◆第1部 偽りの魔法使い

 第1章 あぁ無情 -①-「目が覚めるとパンイチでした」

 隙あらば肌を焼こうとするこの暴力的な日光が、涼やかに葉を撫でる秋風に毒気を抜かれた頃。


「あー……」


 ビールを注いだ時のように、細かく泡立つ尿に対して不摂生が祟ったかと嘆く。

 最近の食生活は、漫画の描き過ぎで腱鞘炎になった影響もあり、カップ麺とコンビニ弁当。不健康まっしぐらだ。


「そりゃこんな色になりますよっ、と……ん?」


 用も足し終え、レバーに手をかざした瞬間我が目を疑った。


「うわっ……」


 便器の中が赤い。

 よもや血尿を出す程までに、自分の体は限界だったのかと驚愕したが、先程手元を見ていた時は、黄色みが若干強い程度だったじゃないかと、いまいち状況が理解できず。改めて便器を深く覗き込む。


「え……?」


 今度は、黒く澱んだ何かが見えた。

 最初、その黒は自分の髪が反射したのだと思っていたのだが、顔を近づけたと同時にゴポンと音を立て、俺に容赦無く襲い掛かる。


「――っ!?」


 水では無い、ドロドロとした液体の中を必死でもがくが、もがけばもがくほど、息が漏れ出るだけでなんの意味もなさなかった。

 次第に、味わった事の無い、甘ったるくも苦々しいような味が口の中を支配して……意識は、深い闇へと落ちていく――――





***


 どれだけ時間が経っただろう。

 オレは、あれからどうなった?

 オれは、俺は――――



「う……」


 まるで、長い夢を見ていたようだ。

 混濁した意識が、徐々に鮮明になってきた。

 それと同時に、体に伝わる激しい振動と、荒い息遣い。そして、鼻をつく獣臭に疑問を感じ、目を開ける。

 

「っ――」


 眩しい。

 まるで太陽を直接見てしまったみたいだ。

 でも、光にはすぐ慣れた。慣れた、けども……


 「!?」

 

 目が覚めると、そこは視界いっぱいに広がる森だった。けれど、俺が驚いたのはそこじゃない。現在進行形で激しく揺さぶられている体は、上半身に直接冷たい外気が当たり。体が揺れる度に、針金のようなゴワついた毛並みが肌に触れて擦れていく。そして、息を乱し、木々をすり抜けるように俺を抱え走るのは……


「ク、クマ……?」


 ありえない程巨大な、茶色のクマだった。でも恐怖感は全く無い。

 だって、ぬいぐるみにも近い、やたらファンシーな姿をしていて、むしろクマかどうかも怪しい感じだったから。


 大体、人を布で包んでお姫様抱っこしながら森と二足歩行で走るクマって……

 俺は、全然現実味の無いこの光景を夢だと受け止める事にした。その直後。


「我を護りし精霊よ……我が眼前の淀みを討ち、地に還せ!!」


 幼いような。でも、力強い。よく通る声が何処からか聞こえ、青光りした何かが連続で前方の木々を横切った。


 その光に慌てたのかクマも足を止め、一緒に辺りを見回すと。茂みから、白い大きな帽子を被った、エンジ色のスカートを履いた少女が慌てた様子で現れた。

 木々の隙間から差し込む、優しい光に照らされた桃色の髪。そして、燃えるような赤い瞳は、丸く大きく見開かれていた。

 少女が、短い悲鳴を上げる。


「あ」


 俺は、自分が今、どんな格好だったか思い出す。


「こっこれにはワケがっ!」


 慌てて弁明しようとするが、少女は眉間に皺を寄せ、ずっと手に持っていた、指揮棒のように細長い木の棒をこちらに向けた。


「動かないで下さい!」

「待て! 落ち着け! 俺は怪しい者じゃない! いや、十分に怪しいとは思うけど、誤解だ!」


 けれど少女は険しい顔のままで、俺の弁明等どうでもいいのか、目も合わせてくれなかった。そして棒が振り上げられ、反射的に目を瞑った瞬間。瞼の裏側が赤く光り、真後ろで鈍い音が鳴ったと同時に、生温かい何かがベチャリと頬に飛んだ。


「え……?」


 血のような色をした粘り気のある液体。

 まさかクマがられたのかと思って振り向くが、違った。


「早くこちらへ! そのスライムは危険です!」


 クマの背後にいたのは、背丈程に長細く伸びた液状のモノだった。


「うわぁあああああ!!」


 俺の叫び声で驚いたのか、クマは一瞬体をビクつかせたが、すぐに走り出した。けれどその方向は、先ほど少女が誘導した方向とは違っていた。


「そっちじゃありません! こっちです!」

「そう言われてもっ!」


 こっちだと言われても、クマが勝手に動くのだからしょうがない。俺だって、好きでクマに抱かれているわけでは無いのだ。


「お願いっ、止まって!」


 悲鳴にも似た少女の声は、クマに届かなかった。そして木々が途切れ、森を抜けたのだと思った瞬間。ガクンと、床が抜けたような感覚に襲われた。


「嘘だろ……」


 視界に広がる曇り空。すぐそこにはむき出しの岩肌があり、すごい速度で視界がブレては、下からの風が体にぶつかっていく。

 そう、俺達は崖から落ちていた。

 流石にこの高さだ。俺もクマも多分死ぬ。


 あぁ、本当に変な夢だ。そう思うと同時に、何故だか涙が溢れ出す。

 しかし、自分が死ぬかもしれない。といった感じではなく、例え夢でもこのクマが死んでしまうかもしれない事が悲しくて、悲しくて。それで涙が出た。

 涙は粒となり空中に消え……涙が飛んだその先に――


「我を護りし精霊よ! 我との者等に風を運びて舞い上がれ!」


 聞こえるはずの無い、あの少女の声が、風と共に耳に運ばれ。目の前に魔法陣のような物が広がった。それと同時に浮く体。

 ついでにあのクマもフワリと浮いて、ゆっくり下に落ちていく。


「間に合って良かった……」


 二秒と無く地面に着地した俺達だったが、不甲斐ないことに足がついた途端、力が抜けてしまい、そのままへたり込んでしまった。

 気が付けば、あのクマはもう居らず。二重の意味で助かったんだと安堵する。


「あの、大丈夫で――」


 少女が微笑を浮かべていた筈が、一瞬にして強張った。


「何で……」


 そうつぶやく少女の視線の先は、俺の左手だ。 

 途端、冷たい感触が左手から顔面に向かっていく広がっていく。

 体が動かない。木の葉が風になびく音に混じって、キシキシ変な音がした。


「目を瞑って下さい! 早く!」


 その声に、ハッと我に返り、瞳を閉じた。

 すると閉じた瞼の上を何かが覆っていき、俺の瞳は守られた。それには少女もホッとしたようで、吐息を大きく漏らし、続けざまに呟いた。


「ちょっと……失礼しますね」


 視界を奪われた今。少女の言うそれが何の断りか分からなかった。けれど、胸の奥に鈍い痛みが走ったと同時に、何かで覆われていた口元に、ほのかな温もりを感じたような気がした。


「…………」


 しばらく続いた沈黙に、あの子がふっと吐息を漏らす。


「駄目、全然足りない……」

 

 何が? とは聞けなかった。

 俺の口は今、得体の知れない何かで塞がれているからだ。


「……」


 やがて、何かを決心したのか、少女は「うん」と自分に言い聞かせるように言葉を発し、俺と距離を取った。何故、それが分かったかというと、立ち上がったのだろう、砂を蹴る音が耳元でした後。少し離れた場所で、今度はガリガリ、別の音が聞こえるようになったから。


 ジャリ。

 耳元でまた音がした。


「ごめんなさい。もう少し、我慢して下さいね」

 

 丸みを帯びた優しい声が、耳に残る。

 でも、その余韻はすぐにかき消される事になる。

 再び俺から離れたあの子が、大きく息を吸い、語勢を強めた。


「常世の闇に眠りし者よ。け、我が声を。従え、我が声に!」


 まるで何かに言い聞かせているような、呪文のようなその言葉。

 何故かは分からないが、その言葉を聞いた途端。俺の体は、徐々に熱を帯びていき、それに連動するかのように、心がざわついた。そして――


「彼の者を蝕む敵を喰らえ! 赤き亡霊、ファントムレディ!」


 直後、ガラスが割れるような音が肌を伝い。皮膚を剥がされるような強烈な痛みが全身を駆け抜けた。


「あああああああ!!」


 痛みに耐え切れず、絶叫したまでは覚えている――

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