フルーツ☆スキャンダル・セッション(みなかみもと、の場合)
みなかみもと
フルーツ☆スキャンダル・セッション(みなかみもとの場合)
――あなたの「深層心理」をお埋めします。
一泊二日の温泉旅行は、既に退屈なものになりかけていた。
温泉宿において「温泉に入る」を終えてしまった以上、次にすることは、もう、ない。
「時間」は有限、されど「退屈は無限」なのだ。
異常に広い温泉宿の廊下で、その張り紙を見つけたのは、つまり退屈だったから。
スマホも繋がりにくく、ゲームコーナーの筐体はどれも古い。マッサージも無ければ、テレビ回線も地元ローカルと国民放送だけ。
得意先が「良ければどうぞ」と宿泊券をくれたのが事の発端だが、特急電車で二時間もかかる宿の券を貰ったところで行くやつはいない。
期限切れ直前で
「おい
と部長に言われて白羽の矢が立ってしまった。
髪型ツーブロック部長、あんたが若い子と行けよ、と思う。
離婚してから新たな出会いを求めてジムに週四で通ってんの、皆知ってんだぞ、とも思う。
顔が良くて仕事が出来ても、中身まで良いわけなかろうに、若い女はそういうのにすぐ騙されるんだから嫌になるぜ。
そして一人旅に結構覚悟がいることを部長は知らない。ぶらりするのは暇潰しじゃない。ぶらりするときは、今日はぶらりするぞ! という覚悟が必要なのだ。少なくとも営業の延長で行く一人旅なんてのは、誰にとっても単なる罰ゲームだと思う。
そんな不満を思い出したからだろう。
目の前の怪しい張り紙を食い入るように眺めてしまう。
張り紙が示す場所は、宿の地下一階にあるキャバレーらしい。
え? この時代にキャバレー? と思うが、その名前が「フルーツ☆スキャンダル」なのを見て、更に嫌な予感がした。
あれだろ? 昔はやった歌だろ? なんかこう、若い女性を何気にフルーツの新鮮さに例えているような、あの歌。
昭和の時代はあんなのばっかだよな、今もあんま変わんねーけど、と思いつつ、張り紙から目が離せない。
心の隙間ではなくて「深層心理をお埋めします」なのか……。
思って、自分は時間を確認する。まだ宵の口。
どうせ部屋に戻ったところで、異様に高い自販機の缶ビールで一杯やるだけだ。
早朝にもう一度風呂に入ろうなんて気は、ない。
……ならば、いっちょ行ってみるか?
思い、タオルと洗面具を片手に、自分はそのまま地下一階へと向かうエレベーターに乗ったのだった。
地下一階の廊下に置かれた調度品は、高価だが、どれもどこか古臭い。
思いながら、伊万里焼の大皿や大鷲のはく製などの横を通り、壁にかかれた「フルーツ☆スキャンダル、こちら」の案内通りに、奥へ奥へと進んだ。
本当にこんな場所に「深層心理をみる」とかいう場所があるのだろうか。
そもそもキャバレー内で誰が見るんだ? ママか?
電気代をケチって薄暗いと思われる廊下の先に、その店はあった。
昔ながらの観音扉。
上にベルが付いているのをみて「純喫茶かよ」と思ったが、口に出さずに扉を押してみる。
押した扉の上で、ベルが鳴った。いや、ベルじゃなかった。
幼い子供達の「笑い声」だった。
フフフあははキャッキャッという穢れ無き声が、ベルの形をしたスピーカーから鳴るのを聞いて、瞬間口から「ひぃっ!」と声が出た。
呼び鈴替わりの笑い声か、はたまたこちらの悲鳴か、どちらにせよ音に気付いて、暗い店の奥で声がした。
「いらっしゃいませ」
存外低い男の声で言われて、いまだ笑い声に心臓バクバクさせながら暗がりを見ると、店のスタッフと思しき者がスツールから立ち上がった。どうやら他に客はいないらしい。
「お一人様ですね?」
丁寧に聞かれて頷きかけた瞬間、思考が停止する。
やってきたスタッフは「鹿」だった。
いや、鹿と言っても生身の鹿ではない。
ドンキで売ってそうな、あのビニール製の鹿のお面をかぶった、男。
顔も見ずに何故男だとわかったかというと、単にその姿だ。
ヒラヒラしたドレス……いや、これはシュミーズとかいうやつか?
というか通常の下着よりもスケスケ素材の向こうに見える、無駄にデカい胸筋。そこに生える剛毛。
胸筋だけではない。
パッドがそのまま受肉したような肩の盛り上がりに、蟹を裏返して見るぼこぼこと同じ形状の腹筋。漫画肉がそのままついた大退筋。極めつけは首の太さだ。これだと絞殺しようにも指が回らんと思う太さの上に、鹿のマスクが乗っている。
思考停止しかけたのは一瞬だった。
相手の質問に答えぬまま、回れ右して、自分がドアを開けようとした瞬間、横合いから凄まじい拳がドガンッと目の前の壁を横向きに撃ち抜いた。
再び停止した思考の中で、無意識だろう、相手の正体を見ようと顔を向けた自分を褒めてあげたい。
そこには、赤い
されど、頭が違う。
こちらの頭は「馬」だった。
「……せっかくですから、どうぞ一杯」
馬の頭部から、異常に優しい声が響く。
視線だけ壁に向けると、壁の塵を舞わせながら、土佐文旦ほどありそうな拳がめり込んでいた。
壁ドンならぬ、壁ズドンである。
「こらこら、そんな風に怯えさせちゃいけないわよ?」
優しい声色で近づいてくる「鹿」。
「すみません。久しぶりのお客様で興奮しちゃって」
と恥ずかしそうに俯く「馬」。
帰りたい。
脳内に浮かんだワードが、今の自分の最たる願いなのだろう。
だが、前方の「馬」と後方の「鹿」がそれを許してくれ無さそうだ。
「フルーツ☆スキャンダルへようこそ」
固まる自分に、後方の鹿が朗らかにそう言った。次いで馬が肩を優しく押して、奥のスツールへと導く。
「お客さん、こういうお店初めて? 皆さん、最初は緊張なさるのよ」
元は野太かろう声を、異様に高くして鹿が言う。
返事するまでもない。はじめてだ。
「地下一階だとなかなか皆さん来られなくて……ね? 敷居はこんなに低いのにね?」
「ねー?」
鹿の声に、馬が同調しつつ、どこから取り出したのか温かなお絞りを手渡してくる。
「どうぞ。お客さん、何召し上がる?」
馬の声は渋かった。渋い声を無理やり高くしているのが分かる。いうなれば、大塚明夫が無理やり林家パー子の声を出そうとしているような感じだ。
その声で「召し上がる?」と訊かれても、答えようがない。
いっそ召し上がられそうなのは、自分の方だ
「やだ、お客さん緊張して。大丈夫、場所はこんなですけど、健全なお店ですから。ほら、こちらメニュー表」
言って渡してくれたメニュー表を受け取るも固まっていると、鹿が甲斐甲斐しく開いて見せてくれた。
「マスターの希望でちょっと変わった名前が多いけど、気になさらないでね」
可愛く小首傾げているつもりだろうが、どこまでもシュールな鹿の様子に、開いた口が塞がらないままメニューを見る。
そこに記された文字は騒然たるものだった。
やれ「人を堕落させる泡」だの「瞬間幸せ、目覚めて地獄」だの「オマエスッゴイコトナルゾ!」など。
……え? 格言? 台詞?
「うふ、分かりにくいわよね。分からない時は、直感を信じるの!」
大塚明夫ならぬ馬夫が可愛らしく拳を顎の下でふるって見せたので、再度メニューを睨む。
気持ちも何も、全体的に排他的な香りのメニュー名しかない。
引き返せ、と第六感が告げているのだが、ここで引き返すことが出来る者などいるのだろうか。
ジョン・マクレーンなら出来る? 駄目だ、あいつそれでいつもボロボロだ。
……虎穴に入らざれば虎子を得ず。
「そ、それじゃこの『地味で退屈そうな飲み物』をお願いします……」
自分でもわかるほど震える声でメニューを指さすと、挟み込むように左右に座っていた馬と鹿が、叫んだ。
「はぁいっご注文承りましたぁっ! じみたい一丁!」
壁を震わせる大声に、自分の体は確実に15センチは浮いた。
昇天しそうだが、その後奥のバーカウンターから
「はぁい、じみたい入りまーす」
と、意外にも穏やかな老人の声が返ってきたことで、我に返る。
今の穏やかそうな声は何だ?
唯一まともな相手に出会えると思い、慌てて暗いカウンターを見て、脱力した。
白シャツにベスト。細いその身の上に、サメのマスクが乗っていた。
映画『ジョーズ』を彷彿する鮫の頭の下で、手慣れた様子でシェイカーが振られる様子を見て、私は「……だよね」と呟く。
分かってはいたのだ。
こんな二人を接客に起用するくらいなのだから、他も異色であろうことくらい、分かっていた。
でも一縷の希望を抱いてしまうのが人間だろう?
「お客さん、なんだかお疲れね?」
優しい口調で、右側から鹿が言う。
「あ、もしかして上の張り紙見て、来たのかしら?」
明るい口調で、左側から馬夫が笑った。
「アナタの深層心理、お埋めしますって。気になった?」
明るい無理やり高音ボイスで訊かれて、私は観念して頷く。
もう、さっさと呑んで、さっさと答えて帰ろう。
明日は朝食もいらない。起きたらすぐに宿を出て、地元まで戻りスタバで甘っあまのフラペチーノ飲んで、疲れを癒そう。
思いながら遠い目をしていると、鹿がグッと顔を近づけてくる。
「……お客さん本当お疲れね? お仕事忙しいの?」
瞬きしない鹿。どこを見ているか分からない。そもそも、どこから見られているのかもわからないので、こちらもどこに視点をやったらいいかが分からない。
仕方なく、目線を下げつつ「……そうっすね。忙しい」と答えると、鹿が慌てて、胸元を手で隠す。
「やだお客さん! どこ見てらっしゃるの!?」
非難めいていながらどこか嬉しそうな声の響きに、うっかりすると「胸毛だよ」と答えそうになるのをグッと堪えて「すんません……」と自分が謝ると、横から馬夫が怪訝そうにこちらを覗き込む。
「あらやだ。本当に深層心理がすっからかん」
……すっからかん?
深層心理だぞ?
深層心理がすっからかんって、どういう状態だよ?
思いながらも、もう何も声が出ない。
人は極端な状態に陥ってまで、ツッコむことは出来なくなるのだ。
だが、彼女(彼ら)達はウンウンと互いに頷き合う。
「大変大変。こんな状態だったら、さぞかし辛いでしょうに」
「私達、うんとサービスするから」
「そうよ。ちゃんと明日から笑えるようにね。あ、でも、性的なのじゃないわよ? フルーツ☆スキャンダルは、名前こそスキャンダルだけど、健全なお店ですぅ」
言って、鹿が指でハートマークを作ってくれた。
いや、それハート? 指の一本一本が、マッキーくらいに太いので、瞬間何をされたか分からなかった。
「最近嫌な事でもあった? 話すと楽になるわ」
小首をかしげて馬夫が聞いてくる。ごつい、怖い、やばい馬。
だがその聞き方はどこまでも優しい。
少しほだされかけている自分に一番「やばい」と思いながら、それでも口を開いてしまったのは、実際とんでもなく疲弊していたからだろう。
「……先週、得意先に手土産を持っていくことがあったんですけど」
ふと自分の口から漏れでた言葉に、愕然とした。
同時に、そうか。と思う。
やはり、あの時のことを気にしていたのかと。
「相手は、最近若い奥様と結婚されて……それで。何がいいかなって考えて。若い奥様も喜びそうな、可愛くて、美味しいキエモノって考えて、高級なマカロンを持っていったんです……」
「あらマカロン!」
「あたし大好き。あれ、可愛いわよね」
とても好意的な調子で馬と鹿がキャッキャと同意してくれる。
それに少し気分を良くしたが、結末を思い出すと自然声は暗くなった。
「そうしたら、翌日、相手さんが血相変えて怒鳴りこんできたんですよ」
「やだどうして!?」
鹿が怯えた声を出した。
「反社の人? いちゃもんつけるタイプの?」
馬夫が恐ろし気に聞いてくる。
そうだろう? と思う。こちとら、この物価高の時期に自腹でかなり奮発したのだ。
「相手さんが言うには失礼にもほどがあると」
「あら、なんで失礼?」
鹿が胸筋ブリブリ震わせながら聞いてきた。
それさえも既に気にならない自分はやはり余程まいっているのだろう。
だが思い出す。あの憤怒の表情をした、相手会社の課長の姿を。
「国際結婚だったんですよ、フランス人女性と。マカロン贈ったことで、奥さんが、ここは日本だ国に帰れ、お前はマカロンでも食っとけという意味だろと言って泣き出したって……」
「あらぁ~……」
気の毒そうに鹿が唸る。
「そんな意味で贈られたの?」
馬夫に聞かれて、弾かれたように首を横に振った。
「まさか! こちらとしては大きな仕事だったから是が非でも取りたかったんです! それで伊勢丹まで行って買ったんですよ? たかだか十個で、こちらの五日分の夕食代になりそうなやつを!」
「高級じゃないの~」
「それで何で泣いちゃうのよその外国人妻? ホームシックだったのかしら?」
馬と鹿が交互に言ってくれるが、自分は頭を抱えるばかりだ。
「分かりません。でも、そのせいで、取引は無し、キミには時期ソウショウだったって、企画から外されるし、今じゃ得意先のご機嫌伺いの為に貰ったチケット消化しろって言われてこんな所に一人で来てるしっ!
部長もなんだよ、時期ソウショウって! 仕事出来るか知らんけど、それ言うなら尚早だろ!?」
そうこうしていると、鮫バーテンダーが
「こちら、地味で退屈そうな飲み物でございます」
と、目の前のローテーブルにグラスを置いた。
言われてふと顔を上げて見えたグラスには、灰色の液体がなみなみと注がれている。
驚きで声も出ない自分に対し、横から鹿が
「驚くわよね。でも中身は黒ゴマと豆乳をコーヒーリキュールで割ってるだけ」
と、笑顔の声をだした。反対側から馬夫が
「コンクリート汁とも呼ばれているけど」
と食欲減退する発言をしてくれる。なんなの、この馬?
「でも、つらいわよね。良かれと思った行動が、予想外な所で裏目に出るなんて」
ふぅとため息をついて鹿は言った。その指先が己の胸毛を無意識に弄るのは、敢えて見ないことにして「……そうなんです」と頷くと、今度は馬夫が唐突に
「えらい!」
と叫んだ。
その声に再びこちらの体が文字通り飛び跳ねたが、気にせず馬夫は震える。
「そんなヤなことあったのに、今日も仕事の延長でここに来てるってわけ? えらすぎるんだけど」
声のデカさと言葉の衝撃に、こちらの感情が追い付いてこない。
が、すぐさま横から鹿が拍手した。
「ほんとそうよ。アタシだったら、そんなことあった後は辛くて温泉浸かりながら鹿煎餅齧るわね」
「あら止めなさいよあんた、ふやけるわよ」
鹿の鹿煎餅を気にする馬がすぐさま言ったが、気にせず鹿は聞いてきた。
「それで? あなた、どうするの? そんな若い身空でいじけるなんて勿体ないわよ?」
若い身空で……と言われたが
「もう、四十ですよ?」
答えた自分に鹿がマッキーな人差し指を横に振った。
「まだ四十でしょ? 信長の時代でも人間生きて五十年で、死ぬまで十年もあったのよ? 今は平均寿命何年? まだまだ若者プリプリじゃない」
「それにもし残り十年の寿命だとしても、十年もあるわ。それだけあれば安酒も上等な古酒! 人ならもっと素敵になってる!」
思いもよらない励ましに、どう反応したものかと黙る自分に対して、更に鹿が詰め寄ってくる。
「疲れてくると、見聞きするものも、自分のことも低く見ちゃうわよね。でもそんなことないわよ? だってそんなに疲れているのに、ここまでやって来たんだもの」
マッキーな指でそっと手に触れられた瞬間ギョッとしたが、すぐさまその温かさに目を見張った。温泉のような、いや、生きている鹿に触られたような……温度はそのまま自分の中にゆったりと流れ込むようだ。
鹿は語る。
「偶然に思えたり、流されたように思っても、その都度ちゃんと選んでいるのよあなた。とってもえらいわ」
「……そうでしょうか」
「そうよ! ここに来ることを選んで、ドリンク選んで、今はちゃんと言葉を選んでる! 選択ってね、正しい、間違ってるじゃないのよ」
横から馬夫が合いの手を入れてくるので、思わず呟いた。
「……でも。私、間違えてばかりなんです……」
ほだされて、思わず口から出た言葉がそれかと自分でも思う。
ただ、一度言うともう止められなかった。
「今回の仕事のことでも、そう。若い奥様にはマカロンだろ? って選んだの。私が貰って嬉しかったものだったから……」
「あら、マカロン貰ったことあるの?」
馬夫の声に、私は頷いた。
「……前の夫から」
「あら……」
どこか気の毒な相手を見るように、鹿が呟く。
そう。皆そんな顔をするのだ、私を見て。
職場の皆も、部下だった者も、皆。
同じ職場だからと旧姓を名乗り続けていた自分が、離婚することを話したら「呼び方変わらないからあんまりこっちは気にしないですよ」と苦く笑った後輩社員達。
結婚した後の昇進会議で「子供が出来たら休まないといけないだろ?」と、私を選考から除外した上司達。
取引先に贈ったものを聞いて「俺への当てつけか?」と言ったツーブロック部長は、かつての私の夫だ。夫婦共に平等だと話していたのに、結婚と共に家事を強要し、子供を望み、それを断ると、もう女には見られないと言ったアイツ。
それなのに、未だに職場では下の名前で呼んでくるアイツ。
そもそも、あれとの結婚も間違いだったのだろう、きっと。
……いや、違う。
そんなことも間違いだと思う自分。そんな自分が生まれてきたこと自体が――。
「はいはいストップ」
その声と、パンパンと叩かれた手の音にハッとする。見上げた先にいる鹿が少し怒った声を出す。
「だめよ、疲れている時に黙り込むのは。悪い方にばかり頭がいくんだから、ねぇ?」
「ねぇ」
すぐさま馬夫が合いの手を入れて、こちらを覗きこんだ。
「それじゃ、もう少しあなた自身の話を聞かせてくれない?」
そう言われて、戸惑いながら、ポツリポツリと自分の事を話し始める。
「……生まれは富山県で」
「富山いいところよね。美味しい物も沢山だし、おわら風の盆なんて最高よ」
「……その後地方の大学に入って」
「大学出なの! 凄いじゃない、沢山勉強したのね!」
「……それから県内の食品製造会社に勤務して」
「えらいじゃなーい。地元にちゃんと貢献したってわけね」
「……その会社が倒産して、別の会社に食品メーカーに就職して」
「すごいっ! 大変だったのに、そこでさらに働くことを選んだのね、もう神よ!」
「……そこで前の夫と出会って結婚したんですけど」
「職場恋愛ね。普段一緒に仕事している相手だからこそ、良さも悪さも見えるものよ、選び方としては最高っ」
「……でも、十年目で離婚して」
「十年も他人と暮らしたの!? すごいわ、それ! 私、ハムスターとの共同生活も無理よ」
「……気づけば結婚と離婚を理由に、昇進選考からは外されていて」
「それ、選ぶ側が最低ね。こんな子外すなんて、会社側の大損失よ」
「………部下からは可哀そうな元上司として見られていて」
「可哀そうっていうのは何も馬鹿にしているんじゃないのよ。でも嫌な気分になるような味方なら、そいつらがまだお子様で表面しか見ていないだけだわ」
「……給料もさがるし」
「でも給料もらってるってことは稼いでるってことよね、えらい」
「……仕事も任せてもらえないし」
「今はその時期じゃないのね。ヒーローはいつも後で来るものだもの」
「あの、なんかさっきから無意味に褒めて励ましてません?」
間髪入れず続けられる称賛と激励の数々に、耐えられずに顔を上げると、馬と鹿が激しく体を震わせた。
「事実だと思うから褒めてるわけだし」
「偉いと思うから励ますのよ」
その両方の目に嘘はなかった。
ドキッとする。
ただのビニールマスクの目に、言いようのない神聖さと慈しみが見えたからだろうか。
黙るこちらの膝に、馬と鹿は手を添える。
「……望むように解決することは難しいかもしれないけれど」
「あたし達、ずっと応援するわ」
囁くようにそう言って、鹿は胸筋を再び震わせつつ、太い指でハートを作った。
「……ごめんなさい。もっと話したかったのだけど、もう時間が来たみたい」
「じかん?」
言われてもピンと来ず、聞き返すと
「こちらと現世は時間の流れが違うのよ。もう起きないと」
と、馬夫が残念そうに答えながら、同じく胸の前でハートを作る。
「最後におまじない教えてあげる? つらい事とか、迷うことがあったら、唱えるの」
「そうよ。でも人の不幸は望みながらはダメよ。不幸は自分に返ってくるから」
「自分を励まそうとする時、踏ん張る時だけよ」
「大きな声で言わなくてもいいの。でも唱えてくれたら、必ずアタシ達、励ましにいくからね」
異様に大きな二人に言われて、訳が分からず戸惑っていると、マスクの下でフフフと二人が笑った。
「空っぽの深層心理。心理が空なんてなかなかない話だわ」
「でも、空になっているように見えて、ちゃんと底から湧いてきてるから大丈夫」
「ここに来れたと言うことはね。それだけで、十分その資格があるということよ」
「胸を張って
人間?
その言葉の意味を聞き返す前に、二人はハッキリと声を揃えて、こう唱えた。
「ラスト
あの後、自分は空になった缶ビールが倒れる、宿の自室で目を覚ました。
……夢おち。
夢だったのか、と思う。
宿の館内地図に施設案内を確認しても、「フルーツ☆スキャンダル」なんてキャバレーは無かったし、恐ろしい話、地下一階も存在しなかった。
そう、全部自分の夢だったのだろうと思う。
離婚して、仕事もうまく行かず、元夫が上司になっている、嫌な現状に、夢でも見たのだろうと思う。
でも不思議なのは、単なる夢のはずなのに、あの時の馬と鹿の手の温みはリアルに手に残っていた。それから、あのおまじないも。
旅行明け、職場に戻ると、やはり腫れ物に扱うようにして皆が話しかけてくる。得意先からは「一人に戻って、仕事に生きるんだね」なんてことも、まだ言われる。
元夫の部長からは「
今日も今日とて、自分は営業で各所をめぐる。可愛いパンプスだと足が痛むからスニーカー。長い髪はほつれるから短くしたら「恰好を気にしない女だ」と言われる。
そうだろうか? 毎日ちゃんと化粧して、シャツもアイロンをかけている。スニーカーだって綺麗にクリーニングしているのに?
世間は自分達には冷たい。
同じ土俵に立ち始めたと言うけど、決してそうでないことに気づいていない。
夜の道は怖くて一人で歩けず、満員電車に乗るのを躊躇すると言ったら「その年で?」とか「その顔で?」とか平気で言われる。
皆気づいていないし、言われ続けた自分達も次第に己に対して愚鈍になる。
傷ついていることを気付かないようにする。
そうした方が生きやすいから。そうしないと生きていられないから。
そんな時、ふと「ラスト
途端に蘇る、馬と鹿の感覚。
後で、ネットで調べてみた。夢占いでは「馬」と「鹿」は幸運の予感なのだそうだ。特に鹿は神の使いとされているらしい。
良いことがおこる前触れだと書いてあったのを読んだ時、何故かストンと胸に落ちるものがあった。不思議。
元夫は、近頃若い女の子と知り合って、そのまま振られたらしい。気安く下の名前で呼んだのがいけなかったとか。
更に、「マカロンが気に入らない」と怒鳴った得意先の相手の外国人妻は、家を出ていったそうだ。外国人妻――リディアというらしい――は、夫の、他の日本人女性に対する横暴な態度に腹を立てたとか。
さすが自立の国、フランスの女子である。
涙を流して悲しんだというのも全部得意先の思い込みだったらしく、涙を流したのはマカロンが本当に嬉しかったからだそうだ。
でも、それもこれも全部噂である。本当のところは分からない。
事実はいつも分からない。
思い込みの向こうに、勝手に「事実」を作り上げているだけかもしれない。
勝手に傷ついて、それなのに、傷ついていることに気づかない。
深層心理が空っぽなわけだ。
空っぽになりそうな時、私が唱える「ラスト鮫来」。
これも夢判断で調べた。
サメの夢は、大警告夢なんだって。
あの一番穏やかそうなバーテンダーが警告。
ほんと、人って見た目じゃわからない。
……人じゃなかったみたいだけど。何も解決してないけど。
でも、今日もおまじないを唱えてみる。
唱えてみると、少しだけ、笑えた。
フルーツ☆スキャンダル・セッション(みなかみもと、の場合) みなかみもと @minakamimoto
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