芸者お糸、名を売らず
山龍遼士郎
第一章 下りる灯
芝居の賑わいは細り、茶屋は名を改め、風呂屋は戸口の灯を低くした。
抱え女。
呼び名が違おうと、役所の紙に並べられれば、どれも同じ
お
客の
二十二になるお糸は、十六で井筒屋へ入り、六年かけてその違いを覚えた。
細い指には、三味線の糸を押さえ続けた硬さが残っている。
酒席が荒れれば唄を変えた。
酔いが深ければ音を浅くした。
客が話したがっている時には、
今では、お糸を名指しで呼ぶ客もいる。
だが役所の紙は、そうした違いを好まない。
紙はいつだって平たい。
平たいものは、女の仕事まで平たく潰す。
井筒屋の掛け
川から上がる風はまだぬるく、
縄を解く音がした。
若い衆が下で声を合わせ、木枠をゆっくり下ろしている。
いつもなら、行燈を掛けるのも外すのも、座敷の笑い声に紛れて済む。
その夜は、縄の
お糸は二階の
あの行燈の下で、何度「お糸を呼べ」と言われただろう。
名は、六年かけて得た。
外されるのは、一刻もかからなかった。
昼のうちに届いた町触には、商売替えだの住替えだの、紙の上なら軽く書けることが幾つも並んでいた。
茶屋、風呂屋、
抱え女は
つまるところ――
茶屋や風呂屋、それに
雇われ女は、女と話がつけば、遊女屋の集まる傾城町へ移してもよいぞ。
――ということである。
まっとうな稼業へ移れ。
役人の口にかかると、女の寝床を奪うことまで、まっとうな道に聞こえてくる。
昼過ぎ、名主から触れを持った使いが来た。
茶屋を切り盛りするお
頭を下げ、触れを聞き、使いが帰るまで声を乱さなかった。
その夜、お勢は二階へ上がってきた。
「聞こえたやろ」
「聞こえました」
「
「名を替えたら、うちは残れますのんか」
「残る、やない。残し方を探すんや」
お勢は川向こうを見ていた。
芝居小屋の屋根には、夜の名残が赤く残っていた。
「わたしは、どういう名で残るんです」
「それを今から決める」
「芸者やなかったら、何なんです」
「今は答えられへん」
お勢の声は冷たかった。
目の下にだけ、昼にはなかった影がある。
泣かぬのではない。泣く順を後へ回している。
話は分かった。それでも、腹の底へは重石がひとつ、どすりと沈む。
新町は、女が身を売る町だった。
「新町へは行きません」
「まだ誰も行けと言うてへん」
「言われてからでは遅いです」
お勢は短く息を吐いた。
「お糸。名で食うてる女は、その名を失う時が一番危ない。覚えとき」
「なら、この名で食える場所を探します」
「探せるならな」
お勢は答えず、階段を下りた。
お糸は手摺に手を置いたまま、灯の消えた店先を見ていた。
掛け行燈を失った井筒屋は、ただの暗い家だった。
名を失うとは、こういうことなのだ。
◇
井筒屋には、おきぬという十七になったばかりの娘がいた。
まだ頬にあどけなさを残し、お糸について三味線と唄を習っている。
唄はまだ細かった。
「そんなに声を張らんでええ」
お糸は
「せやけど、聞こえへんかったら困るやろ」
おきぬが首をかしげる。
「聞かせよう聞かせよう思うほど、声は逃げるもんや。な、ひと息置いてみ」
それでも、おきぬの声はすぐに先を急いだ。
失敗すると唇を尖らせた。
「うち、お糸姐さんみたいには出来へんわ」
「六年やってから、お言い」
翌日、おきぬの母親が井筒屋へ来た。
実家の借りが増え、弟が病を得たという。
借りの重さなら、お糸にも覚えがあった。
その日の夕刻、働き口を紹介する
三十がらみの小柄な男だった。
惣兵衛は帳場でお勢と話し、慣れた手つきで何枚かの紙を広げた。
「新町へやれば、今の借りはいったん片づきます」
「向こうが持ってくれるんですか」
「向こうの店が持ついうことです。娘さんは芸もある。若い。向こうでも悪い値はつきません」
おきぬは黙っていた。
お糸は廊下の端から様子を見ていた。
「おきぬは、行く言うてるんですか」
惣兵衛が振り向いた。
「姐さんは?」
「お糸です」
「ああ。井筒屋のお糸か」
品を見る目だった。
座敷で客から向けられる目とは違う。
客は芸を見る。
惣兵衛は、幾らになるかを見ていた。
「おきぬの話を聞いてます」
「話はついてる」
「誰と誰の」
「店と母親と向こうの店。娘も嫌とは言うてへん」
お糸はおきぬを見た。
「嫌やないんか」
おきぬの唇が震える。
声は出なかった。
惣兵衛が笑う。
「嫌と言わんちゅうのは、この世では立派な返事や」
お糸は惣兵衛へ一歩近づいた。
「黙ってる女の口を、勝手に使わんといてください」
「使わな、話が進まん」
「勧める先は、新町なんですか」
「ほかに道があるなら、姐さんが通してみたらよろしい」
惣兵衛はそう言って、おきぬの証文を畳んだ。
翌朝、おきぬは井筒屋を出た。
別れ際、お糸は小さな撥を渡した。
「向こうでも弾ける時は弾き」
「芸者でおれるんかな」
「芸は、呼び名で決まらへん」
口にした途端、お糸には自分の言葉がひどく頼りないように聞こえた。
おきぬを乗せた
惣兵衛は最後までついていた。
それきり、おきぬから便りは来なかった。
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