『ドラゴンに転生したので、人間の国を育てることにした 〜黒パン半分の恩返しから始まる竜王建国記〜』
あちゅ和尚
第1話 黒パン半分の借り
目を覚ましたとき、最初に感じたのは強烈な空腹だった。
腹が減った、などという生易しいものではない。胃の中が空っぽなのを通り越し、身体そのものが内側から干からびていくような感覚がある。
しかも右の後ろ脚が、心臓の鼓動に合わせるようにずきずきと痛んでいた。
「……なんだ、これ」
声を出したつもりだった。
ところが喉から漏れたのは、人間の言葉ではない。
「グゥ……?」
低く濁った鳴き声に、自分自身が驚いた。
視線を落とす。
湿った土と枯れ葉の上にあるのは、見慣れた手足ではなかった。黒みを帯びた赤褐色の鱗に覆われた四本の脚と、指の先から伸びる湾曲した爪。
首を巡らせれば、身体の後ろには長い尾まで続いている。
背中には何かが折り畳まれていた。
力を入れてみると、それが左右へ開いた。
翼だ。
「グル……」
状況がまるで理解できないまま、俺は脚を引きずって近くの水溜まりへ向かった。
濁った水面に映った顔を見て、しばらく動けなくなる。
爬虫類を思わせる細長い頭部。額にはまだ短い二本の角があり、黄色がかった目の周囲まで細かな鱗に覆われていた。
大きさは犬よりかなり大きい。
とはいえ、馬ほどではない。
ましてや、昔から物語に出てくる城ほどもある巨大竜などとは比べようもなかった。
どう見ても、子どものドラゴンだった。
記憶の最後にあるのは日本だ。
仕事を終えて帰る途中だった。
雨の夜。
道路へ反射する車のライト。
耳をつんざくクラクション。
身体が宙へ投げ出される感覚。
そこから先がない。
死んだのだろう。
そして理由は分からないが、別の世界らしい場所でドラゴンの子どもになった。
そこまで考えたところで、右脚の痛みが現実へ引き戻してきた。
足首の少し上に、鉄製の罠が食い込んでいる。
太い縄が近くの木へ結ばれていた。
獣を捕らえるための罠らしい。
鱗のおかげで深く肉を抉られてはいないものの、その隙間から血が滲んでいた。
俺は前脚の爪を鉄の噛み合わせへ引っ掛ける。
押してみたが、動かない。
角度を変え、体重をかける。
鉄がわずかに軋んだ。
もう一度、今度は両方の前脚を使って押し広げると、ようやく後ろ脚を引き抜けるだけの隙間ができた。
「ギ……ッ」
傷口を擦りながら脚を抜き、そのまま地面へ腹をつける。
息が上がっていた。
自分がどんな生き物になったのかは分からない。しかし少なくとも、今の俺が無敵とは程遠いことだけは理解できた。
人間の作った罠一つで怪我をして、外すだけで消耗している。
これでは食料と水を確保する前に、何かに襲われたら終わる。
まず安全な場所を探す必要がある。
そう考えた瞬間、茂みの向こうで枝が折れた。
鼻を動かすと、湿った土や草とは違う獣臭が漂ってくる。
その中に混じっていたのは、血の匂いだった。
俺自身の血だ。
三つの影が木々の間から現れた。
狼に似ている。
ただし、日本で見た狼の類ではない。人間の腰近くまでありそうな体格で、灰色の毛皮に覆われた額から、小さな黒い角が一本ずつ突き出している。
三匹とも、俺の傷ついた脚を見ていた。
弱っていることが分かるらしい。
俺はゆっくり立ち上がった。
逃げ切れる気はしない。
背中の翼を広げて強く羽ばたいてみるが、枯れ葉が舞い上がっただけで身体は地面から離れなかった。
飛べない。
一匹が低く身を沈め、そのまま飛びかかってくる。
反射的に前脚を振り抜いた。
爪の先が狼の鼻面を掠め、血が飛ぶ。
狼が怯んだ瞬間、別の一匹が横から肩へ噛みついた。
「ギャウッ!」
鱗が牙を弾いたものの、衝撃までは防げない。
首を振り、前脚で狼の身体を押し退ける。
正面から三匹を相手にしたら負ける。
そう判断した瞬間、胸の奥が妙に熱くなった。
熱は腹の底から喉へ向かってせり上がり、反射的に口を開く。
「ガアッ!」
炎が噴き出した。
ほんの一瞬だけだった。
狼を焼き殺すような炎ではない。せいぜい、目の前へ突然大きな火を投げつけた程度だ。
だが効果はあった。
三匹が揃って後退する。
もう一度やろうとすると、喉の奥が焼けるように痛んだ。
連続では使えない。
だったら、戦う必要はない。
俺は狼たちが炎を警戒している間に斜面を駆け下りた。
傷ついた後ろ脚へ体重がかかるたび、鋭い痛みが走る。
それでも止まらない。
背後から狼の足音が追ってくる。
木々の間を抜けたところで、地面が突然途切れた。
崖だった。
下には木々が広がっている。
戻れば狼。
進めば崖。
俺は迷わず前へ跳んだ。
落下と同時に翼をいっぱいまで広げる。
飛べはしない。
それでも身体を支える力はあるらしく、真下へ落ちるはずだった軌道が前方へ伸びた。
風が翼を押す。
木の枝へ腹から突っ込み、何本も折りながら地面を転がった。
「グェ……」
ひどい着地だった。
だが生きている。
崖の上では狼たちが吠えているものの、飛び降りてまでは追ってこない。
俺はしばらく草の上に伏せたまま、乱れた呼吸が落ち着くのを待った。
転生した理由も、この世界がどこなのかも分からない。
だが、そんなことを考えるのは後だ。
今必要なのは飯と水、それから安心して眠れる場所だった。
腹が盛大に鳴った。
鼻を動かして周囲の匂いを拾う。
この身体は嗅覚がかなりいいらしい。
獣の臭いだけではなく、湿った樹皮、土の中の水気、遠くで燃えている木の煙まで分かる。
その煙に混じって、かすかに穀物らしき匂いがした。
人がいるのかもしれない。
俺は右脚を庇いながら森の中を進んだ。
どれほど歩いたのかは分からない。
やがて、木々の向こうに小さな人影が見えた。
少女だった。
十歳を少し過ぎたくらいだろう。
肩口までの茶色い髪はきれいに整えられておらず、服も何度も繕った跡がある。背負った籠には、細い薪や枯れ枝が詰め込まれていた。
少女はこちらに気づいた。
足が止まる。
目が大きく見開かれた。
「……竜?」
意味を完全に理解したわけではない。
けれど、その短い音と少女の視線から、自分を指していることくらいは分かった。
少女は怯えていた。
無理もない。
俺から見ても今の身体は小さいドラゴンだが、人間の子どもからすれば十分に大きな魔物だろう。
逃げてくれるなら、その方がいい。
俺自身、この身体が極限状態でどんな反応をするのか分かっていない。
ところが少女は数歩下がったあと、俺の右後ろ脚を見た。
「血……」
今度の言葉は分からなかった。
ただ、視線が傷口に向いている。
少女は迷った末に背中の籠を下ろした。
中から小さな布包みを取り出す。
現れたのは、黒っぽいパンだった。
表面は乾ききっていて、見るからに硬そうだ。
少女はそれを両手で割ろうとした。
一度では割れない。
胸の前で何度も力を入れ、ようやく二つに分けると、左右を見比べた。
片方が少し大きい。
少女はその大きい方を地面へ置いた。
「……食べる?」
言葉の意味は分からなかった。
だが、これは分かる。
俺にくれるつもりだ。
少女はパンから離れ、警戒しながら数歩後退した。
俺はしばらく彼女を見てから、ゆっくりパンへ近づいた。
鼻先を寄せる。
毒らしい匂いはしない。
空腹には勝てなかった。
一口噛む。
硬い。
牙がなければ歯を傷めそうなほど硬い。
しかも酸味が強く、水分もほとんどない。
正直に言えば、まずかった。
「グルゥ……」
それでも腹は食べ物を求めている。
何度も噛み砕き、少しずつ飲み込んだ。
胃へ物が入っただけで、身体から抜けかけていた力がほんの少し戻ってくる。
ふと顔を上げた。
少女も残ったパンを食べていた。
小さくちぎり、一口ずつ噛んでいる。
そこで初めて気づいた。
余った食べ物をくれたのではない。
あれがこの子の食事だったのだ。
細い腕。
痩せた頬。
着古した服。
どう見ても、食べ物に困っていない暮らしではない。
それでも彼女は、自分のパンを二つに割った。
しかも大きい方を俺へ置いた。
俺は口の中に残った黒パンをゆっくり飲み込んだ。
味は変わらない。
やはり硬くて酸っぱい。
なのに、さっきよりまずいとは思わなかった。
少女が自分の胸へ手を当てる。
「リナ」
そう言って、もう一度自分を指した。
「リナ」
さすがに意味が分かった。
名前だ。
リナ。
俺がじっと見ていると、少女は少しだけ警戒を緩めた。
今度は森の向こうを指差す。
「ルーエ……村」
聞き取れたのは二つの音だった。
ルーエ。
村。
おそらく、自分が住んでいる場所なのだろう。
リナは籠を背負い直すと、何度かこちらを振り返りながら歩き始めた。
俺は地面に残ったパン屑を舐め取ってから立ち上がる。
脚はまだ痛い。
腹も満たされたとは言い難い。
それでも、リナがどこへ帰るのか興味が湧いた。
人が住んでいる場所なら、水や食料が見つかるかもしれない。
何より、あの黒パンを半分にした少女がどんなところで暮らしているのか、見てみたかった。
俺は十分に距離を空けて、その後を追った。
途中でリナが何度か振り返る。
声もかけられたが、長い言葉は理解できない。
それでも追い払おうとしているわけではなさそうだった。
森を抜ける頃には、空が赤く染まり始めていた。
木々の向こうに人家が見える。
そこがルーエ村らしい。
最初に思ったのは、小さい、ということだった。
木と土で造られた家が数十軒。
屋根には補修跡が目立ち、畑を囲む柵もあちこち壊れている。麦らしき作物も疎らで、収穫が豊かとは到底思えなかった。
煙の上がっていない家まである。
俺が想像していた人間の集落より、ずっと貧しい。
突然、村の方から叫び声が上がった。
「逃げろ!」
その言葉までは理解できなかったが、切迫した声なら分かる。
リナが顔色を変え、村へ駆け出した。
畑の一角で巨大な何かが暴れていた。
猪に似ている。
ただし、日本で知っている猪とは大きさがまるで違う。
牛ほどもある巨体を泥まみれの皮膚が覆い、口の両脇から伸びる牙は短い槍に見えた。
巨大な猪が鼻先を振るたびに柵が砕け、育ちの悪い作物が踏み荒らされる。
男が二人、粗末な槍を持って立ち向かっていた。
一人が突き出した穂先は、分厚い皮へ浅く刺さっただけだった。
猪が頭を振る。
男の身体が宙へ浮き、そのまま畑へ転がった。
「おじさん!」
それだけはリナの表情と声で分かった。
知っている相手なのだろう。
リナが畑へ駆け込もうとしたため、俺は慌てて前脚を伸ばし、服の裾を爪で地面へ押さえた。
「えっ……?」
リナが振り返る。
俺は巨大な猪を見た。
強い。
少なくとも、さっきの狼一匹とは比べものにならない。
今の俺は怪我をしているうえ、飛べない。炎も一度吐いただけで喉が痛んだ。
正面から戦えば負ける可能性の方が高い。
そもそも、あの村の人間とは何の関係もない。
俺が命を張る理由などないはずだった。
だが、俺が止めなければリナは畑へ走っていくだろう。
あんな怪物の前へ。
視線を落とす。
少女は痩せている。
腹を空かせていた。
それでも、自分の食事を俺へ分けた。
大きい方を。
たかが黒パン半分だ。
けれど、借りは借りだった。
俺はリナの服から爪を離し、代わりに自分が畑へ向き直る。
巨大な猪が倒れた男へ向かって走り始めた。
口の中には、まだ少しだけ酸っぱいパンの味が残っている。
「……あのパン代には、ちょっと高くつきそうだな」
人間の言葉にはならず、低い唸り声だけが漏れた。
「グルル……」
俺は傷ついた後ろ脚で地面を蹴った。
死にかけの俺へ飯をくれた少女を、今度はこちらが見捨てないために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます