っているのだと思った。
落語の稽古は昔は三編稽古と言われ、三回までは師匠が目の前で話してくれるが、三回目を終えたなら、その場で話せなくてはならない稽古のことで、普通は全てこれだった。その稽古中はメモも取ることも許されず、ひたすら頭の中に覚え込んだものだったそうだ。今でもその稽古をする師匠はかなり居るが、忙しくなった今は殆んどの師匠が録音を許可している。中には最初から自分が録音をした媒体を渡して、出来上がりも録音で確認するなんて噺家の風上にも置けない奴がいる。
柳生はどうやら三編稽古ではないものの、録音は許さないみたいだ。盛喬の柳生に対する声で判る。
何回かお茶を持って行ったことがあつたが(スケベ根性で見てみたかった)本当に火の出る様な稽古だった。
普通、稽古は師匠の家か、最近多いのが協会の事務所や寄席の裏方の部屋などで行うのが多いが、この場合はそのどちらも無理なので、編集部の会議室が選ばれたのだ。
柳生の稽古は苛烈を極めたが、俺が聴いていても盛喬の噺が上手くなって来たのが判った。そしてある日のこと、上がりの日となった。「上がり」とは教えた相手がきちんと覚えたか、教えた者の前で一席きちんと話して許可を貰うことである。これをやらないと噺家は人前でその噺を話すことが出来ないのだ。
編集室に盛喬の声が流れて来る。編集室に居る皆が耳を傾けて聴いている。仕事をしながらでも耳は盛喬に集中しているのだ。
出足は順調に行く。臥煙になった息子の登場だ。番頭さんを助ける仕草は見えないが、話しぷりで判る感じがする。
そして、最後のシーンとなった。
「火事のお陰で会えたのだから、火元にお礼にやりゃしょう」
沈黙が流れた後で柳生の小さな声が聞こえて来た。
「出来たね。これだけ出来れば大丈夫だよ」
「師匠、ありがとうございます! 本当にありがとうございました!」
「決して今の呼吸忘れないようにね」
その声が聞こえた後で、編集室のドアが開いて
「どうもありがとうございました! おかげ様で上がりを貰うことが出来ました。本当にありがとうございました」
盛喬は何回もお礼を言って帰って行った。残った柳生に俺は尋ねて見ると
「大丈夫ですよ。あの噺は私が志ん朝師匠の命を受け継ぐ様な形で受け継いだので、彼にも真剣に覚えて欲しかったのです。だから、通常の稽古より厳しくしました。ひと月で良くやったと思います」
当代一の若手噺家のお墨付きが出たのだ盛喬よ頑張れと祈るのだった。
その後、盛喬からの報告では、噺を聴き終わった親子は和解したという。
お互いにつまらない意地を張っていたことを詫びたそうだ。
そして、盛喬の幼なじみは家業を継いだと言うことだった。親を思う息子の気持ちと息子を思う親の気持ちが重なった瞬間だったのだろう……
久しぶりに薫が帰って来た。慶良間諸島でのロケは順調に行ったそうだ。薫は家に帰るなり俺に抱きつき涙を流した。何でも恋しくて毎晩空を見上げていたそうだ。この先に俺が居ると思って……
「赤ちゃんつくろう……ね、いいでしょう? わたしたちの命を受け継ぐ子が欲しくなっちゃった」
よほど南の島で寂しかったのだろう。
「ああ、いいぞ。でも仕事はいいのか?」
「うん。何とでもなる。だから……ね」
これからは色々な意味で忙しくなると俺は思うのだった。
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