黒薔薇の姫君と灰狼の騎士

おあしす

第1話 ふたつの薔薇

 戦場に音はいらない。剣を振るうとき、世界はいつも静かだった。怒声も、断末魔の声も、鉄が鉄を噛む鋭い音も、すべては水の底で聞くように遠く鈍い。凍てついた頭のなかにあるのは、次に斬るべき敵と、次に踏み込むべき半歩だけ。それでいい。それだけでいいのだ。

 

 白薔薇の騎士が、槍を構えてこちらへ来る。まだ若い騎士が持つ槍の穂先が震えている。それでも精一杯の勇気を振り絞ってセシリアに向かって槍を突き出した。


 ——遅い、とセシリアは思った。難なく槍をかわし、踏み込んでから剣を突き立てる。血が噴くより早く、セシリアの目はもう次の敵を捉えている。返す刃で2人目の首を刎ね、3人目の突きを半身でいなして、その脇腹へ剣を深く通した。


 3つの体が倒れきる前に、セシリアは4人目を探していた。頬に生暖かい感触がする。血の感触。セシリアの体温よりずっと暖かい。

 

「化け物……」

 

 怯えを含んだつぶやきが聞こえた。敵ではない。セシリアの後ろ、味方の兵の声だった。


 知っているとセシリアは思った。セシリアはいつも、その言葉を背中で聞いている。気づけば、黒薔薇の旗はセシリア、一騎の周りにしか残っていなかった。数で押されている。当然だ。この戦、勝ち目は薄いと、諸侯はとうに算盤を弾いている。誰も、本気でセシリアのために死ぬ気などない。

 

 だから、独りで斬る。独りなら、裏切られることもない。視界の端で、味方の若い騎士が馬から落ちた。白薔薇の騎兵が、その背へ剣を振り上げる。関係ないと頭のどこかで声がした。捨て置け。あんな兵のひとりやふたり、減ったところで戦況は変わらない。

 

 なのに、体のほうが先に動いていた。気づけばセシリアは、敵兵と若い兵のあいだへ割り込み、馬へ体当たりをしていた。強力なセシリアの攻撃で落馬した騎士の兜へ、剣を叩きつける。とうに息のない相手へ腕が止まらない。頭の芯で、なにか冷たいものがぴしりと割れて、その隙間から熱いものが噴き出す。

 

 視界が真っ赤だ。すぐに馬首を翻すと敵に突進する。巨大な長剣を片手で振り回すといくつも首が飛ぶ。セシリアは咆哮した。

 

 ——ああ。また、これだ。どれほどの時間そうしていたのか、わからない。我に返ったとき、セシリアの周りには、もう誰も立っていなかった。敵も、味方も。助けたはずの若兵さえ、腰を抜かしたまま後ずさっていた。私へ向けるその眼は恐怖の色で染まっている。

 

「……勝った、ぞ」

 

 誰かが、掠れた声で言った。そう、勝ったのだ。なのに、誰ひとり近づいてはこない。剣の血を払い鞘へ納める。ざり、と鉄が鳴った。その音だけがやけに鮮明だった。乾いていく頬の血が突っ張って、痛かった。

 

 ※※※※※※

 

 陣に戻ると、女王の使者が待っていた。白薔薇の紋を掲げた早馬が、堂々と敵陣へ乗り入れている。戦のさなかでも、使者は斬らぬ。それが古い作法だ。使者は返り血にまみれたセシリアを見て、あからさまに眉をひそめた。それから、うやうやしく巻紙を広げ、女王の言葉を読み上げる。

 

 女王シャーロット・グレース・クイン。白薔薇の紋章をもつクイン家の姫にして、いまはこの神聖ブリタニス王国ただひとりの戴冠者。——セシリアの従姉妹だ。

 

 先の王が跡継ぎを定めぬまま逝き、国はふたつの薔薇に割れた。武を継いだのがセシリア・リリィ・タルボットの黒薔薇。人心を継いだのがシャーロット・グレース・クインの白薔薇。そして王冠を先に手にしたのは、剣を一度も握らなかった従姉妹のほうだった。

 

「黒薔薇の姫、セシリア・リリィ・タルボットへ。女王陛下におかれては、姫の武勇を、深く惜しんでおられます」

 

 惜しむ。心にもない言葉だとセシリアは思った。

 

「これ以上無用な血を流すのはやめましょう。剣を捨て、宮廷へお戻りなさい。陛下は寛大にも、姫のために一室をご用意くださるとのこと。……ただし」

 

 使者は、そこでわずかに声を落とした。憐れむように。

 

「兵は預けられぬ、と。狂戦士(バーサーカー)に軍を任せれば、味方が先に逃げ出す、と。……陛下は、そうお考えです」

 

 狂戦士(バーサーカー)だと。従姉妹の口から出たその一言を、使者はご丁寧に、そのまま運んできたのだ。セシリアは笑った。たぶん、ひどい笑い方だったのだろう。使者が、一歩下がったから。

 

 シャーロットは、昔からそうだ。可憐で、聡くて、要領がいい。花のように笑って、人の心を掌のうえで転がす。あれの隣に立つと、セシリアはいつも姫ではなく、「抜き身の刃」だった。得意のダンスについて語られる時も、まるで刃物の出来を褒めるような、そんな言い方をされる。

 

「……お返事は?」


 使者が言った。

 

「いらん」


 セシリアは答えた。


「戻って伝えろ。刃は、鞘に戻る気はない、と」

 

※※※※※※

 

 その夜。セシリアがおこした、焚き火のそばに、見知らぬ大男が座っていた。セシリアの陣の、セシリアの焚き火のそばで、我が物顔に、セシリアの酒をあおっている。

 

 歳は40半ばか。無精髭に、くたびれた革鎧。鍛えあげた体は大きいが、まとう気配はどこか擦り切れて、くすんでいる。ただ、剣だけはいい。柄革が使い込まれて、黒く光っていた。——ただの野盗ではない。

 

「誰だ」


 セシリアは剣の柄に手をかけた。男は、こちらを見もせず、杯を傾ける。

 

「傭兵のダンカン」

 

「そうか。斬られたいのか、ダンカン」

 

「好きにしろ」


 男は、ようやくセシリアを見上げた。


「ただ、その前に一杯どうだ。あんたの酒だがな」

 

 セシリアは、柄に手をかけたまま、動けなかった。男の目に、あの色がなかったからだ。これまで、嫌というほど浴びせられた、あの色。化け物を見る恐怖の色。男にはそれがなかった。

 

 ただ、面倒くさそうにセシリアを見ている。血まみれの小娘がひとりそこに突っ立っている、というだけの目で。

 

「ここで何をしている?」

 

「さあな」


 男は肩をすくめた。


「退屈しのぎだ。負け戦のほうが、まだ見物だからな」

 

 負け戦。そう言い切った。セシリアのこの戦を。腹が立つより先に、なぜか可笑しくなった。誰も彼もが「惜しい」だの「勝てる」だのと調子のいいことを並べては、夜が明ければ寝返っていく。この男は、会ってひと言目に「負け戦」と言った。

 

 嘘をつかない男だ。いや、ただのバカかもしれない。

 

「……酒は手酌でやれ」

 

 セシリアは柄から手を離し、火の反対側へ腰を下ろした。


「わたしの分まで飲むな」

 

 男は、ふん、と鼻を鳴らし、それでも杯をもうひとつ、火のこちら側へ滑らせてよこした。

 

 どうせ朝になれば、この男も消えている。セシリアはそう思っていた。みんな、そうだったから。セシリアは強い酒を一気に飲み干した。

 


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