残り福を拾った元投資会社員、見捨てられた資産で成り上がる
ポコタ
第1話
段ボールの口は、まだ半分以上が閉じたままだった。
仙台へ戻ってきてから、九条晴臣は三週間ほどその部屋で暮らしている。暮らしている、というより、寝て起きて、必要なものだけを箱から抜き出しているだけだった。
六畳の部屋には、東京から送った荷物が壁際に積まれていた。上着、書類、読まなくなった本、使わなくなった名刺入れ。どれも捨てるほど壊れてはいない。だが、取り出して使う気にはなれなかった。
机の上には履歴書が一枚ある。
氏名、住所、学歴までは書いた。職歴の欄も、東都キャピタルパートナーズの名前までは書けた。そこで手が止まっている。
退職理由。
その四文字の横に、晴臣は何も書けずにいた。
会社から渡された書面には、情報管理上の問題、という言葉があった。便利な言葉だった。何も知らない相手には、それで十分に見える。だが、実際には違う。
晴臣は、引き出しを開けた。
名刺入れが入っている。黒い革の角は少し擦れていた。中には、東京で使っていた名刺がまだ残っている。
九条晴臣。
地域投資事業部。
その下に印刷された会社名を見て、晴臣は名刺入れを閉じた。
お前は、見なくていいところまで見る。
瀬戸口亮介の声が、薄く耳に残っていた。
会議室の白い机。冷めた紙コップのコーヒー。資料の端に押された承認印。堂島誠司は、その場でほとんど何も言わなかった。ただ、最後に書類を閉じた。
その音だけを、妙にはっきり覚えている。
晴臣は履歴書を裏返した。白い面だけが、机の上で妙に目についた。
通帳を開く。
残高は、すぐにどうにかなる額ではない。だが、東京での生活を続けられる額でもなかった。仙台に戻り、家賃の安い部屋を借り、支出を削った。今はそれで息をつないでいる。
スマホの画面には、求人サイトが開いたままだった。
投資、不動産、企画、事業再生。似たような言葉が並んでいる。晴臣は指で画面を動かし、一つの求人を開いた。
地域事業の再生を担う人材を募集。
その下には、営業目標、紹介件数、成果報酬という文字が並んでいた。事業再生というより、物件と顧客を集める営業職に近い。別の求人には、空き家活用と書かれている。会社概要の数字を見ると、設立から二年で支店だけが妙に増えていた。売上の伸びに対して、従業員数が少なすぎる。
晴臣は画面を閉じた。
癖のようなものだった。資料の端を見る。強調されていない数字を見る。綺麗な言葉の下に、小さく置かれた条件を見る。
東京では、その癖が邪魔になった。
面接で退職理由を聞かれる。晴臣はそこで、何を言うのか。
正直に話せば、扱いにくい人間に見える。黙れば、何かを隠しているように見える。用意された言葉をなぞれば、自分まであの処理を認めたような気がする。
晴臣は椅子から立った。
部屋にいても、段ボールと履歴書が視界に入るだけだった。
財布とスマホを持ち、薄い上着を羽織る。鍵を閉める時、ドアの内側に積んだ段ボールが少し傾いているのが見えた。戻ったら直そうと思い、結局そのまま外へ出た。
四月の仙台は、まだ風が冷たかった。
駅へ向かう道には、夕方の光が薄く残っている。会社帰りらしい人が、信号待ちの列に混じっていた。学生が自転車で横を抜け、コンビニの自動ドアが開くたびに、揚げ物の匂いが外へ漏れた。
晴臣は駅へまっすぐ向かわなかった。
通りを歩く人の中にいると、自分だけが一日をどこにも置けずに持ち歩いているような気がした。仕事帰りの人間には帰る先がある。学生には次の日がある。晴臣にも部屋はあるが、そこに戻っても履歴書の白い欄が待っているだけだった。
道を一本外れると、小さな神社があった。
通りから少し奥に入り、石段が十段ほど続いている。鳥居の朱は色が抜け、柱の根元には細いひびが入っていた。大きな神社ではない。観光客が写真を撮る場所でもない。夕方の冷たい風の中で、そこだけが少し古く残っているように見えた。
昔からあったのだろう。だが、晴臣は名前も知らない。
石段を上がると、境内は狭かった。賽銭箱と、小さな社。隅に古い掲示板があり、雨に濡れた紙が波打っている。掲示板の隅には、去年の祭りの案内がまだ貼られていた。
晴臣は、特に願うこともなく賽銭箱の前に立った。
財布を開ける。小銭は少ない。十円玉を一枚入れると、乾いた音がした。
手を合わせる気にはならなかった。
何を願えばいいのか、分からなかったからだ。
仕事が欲しい。金が欲しい。立場が欲しい。誰にも押し出されない場所が欲しい。
そういうものを、神前で言葉にすると、自分が余計にみすぼらしく見える気がした。
晴臣は何も言わずに頭を下げ、踵を返した。
その時、賽銭箱の横に落ちているものが目に入った。
薄い木札だった。
掌に収まるくらいの大きさで、角は少し欠けている。紐は切れて、片側だけが短く残っていた。踏まれたのか、表面に細い傷が入っている。
晴臣は拾い上げた。
木札は軽かった。乾いた木の匂いがする。表面には、かすれた墨で文字が書かれていた。
残り福。
晴臣は少し眉を寄せた。
福引の札か、古い縁起物か。境内のものなら、勝手に持っていくのも気が引ける。かといって、賽銭箱の横に戻すのも違う気がした。
掲示板の下に小さな箱がある。忘れ物を入れるためのものかもしれない。
晴臣はそこへ札を入れようとした。
その瞬間だった。
視界の中央に、短い文字が浮いた。
【残り福を捨てるな】
晴臣は手を止めた。
文字は、紙に書かれているわけではない。スマホの画面でもない。目の前の空気に、白く浮いたように見えた。
瞬きをする。
まだある。
もう一度瞬きをすると、文字はふっと消えた。
晴臣は周囲を見た。
境内には誰もいない。石段の下を、自転車が一台通っただけだった。掲示板にも、社にも、賽銭箱にも、今の文字らしいものはない。
疲れている。
最初に浮かんだのは、その言葉だった。
睡眠は浅い。食事も適当だ。ここ数週間、履歴書と求人画面ばかり見ていた。視界に妙なものが出ても、おかしくはないのかもしれない。
晴臣は木札を見た。
残り福。
かすれた文字が、妙に手の中に残った。
捨てるな、と言われた気がしただけだ。それでも、忘れ物箱に戻す気にはもうなれなかった。晴臣は札を上着のポケットに入れた。
石段を下りる。
車の音が戻ってきた。信号の電子音が鳴り、駅へ向かう人の流れが通りを埋めている。
晴臣は歩きながら、ポケットの上から木札に触れた。
ただの木片だった。
そのはずだった。
駅前の交差点に近づいた時、また文字が浮いた。
【駅前の小さな売り場に寄れ】
晴臣は足を止めた。
今度は、はっきりしていた。
視界の真ん中。短い一文。余計な説明はない。文字は数秒だけそこにあり、すぐ消えた。
晴臣は、駅前を見た。
大きな駅ビルの前に、人の流れがある。バス停へ急ぐ人、スマホを見ながら歩く人、待ち合わせをしている学生。その端に、小さな宝くじ売り場があった。
普段なら、目に入っても素通りしていた。
赤いのぼりが一本立っている。売り場の窓は小さく、中に座る女性が手元の紙を整えていた。派手な売り場ではない。夕方の人通りに埋もれて、少し古びて見える。
晴臣はしばらく立っていた。
行く理由はない。
宝くじで人生が変わると本気で思っているわけではない。むしろ、晴臣はそういう話を信じない側だった。数字を見れば、期待値など分かりきっている。
だが、手元には木札がある。
視界には、二度、文字が浮いた。
疲れかもしれない。幻覚かもしれない。ならば、なおさら確かめればいい。何も起きなければ、部屋に戻って寝ればいいだけだ。
晴臣は売り場へ向かった。
窓口の女性が顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
声は明るかった。晴臣は掲示された券を見た。スクラッチ、数字選択式、連番、バラ。どれがいいのか分からない。
ポケットの中で、木札が指に触れる。
表示は出なかった。
晴臣は財布を開けた。千円札が一枚、端に折れて入っている。
「スクラッチを、五枚ください」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
女性は手早く券を数え、薄い紙の束を小さな袋に入れた。晴臣は千円札を差し出し、釣り銭と袋を受け取る。
手の中に、五枚のスクラッチ券が残った。
駅前の人の流れは変わらない。バスが来て、数人が足早に乗り込んでいく。売り場の赤いのぼりが、冷たい風に少しだけ揺れた。
晴臣は券を見下ろした。
袋の中で、一枚だけ角が小さく折れている。店員が数える時についた折れ方ではない。最初から、そこだけ薄く癖がついていた。
それがどうした、と思う。
ただ、指がその一枚の上で止まった。
ポケットの中の木札は、もう何も言わなかった。
それでも晴臣は、折れた角から目を離せなかった。
部屋に戻ったら、削ってみる。
そう思った瞬間、削る前の一枚が、ただの紙には見えなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます