【短編ミステリー】ラストサメライの不在【企画】

山本倫木

出題編

 この国の湯は滅法良い。

 いい加減に整えられた、しわの多いベッドに僕は大の字に身を投げ出す。芯までぬくめられた身体に、長旅の疲労がじんわりと蕩けていく。スプリングは軋むし、シーツは妙な匂いがするけれど、そんなことは気にならない。それくらい、いい温泉だった。この温泉には若返りの効能がある。ガイドブックにはそんな胡散臭い伝説が書かれていたけれど、そんな噂が生まれた理由も分かるというものだ。


「なあ、リディア。たまんないなぁ」


 僕は妻のリディアに声をかける。けれど、リディアはロッキングチェアに深く腰掛けたまま、何やら小難しい本からなかなか目を上げない。


「……ん? いま、わたしのこと、呼んだ?」


 反応があったのは、呼びかけて少し間が空いてから。何かに集中していると周りの声が聞こえなくなるのは、リディアの若い頃からの癖だ。愛らしいタイムラグに、僕は、なんでもないよ、と苦笑を返す。




 子供たちも手が離れて随分と経った結婚記念日、僕たちは旅行に来ていた。昔から旅行は好きだったけれど、妻と二人きりは新婚旅行以来だから、随分と久しぶりだ。目的地は大国に挟まれた、とある小さな小さな国。なぜそんな国を渡航先に選んだかといえば、そこが義両親、つまりリディアの両親の故郷だからだ。


 何にもないから、わざわざ行くようなところじゃないよ、と義両親は昔から言っていた。それでも、愛する妻のルーツである国を、どうしても死ぬまでに一度はこの目で見たかったのだ。随分と遅くなってしまったけれど、だから、今回はようやく念願がかなった旅ということになる。




 来て良かった。心からそう思う。

 義両親の言う「何もない」は、都会的な便利さがない、というくらいの意味だったし、それは、想定の範囲内だった。この国の文化は日本とは全く異なる基盤の上に成り立っていて、それは僕にとっては新鮮な刺激だった。戸惑うことも多かったけれど、これがリディアのルーツなのかと思うと、それすら愛おしく思えた。


 あらゆる面で日本とは異なるこの国だけれど、一つ、日本人にとっても親しみ易いところがある。豊かな温泉が湧くのだ。

 ホテル併設の大浴場の設備は国情を反映してごく素朴なものだったが、源泉かけ流しの湯は日本でもそうそう見ない上質なもの。とろみのある、かすかに硫黄の臭いのする湯につかっていると、それだけでこの国に来た甲斐があったと思えたほどだ。しばらくは、異国の温泉を堪能するとしよう。ベッドに寝転びながら、僕はそんなことを考えていた。





「ねえねえ、今から【果実の噂話フルーツ☆スキャンダル】をやらない?」


 突然、すぐそばで声が聞こえて、僕はハッとして目を開いた。どうやら、いつの間にやら眠りに落ちかけていたらしい。


「なんだって?」

「【果実の噂話】よ。占いっていうのかな、この国に伝わる、心理テストなの」

「早速かい?」


 リディアの誘いに、好きだなあ、と僕は半身を起こす。彼女のスピリチュアル好きは、筋金入りだ。もともと、この国は占い文化が盛んで、自然界に数多存在する精霊と交信セッションして日常の行動の支えにする風習がある。義両親も来日してからもその風習を保ち続けていて、だからリディアも当然のように占いやらスピリチュアルやらに親しんでいる。ついでに言えば、妻の影響なのか、娘の直美ナオミまでスピリチュアル好きに育っていて、我が家には彼女たちが集める様々なパワーグッズがあふれている。


 仕方がない、少し付き合うとするか。僕は起き上がった。


「【果実の噂話】って、どういうものなんだい?」


「一種のお絵かきゲームよ。でも、この本によると、心理テスト的な側面が大きいみたい。さ、やるわよ」


 さっきから読んでいた本の背表紙を見せながら、リディアが説明をしてくれる。外国の本だから気づかなかったけど、やっぱり占いの本だったのか。熱心に読んでいると思ったら、まったく。



「じゃあ、まずはこれを飲んで」


 僕がテーブルの前に座ると、リディアはカップを差しだしてきた。受け取ると、かすかにゆで卵のような臭いする。これは、硫黄か。


「これ、ここの温泉水?」

「そうよ。【果実の噂話】は、大地の精霊の力を借りてその人の本当の気持ちを引き出すの。だから、大地の力に満ちた温泉に浸かって、飲んで、身体の中と外から、十分に力を行き渡らせるのが大事なのよ。ほら、ぐっと一息」


 僕はカップを眺めた。中の水には、少し黄色く濁っていて、若干の湯の華が浮いている。


「……飲まなきゃダメ?」

「ダメ」


 仕方がない。占いに関しては、リディアはいつも真剣なのだ。とはいえせっかくの風呂上り、どうせ飲むならビールの方が良かったなぁ。などと怒られそうなことは口には出さず、覚悟を決めて、僕はカップに口をつける。見た目ほどには癖が無い。薄味の、地味で退屈な飲み物が胃の腑へ落ちていく。


「それで、どうするんだ?」

「この紙を見て」


 妻はテーブルを指さす。テーブルには紙とペンが置かれていた。分厚い、和紙のような上質な手触りの良い紙だ。紙はA4ほどの大きさで、何も書いていない白紙だった。


「目をつぶって、自分の胸に手を当てるの。そして、10数えてからここに円を描いて」


 僕は素直に目をつぶって、両手を組んでみぞおちに当てる。手を置いた奥の胃の腑が温かい。常温の温泉水を飲んだだけなのに、まるで熱いお茶でも飲んだみたいだ。


 10を数え終わってから、紙の中央に大きめに丸を描いた。正確な真円を描くつもりだったけれど、フリーハンドなものだから手が震えて線が少し歪んでしまった。


「次は、同じように10数えてから色をつけて」

 リディアは、僕の描いた円をじっと見ながら、そう言った。僕は再び目を閉じる。胃の温かさは、徐々にその範囲を広げていた。初めての感覚だけれど、決して不快ではない。大地の力を取り込むというのは、あながち根も葉もない迷信という訳ではなさそうだ。


 10まで数えてから目を開き、僕は差し出される色鉛筆セットを手にした。少し考えて、円の上から下まで、赤から白になるようにグラデーションで色を塗っていく。特に理由があっての配色じゃない。なんとなく、だ。


「最後に、同じように10数えてから壁を描いて」


 リディアは、そう言った。目を閉じる。温かさは、首筋を超えてきた。顔が上気してきたことが分かる。そのためか、頭まで冴えてきた気がする。僕は再び10まで数えてから、自分のさっき描いた絵を見た。赤から白まで、徐々に色が変わっていく円。これに、どう壁をつけようか。


 大して考えるまでもなく、ふと明確なイメージが閃く。ああ、これはいい。ペンを取り、線を引く。それは円を点対称に二つに区切る、大きく丸みを帯びた曲線。いわゆる、太極図と言われる図形だ。壁は、色のグラデーションを半分にわけたので、太極図は上半分が赤く、下半分が白いという状態だ。


 これでいい? と尋ねると、リディアは完成した絵を手に取った。しげしげと眺め、満足そうにうなずく。


「【果実の噂話】ではね、その人が深層心理で大切に思っているものが描き出されるの」


 リディアは本を開き、僕が描いたばかりの絵と見比べる。


「円の形、選んだ色とその数、壁の描き方でそれが分かるのよ。ちょっと解釈が難しいんだけど、えっと、この絵は……」


「いいや、これはそんな解釈は要らないよ」


 リディアのスピリチュアルな解説が始まりかけるのを、僕はさえぎった。僕は明快なイメージで描いたのだから、当たるも当たらぬも八卦な曖昧な解釈なんて必要ないだろう。


「ほらこれ、上が赤くて、下が白い太極図だろう。手書きだから少し歪んじゃったけど。これを見て、何か思い出さない?」


 僕の問いかけに、リディアは怪訝な顔をする。


「横浜に住んでた頃、よく行ったじゃないか。君も好きだった『火鍋』だよ。本場さながらに、太極図みたいな形の鍋で二種類のスープで煮立てるやつ。円を二色でグラデーションしたら、それを思い出しちゃってさ」


 リディアがあっと、小さく叫ぶ。


「同じ鍋で二種類のスープを使えるから、いつも大人用に真っ赤な唐辛子スープと、子供用に真っ白の豆乳スープを頼むんだよな。でも、辛いからやめとけって言っても、いつも直美は唐辛子スープを食べたがってたな」


 懐かしいね、と言って僕は笑った。それに対し、何故かリディアはひどく驚いた顔をする。あれ、と僕は思ったが、彼女はゆっくりと僕に背を向ける。


「そうよね、よく、連れて行ってくれたね。亀とか鹿とか、あんまり他では見ないような食材まであって……みんなでキャーキャー言いながら食べたわね」


 リディアの声は震えていた。彼女の突然の感情の発露に、僕は戸惑う。どうしたのだろう。僕はなるべく優しく聞こえる様に声をかける。


「リディア? どうしたんだい?」

「ううん、ごめん。なんでもないの」


 リディアはそう言って、目をぬぐって振り返った。その目には涙がたまっていて、泣き笑いだった。


「どうした? いま、何か変なこと言ったかな?」


 僕の問いかけに、リディアは、何でもないの、と首を横に振った。その首の振り方にも、何か引っかかるものがある。けれど、リディアはそれ以上何も言うことなく、私もお風呂行ってくるね、と言い残して部屋を出て行ってしまった。




 リディアが出て行ったあと、僕は僕が描いた火鍋の絵を手に取った。形はいびつだけれど、火鍋の絵と言えばそう見えなくもない。ふざけていると思われたのだろうか? でも、彼女の反応はそういう事でもなさそうだった。


 ベッドに寝転がる。尻切れトンボの結末。何かが引っかかる。何か、大切なことを忘れている気がするのだ。ここまでの話に、ヒントは全て出ていると思うのだけれど……。


 忘れている何かは、喉まで出かかっているのに正体が掴めない。一体、リディアは何故泣き出したのだろう。そして、僕は何を忘れてしまっているのだろう。




【解決編へ】



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