千手の崖
水杜まさき
千手の崖
入道雲が立ち始めた。
にわか雨の予兆を感じ、雨宿りできそうなところを探す。
久しぶりに取れた休暇を利用して、瀬戸内をソロでバイクツーリングしている最中だった。
雲から逃げるようにして走ること数分。小さな入り江にある漁港に辿り着いた。
屋根のある場所を探すと、漁業組合の隣に古い小さな店がある。
暖簾に『漁師料理・尼木』の文字。食事処のようだ。
雨が通り過ぎるのを待つ間、ここで遅い昼食を取ることにした。
ガラガラと引き戸を開けた。テーブルが二つと座敷だけの小さな店だ。
座敷で胡坐をかいていた老人たちがこちらを一瞥した。屈強な体つきで浅黒く日焼けしている。漁師だろうか。
テーブル席に座ると、老婆が茶を運んできた。
「いらっしゃい」
「ここは何が名物なんですか?」
「そうじゃなぁ。この辺ぁ、蛸じゃな」
「蛸ですか」
「今頃がちょうどよう肥えとる時期じゃけ」
お品書きを確認する。なるほど、達筆な手書き文字で「蛸飯」「蛸の刺身」「蛸の唐揚げ」「蛸と里芋の煮物」等々、蛸料理がずらりと並んでいる。
「それじゃ、蛸飯と蛸の刺身をお願いします」
「蛸飯は炊けるまで三十分ぐらいかかるんじゃけど、ええですか?」
「大丈夫です」
「ほんなら、ちぃと待っとって下さい」
老婆は店の奥に引っ込んだ。
お茶を啜る。ほっと一息。
程なくして外から雨音が聞こえてきた。やがて雷が鳴り、バケツをひっくり返したような土砂降りになった。
「うわ、こりゃ帰れんわ」「まあ、じきに止むじゃろ」
座敷から老人たちの会話が聞こえてくる。
雨足が弱まる頃、老婆がお盆を運んできた。
「お待ちどうさま」
小さな土鍋で炊かれた蛸飯がテーブルに置かれた。キュウリの漬物と味噌汁も添えられている。その隣に、蛸の刺身の皿が置かれた。
「どうぞごゆっくり」
箸を取った。
「いただきます」
蛸飯の土鍋の蓋を取る。ふわっと磯の香りが鼻をつき、口の中に唾液が染み出した。
まず味噌汁を一口頂く。優しい味だ。
それから飯を箸に乗せて頬張る。その瞬間、目を見張った。
――美味い。
脳内に快楽物質が湧き出した。
なんだこれ。これまで食べたどんな蛸飯より美味い。夢中で掻き込む。
蛸の旨味をこれでもかと吸い込んだ米が口の中でほどけると、磯の豊かな風味が力強く広がる。
箸が止まらない。
刺身にも手を付けた。噛むほどに旨味の泉が溢れ出す。至高の歯ごたえ。上品な甘さ。
おれは夢中で食べ続けた。
すっかり満腹になった。大満足だ。
雨宿りに選んだ店で、こんなに美味い蛸に出会えるとは思わなかった。
入道雲さまさま、といったところか。
「ごちそうさま」
小さく手を合わせた。
「兄ちゃん、観光かのぅ?」
漁師と思しき一人の老人が話しかけてきた。
「はい、バイクでツーリングを」
「そりゃええなぁ」
「このあたりは海風が気持ちよくていいですね。それに、こんな美味い蛸は初めて食べました」
「はは、そりゃよかった」
「お爺さん達が獲ってるんですか?」
「そうじゃな。この辺ぁ、ええ蛸がよう獲れるけぇのう」
「へぇ、いい漁場なんですね」
老人と話をしていると、老婆がお茶のお代わりを運んできた。
「こんな田舎じゃ、見るもんもあんまりなかろうけど」
「そんなことありませんよ。海を眺めるだけで気分転換になるってもんです」
「そうですか」
老婆は少し考えるように海の方へ目を向けた。
「……そうじゃ。せっかくじゃけぇ、崖の方まで行ってみんさい」
「崖……ですか?」
「はい。このあたりは昔、
「へぇ」
「中でも『
「千手ヶ鼻ですか」
「はい。千手の菩薩さまが見守って下さる場所じゃいうてな」
店の外から明るい夏の陽射しが差し込んでいた。雨はすっかり上がったようだ。
「それじゃ、折角なので行ってみようかな」
老婆は目を細めて頷いた。
「ええ、千手さまもお喜びになるじゃろ」
おれは、老婆に描いてもらった手描きの地図を頼りに、海沿いを走った。
雨上がりの空は高く、海は穏やかだった。
あの大きい縦型の岩が、
雨に濡れた濃緑色の岩肌には白い筋や網目状の脈が入り、光を反射してキラキラと涼やかに輝いている。
山の高みから落ちるのが、
ごうごうと音を立てて、茶色い水が海へと流れ込んでいる。
やがて道は高い崖に突き当たった。
ここが「千手ヶ鼻」――。
バイクを停め、海の方へ歩いていく。
崖の下を覗き込んだ。
雨に濡れた岩肌が陽光を反射している。
海の中には黒い塊がいくつも貼り付いていた。海藻だろうか。
おれは気にも留めず、視線を遠くへ向けた。
入道雲は遠くに去り、雨上がりの太陽が海の向こうで輝いている。
波間は銀色に煌めき、その雄大で美しい光景に思わずため息が漏れた。
刹那――
風に乗って微かな声が聞こえた。
「……けて。た……て」
なんだろう。ただならぬ様子だ。
声のする方へ向かった。
その声は次第にはっきりしてくる。
「……けて。たすけて」
これは、助けを呼ぶ声だ。急がないと!
やがて声の主が見つかった。
崖の下の岩陰に、海に落ちまいと縋り付く女性の姿が見えた。
「たすけて。たすけて」
これはまずい。早く引き上げないと!
腹這いになり、手を伸ばした。
少し届かない。
「たすけて。たすけて」
上半身を大きく乗り出す。あと少し。
「たすけて。たすけて!」
指の先が触れた。限界まで腕を伸ばす。もう少し。
「たすけて! たすけて!」
手が届いた。ぐっと握りしめる。
女性が顔を上げた。
そして、にこりと笑った。
「たすかりました」
ほっと息をつく。
――だが、次の瞬間。
「うれしい。ありがたくいただきます」
女性の腕がぬるりと伸びた。
いや、違う。
それは腕ではない。
吸盤の並んだ触手だった。
「――っ!?」
触手がおれの腕に絡みつく。
その直後、海面が波立ち膨らんだ。
無数の黒い影。
海の中に貼り付いていた塊が、一斉に蠢く。
海藻ではなかった。
蛸だ。
数えきれないほどの蛸が海面を埋め尽くしている。
次の瞬間、女性が凄まじい力でおれを引っぱり、そのまま一緒に海へと飛び込んだ。
激しく水しぶきが上がり、体が海中に沈み込む。
そこへ何十、何百という触手が襲いかかった。
おれの足に。
胴に。
首に。
動けない
逃げられない。
その時、老婆の声が蘇った。
――千手さまもお喜びになるじゃろ。
ああ、そうか。
このあたりの蛸が美味いわけだ。
無数の吸盤が全身に貼り付く。
海の底から、幾千もの影がゆっくりと腕を伸ばしてくる。
千の腕に抱かれ、おれは静かな海の底へと沈んでいった。
(了)
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この作品は、柴田恭太郎さんの自主企画、“【三題噺 #156】「海」「声」「予兆」”のレギュレーションに沿って書かれた、三題噺です。
https://kakuyomu.jp/user_events/2912051605104349942
千手の崖 水杜まさき @mizumori_masaki
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