クォーター
猫小路葵
【三題噺 #157】「底」「失」「不安」
湖は気持ちがいい。大学が夏休みに入り、拓海は祖父母の家へ泊まりにきていた。家の近くに湖があり、水泳が好きな拓海はそこで泳ぐのが子供の頃からの楽しみだった。
祖父は既に亡く、祖母が一人で暮らしていた。じつは祖母と拓海は血の繋がりがない。祖母が祖父と結婚したとき、祖父には既に子があった。それが拓海の父だ。祖母は自分の子も産んだので、血を分けた孫もいるのだけれど、拓海のことも分け隔てなく可愛がってくれていた。
「ああ……最高」
水に浸かっていると心が凪いでいくのがわかる。木立からは蝉しぐれが降り注ぎ、小腹が空けば自然の恵みを現地調達。人けのない湖は極上のリゾートだった。
泳ぎの得意な拓海だった。しなやかな四肢を魚のように躍らせて水と戯れた。時に跳ね、時に深く潜り、水中世界を遊覧した。
――綺麗だ。
湖は光のベールを纏っていた。
日光が届く範囲は明るいが、水底は暗く深かった。あの奥に、人間がまだ知らない生き物がひっそり生きていたとしても不思議ではないと思う。水の中というのは宇宙よりも未知なのだ。昔、社会科の教師も授業でそう言っていた。
いまだ知られざる領域。
落ち着く一方、少し不安。
それは水を泳ぐとき、拓海が常に覚える複雑な感情だった。
ひとしきり泳いで帰宅すると、祖母が戸棚の荷物を整理していた。
「どしたの、おばあちゃん。こんなに物出して」
祖母は「おかえり」と拓海を振り返って言った。
「わたしも、あの『終活』ってやつ? そろそろ始めようかと思ってさ。こないだから少しずつね」
それを聞いた拓海は思わず言った。
「やめてよ、『終活』なんて。おばあちゃんにはまだ早いよ」
祖母は孫の優しさを喜んだが、「でもねえ」とこぼした。
「片付けるにも体力が必要でね。見ての通りなかなか進まないから、ちょっとずつやってかないとね」
拓海はそれでもやはり祖母から『終活』なんて言葉は聞きたくないけれど、祖母が困っているなら手を貸そうと思った。
「だったら俺も手伝うよ。重い物とかあったら何でも言って」
「拓海……ありがとうね」
拓海はまず、祖父の書斎から手を付けることにした。離れた部屋にいる祖母に廊下から尋ねた。
「おばあちゃーん、押し入れ開けていい?」
「いいよー」
襖を開けると、そこは秘境だった。手前から順に片付け、大きいサイズのごみ袋の数はみるみる増えた。
「これ、ごみに出すのも大変だな。俺が車でセンター持ち込みにすればいいか」
そうして辿り着いた最奥に、古いダンボール箱があった。ガムテープは劣化して干からびている。埃を拭いて中を確かめると、古く雑多な品があれこれ入っていた。
「これ全部おじいちゃんのか。すげーな」
祖母は、押し入れの物は全部いらないから捨てていいと言った。祖父にとっては宝物でも、祖母にとってはただのガラクタに過ぎないのだ。拓海の母も父のいない所でよくぼやいていた。
「どの家も同じか」
拓海は苦笑しながら「お宝」をゴミ袋に入れていった。
よし、これで終わりだと思ったら、箱の底にノートが数冊残っていた。箱と色が似ていたので見過ごしそうになった。よくあるシンプルなノートで、表紙には油性マジックで(きっと祖父の字だろう)こう書いてあった。
≪人魚観察日記≫
一冊ごとに番号が振られていた。年月日も書いてある。計算してみると祖父が大学三年だった年のものだった。
「『人魚』ってなんだ」
拓海は興味を惹かれ、ノートの表紙を開いた――
そこには、こんなことが書いてあった。
ある日、祖父は湖の浅瀬で数種類のカエルの卵を採ってきた。ほんの軽い気持ちだった。水槽で孵してみようと思ったのだ。快適な環境を整え、自室の窓辺に置いて観察を開始した。
「まさにこの部屋かな」
拓海は書斎の窓辺に目を遣った。
時が満ち、卵からオタマジャクシが出てきた。皆元気に泳いでいた。どれがどんなカエルになるのだろう。祖父は毎日水槽を眺めた。
その中に、やけに色の白いオタマジャクシが一匹混じっていた。オタマジャクシというか、魚の稚魚にも見えたし、異なる何かの生き物のような気もした。
模様もない、つるんとした質感。口が小さく、黒目が大きい。両生類や魚類にしては可愛い顔をしていた。外来種か、ひょっとしてオタマジャクシの奇形だろうか。成長したらどうなるのだろう。一抹の不安を覚えながらも、祖父は好奇心が勝った。この奇妙な幼生を育ててみることにしたのだ。
やがて、オタマジャクシに手足が生え始めた。彼らは日々変化した。頭部もだんだんカエルらしく変わってくる。しかし、例の色白の子だけは違っていた。
生えてきた四肢は日に日に長く伸び、まるでヒトの手足のようだった。顔つきも限りなく哺乳類に近づいている。じっくり観察していると目が合った。しばし見つめ合う。意思の疎通が出来るように思えるのは気のせいだろうか。
当初抱いた一抹の不安は、大きな不安に変わった。このまま飼い続けたらとんでもないことが起きそうな予感がした。湖に捨てよう、一度はそう考えた。けれど、結局ここでも未知の生物の魅力に逆らえなかった。祖父は飼育を継続することにして、その子の名を「ミチ」と付けた。
「みち……」
拓海はぽそりと呟いた。
ミチはメスだった。体を見ればわかった。知能もカエルより遥かに高いようで、祖父が「ミチ」と呼ぶと顔を上げ、細い首を傾げた。水槽には丘も作ってあり、その内ミチは苔の斜面を登り、石に座って寛ぐようにもなった。
カエルたちは、秋が来る前にすべて元の湖に放した。けれど、祖父はミチを手放せなかった。当時の気持ちが赤裸々に綴ってあった。ミチが可愛い、失いたくないと。
拓海は、読みながら眉間に皺が寄った。
「なんかやばくないか、おじいちゃん……」
それからしばらく経った頃、祖父はミチの腹が膨らんでいることに気がついた。ミチは卵を産もうとしていた。ミチの腹は次第に大きくなり、今にも破裂するのではないかと思えた。ミチを飼育していることは誰にも言っていない。両親も知らないはずだ。彼らは興味がないから水槽を覗こうともしないだろう。祖父はミチのことを周りに相談できず、ただ見守るしかなかった。
そんなある朝、祖父が目を覚ますとミチが水草に卵を一つ産んでいた。
≪生まれた!≫
祖父の喜びの声は文字サイズが二回りほど大きく、感嘆符付きで書かれていた。ミチは元気そうに水槽の中を泳ぎ回っていて、腹も元通りになっていた。今、水槽にいるのはミチだけだ。せっかくの卵を喰い破る敵もいない。ミチは歌うように体を伸ばし、水の中を天使のように舞っていた。
ミチが産んだ卵は美しかった。緑色の葉に半透明の小さな命の粒が絡みつき、ポンプの水流にゆうらりと揺れている。卵は無精卵だ。祖父は、以前テレビで見た「魚の体外受精」の映像を思い出した。メスが水中に卵を産み、オスがその上に精子をかけて受精させる、あのシーン。祖父はそのときふと、良からぬことを思いついた。
祖父はそれをノートに書いていた。
≪受精させてみたかった≫
迷いのない文字だった。
拓海は、その後も日記を読み続けた。最後の一行まで読んだ拓海は、青ざめてノートを閉じた。
書かれていたのは、大学生だった祖父が試みた恐ろしい「実験」の記録だった。実験の始まりから途中経過、そして一つの結果に至るまで。
「何が『人魚』だよ……」
祖父のロマンチックな言い草に、拓海は腹の底から冷えを感じて身震いした。元々低い平熱が更に下がったような気がした。
このときの祖父はまともではなかった。正常な思考回路が消失していたとしか思えない。
「まずいよ、おじいちゃん」
拓海は祖父を問い詰めたかった――なぜこんなものを書き残したんだ、誰かに見られるかもしれないのに、なぜ燃やさずに取っておいたんだ、と。
祖母が祖父と出会ったとき、祖父には既に子があった。その子は拓海の父、道夫だった。
――学生時代の恋人との間に出来た子です。彼女の死後、僕が育てています。
祖母は祖父からそう聞いたという。横にいた祖父の両親はじっと黙っていた。拓海にとっての曾祖父母だ。父は彼らに可愛がられた記憶がないと言っていた。祖父自身が実家と疎遠だったらしい。祖父たちがこの家に越したのは、彼ら二人が事故で死んだ後だった。それまでは寄りつかなったと聞いている。
祖父から道夫を紹介された祖母は、親子の辛い過去に心を痛め、祖父と手を繋いだ道夫を見た――
「進んでる?」
不意に背後で祖母の声がした。拓海がどきりとして振り向くと、祖母が立っていた。祖母の視線はノートに注がれていた。
「おばあちゃん……」
「懐かしいわね」
祖母はノートから目を離すと、代わりに本棚のアルバムに手を伸ばした。古いページをめくると、そこには祖父母と道夫が三人で写った写真があった。
「これ、拓海のお父さんよ」
拓海はただ頷いた。
「うん……」
「よく似てるわね」
そうだ、似ている。皆からそう言われて育ってきた。
祖母は再びノートを見つめて尋ねた。
「それ、読んだの?」
拓海は一瞬返事を躊躇ったが、観念して「読んだ」と認めた。
「そう」
祖母はそのまま遠い昔を追うような目で、抑揚のない話し方をした。
「道夫に初めて会ったとき、やけにつるんとした肌の子だと思ったわ」
祖母は笑ったが、それは色々なことを呑み込み、諦めてきたような顔に見えた。
「歳のわりに言葉が遅かったけど、泳ぎだけは得意だったわね」
だから、ほら――と、祖母は拓海の目を見て静かに言った。
「あんたも大好きでしょ、水が」
拓海は今度は頷けなかった。喉が締め付けられるようだった。
泳ぎは父から教わった。水の中ではいまだ父には勝てない。しなやかに水を掻き、みるみる拓海を引き離していく父の背中はつるんと滑らかで、触れるとひんやり冷たかった。
その肌質は拓海にも受け継がれていた。ムダ毛一本ない腕や脚を、女子たちは「いいなあ、エステ必要ないじゃん」と羨み、男友達は「ちょっと触らせて」と冗談を言う。難を言えば乾燥に弱いことだった。
拓海は目の前の祖母を凝視した。胸の中で不安が一気に増幅し、何を言えばいいかわからなかった。すると祖母が、顔色を失った拓海を見て突然笑い出した。
「やだ、冗談よ! 自分が魚の合いの子だとでも思ったの?」
「え……」
戸惑う拓海に祖母はあっけらかんと種明かしをした。
「ごめんごめん。拓海がえらく深刻な顔して読んでたから、ついからかいたくなっちゃったのよ。それは日記なんかじゃないわ。おじいさんが趣味で書いてた小説の……えーと、なんて言ったかしら」
「……プロット?」
「そう、それ! でもね、わたしも最初は騙されたのよ。あの人の顔があまりにも真に迫ってたから。わたしは一体どうしたらいいんだろうって思っちゃったわ」
拓海の体から力が抜けた。
「まじかよ~」
脱力した孫に祖母は笑った。
「悪趣味でしょ、おじいさん」
「いや、おばあちゃんもね。女優になれるよ」
拓海がそう言い返すと、祖母は「あら、女優?」と嬉しそうにしていた。
「あ、拓海。お風呂沸いてるよ。それ言いに来たんだった」
「うん。ありがと、おばあちゃん」
祖母は廊下を去っていく。拓海が来ると、祖母は夏でも必ず風呂を沸かした。普段から平熱が低い拓海を案じる優しさだった。
ふう、と拓海は吐息を漏らした。
「どうなることかと思った」
拓海は苦笑いした。てっきり祖母に知られているのかと思い、焦った。
段ボール箱の底を見た。空っぽだ。もう何も入っていない。祖父が後生大事に取っておいたノート数冊。不安の種はこれだけのようだった。それも明日には消失させる。
「燃やさなきゃ」
こんなもの、明日の朝一番で燃やしてしまおう。拓海はノートをひと纏めにした。さあ、風呂に入ろう。祖母が沸かしてくれた風呂に。そう思ってふと目を上げた先に、ハエが一匹止まっていた。
一秒後、ハエはもう拓海の長い舌で捕獲されていた。
クォーター 猫小路葵 @90505
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