芸者お糸、名を売らず

山龍遼士郎

第一章 下りる灯

 天保(てんぽう)十三(一八四二)年、大坂(おおさか)の町は灯まで痩せた。

 芝居の賑わいは細り、茶屋は名を改め、風呂屋は戸口の灯を低くした。町触(まちぶれ)は、女の仕事を一つずつ数え直していった。


 抱え女。飯盛女(めしもりおんな)。芸子。芸者。舞子。仲居。


 呼び名が違おうと、役所の紙に並べられれば、どれも同じ咎(とが)の名に近づいてゆく。


 お糸(いと)は、その数え方が嫌いであった。


 唄(うた)は唄だ。三味線(しゃみせん)は三味線だ。

 客の盃(さかずき)を受ける手と、二の糸を押さえる指は、もちろん別の技だ。


 井筒屋(いづつや)は、芸者を抱え、酒と料理を出して客を座敷でもてなす茶屋だった。

 二十二になるお糸は、十六で井筒屋へ入り、六年かけてその違いを覚えた。

 細い指には、三味線の糸を押さえ続けた硬さが残っている。

 酒席が荒れれば唄を変えた。

 酔いが深ければ音を浅くした。

 客が話したがっている時には、撥(ばち)を置いた。


 今では、お糸を名指しで呼ぶ客もいる。


 だが役所の紙は、そうした違いを好まない。


 紙はいつだって平たい。

 平たいものは、女の仕事まで平たく潰す。


 井筒屋の掛け行燈(あんどん)が外されたのは、八月十五日の夜だった。

 川から上がる風はまだぬるく、道頓堀(どうとんぼり)の水だけが早く秋の色を帯び始めていた。


 縄を解く音がした。

 鋲(びょう)を抜く音がした。

 若い衆が下で声を合わせ、木枠をゆっくり下ろしている。


 いつもなら、行燈を掛けるのも外すのも、座敷の笑い声に紛れて済む。

 その夜は、縄の擦(す)れる音ばかりが妙に高く聞こえた。


 お糸は二階の手摺(てすり)に片手を置き、暗くなった店先を見下ろしていた。

 あの行燈の下で、何度「お糸を呼べ」と言われただろう。

 名は、六年かけて得た。

 外されるのは、一刻もかからなかった。

 昼のうちに届いた町触には、商売替えだの住替えだの、紙の上なら軽く書けることが幾つも並んでいた。


 茶屋、風呂屋、渡世(とせい)の者どもは、来る卯正月までに正路(しょうろ)の渡世(とせい)へ移るべし。

 抱え女は相対(あいたい)をもって傾城町(けいせいまち)へ奉公住替えに差し遣わしても勝手次第。


 つまるところ――

 茶屋や風呂屋、それに任侠者(にんきょうしゃ)たちは、次の卯年(うどし)の正月までに、まっとうな稼業へ移りたまえ。

 雇われ女は、女と話がつけば、遊女屋の集まる傾城町へ移してもよいぞ。

 ――ということである。


 まっとうな稼業へ移れ。

 役人の口にかかると、女の寝床を奪うことまで、まっとうな道に聞こえてくる。


 昼過ぎ、名主から触れを持った使いが来た。

 茶屋を切り盛りするお勢(せい)は座敷へ上げず、土間で受けた。

 頭を下げ、触れを聞き、使いが帰るまで声を乱さなかった。


 その夜、お勢は二階へ上がってきた。


「聞こえたやろ」


「聞こえました」


「新町(しんまち)へやるか、店の名を替えるかや」


「名を替えたら、うちは残れますのんか」


「残る、やない。残し方を探すんや」


 お勢は川向こうを見ていた。

 芝居小屋の屋根には、夜の名残が赤く残っていた。


「わたしは、どういう名で残るんです」


「それを今から決める」


「芸者やなかったら、何なんです」


「今は答えられへん」


 お勢の声は冷たかった。

 目の下にだけ、昼にはなかった影がある。

 泣かぬのではない。泣く順を後へ回している。


 話は分かった。それでも、腹の底へは重石がひとつ、どすりと沈む。


 新町は、女が身を売る町だった。


「新町へは行きません」


「まだ誰も行けと言うてへん」


「言われてからでは遅いです」


 お勢は短く息を吐いた。


「お糸。名で食うてる女は、その名を失う時が一番危ない。覚えとき」


「なら、この名で食える場所を探します」


「探せるならな」


 お勢は答えず、階段を下りた。

 お糸は手摺に手を置いたまま、灯の消えた店先を見ていた。

 掛け行燈を失った井筒屋は、ただの暗い家だった。

 名を失うとは、こういうことなのだ。


     ◇

 

 井筒屋には、おきぬという十七になったばかりの娘がいた。

 まだ頬にあどけなさを残し、お糸について三味線と唄を習っている。


 唄はまだ細かった。


「そんなに声を張らんでええ」


 お糸は撥(ばち)を止めた。


「せやけど、聞こえへんかったら困るやろ」


 おきぬが首をかしげる。


「聞かせよう聞かせよう思うほど、声は逃げるもんや。な、ひと息置いてみ」


 それでも、おきぬの声はすぐに先を急いだ。

 失敗すると唇を尖らせた。


「うち、お糸姐さんみたいには出来へんわ」


「六年やってから、お言い」


 翌日、おきぬの母親が井筒屋へ来た。

 実家の借りが増え、弟が病を得たという。

 借りの重さなら、お糸にも覚えがあった。


 その日の夕刻、働き口を紹介する口入屋(くちいれや)の惣兵衛(そうべえ)が現れた。

 三十がらみの小柄な男だった。

 裾裁(すそさば)きは妙に滑らかで、土間に立っても足袋(たび)の白さを汚さない。

 惣兵衛は帳場でお勢と話し、慣れた手つきで何枚かの紙を広げた。


「新町へやれば、今の借りはいったん片づきます」


「向こうが持ってくれるんですか」


「向こうの店が持ついうことです。娘さんは芸もある。若い。向こうでも悪い値はつきません」


 おきぬは黙っていた。

 お糸は廊下の端から様子を見ていた。


「おきぬは、行く言うてるんですか」


 惣兵衛が振り向いた。


「姐さんは?」


「お糸です」


「ああ。井筒屋のお糸か」


 品を見る目だった。

 座敷で客から向けられる目とは違う。

 客は芸を見る。

 惣兵衛は、幾らになるかを見ていた。


「おきぬの話を聞いてます」


「話はついてる」


「誰と誰の」


「店と母親と向こうの店。娘も嫌とは言うてへん」


 お糸はおきぬを見た。


「嫌やないんか」


 おきぬの唇が震える。

 声は出なかった。

 惣兵衛が笑う。


「嫌と言わんちゅうのは、この世では立派な返事や」


 お糸は惣兵衛へ一歩近づいた。


「黙ってる女の口を、勝手に使わんといてください」


「使わな、話が進まん」


「勧める先は、新町なんですか」


「ほかに道があるなら、姐さんが通してみたらよろしい」


 惣兵衛はそう言って、おきぬの証文を畳んだ。

 翌朝、おきぬは井筒屋を出た。

 別れ際、お糸は小さな撥を渡した。


「向こうでも弾ける時は弾き」


「芸者でおれるんかな」


「芸は、呼び名で決まらへん」


 口にした途端、お糸には自分の言葉がひどく頼りないように聞こえた。

 おきぬを乗せた駕籠(かご)が角を曲がった。

 惣兵衛は最後までついていた。

 それきり、おきぬから便りは来なかった。

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