本作は、死神から「零時に死ぬ」と宣告された男の最後の一日を描いた、独善的で、それゆえに痛切な人間解剖録である。
最大の特徴は、死神という非日常的な舞台装置を導入しながら、ドラマチックな救済や奇跡を一切排除した点だろうか。ここで語られるのは「運命への抵抗」ではなく、死を言い訳にして加速する「究極の利己主義」だ。主人公は親友の人生をギャンブルで翻弄し、その怒りすら「雑音」として脳内から抹殺する。
「死神」という設定は、主人公が「悲劇の主人公」として振る舞うための免罪符として機能しており、。は死の恐怖から逃れるため、周囲の人間を「自分を理解しない背景」へと格下げし、自ら孤独を完成させていく。実家のバリケードや故障したスマホといった小道具は、物理的・精神的な「分かり合えなさ」を象徴し、物語の断絶を決定的なものにしてしまう。
本作は、感動的な結末を期待する読者を容赦なく裏切るが、そのざらついた読後感の正体は、私たちが日常で無意識に行っている「自分に都合の良い他者の解釈」を、鏡のように突きつけられたことによる困惑ではないか。救いようのない孤独の深淵を、あえて「虚無」のまま描き切った、冷徹なまでの意欲作である。
「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?」
「あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」
伊坂幸太郎氏の『終末のフール』に登場する一節です。この作品を見て、ふと思い出しました。
主人公は死神に選ばれ、最期の一日を思いの儘に過ごします。けれどそれは、決して派手なものでも、特別な意味を持つものでもありません。言ってしまえば、いつもの一日の延長のような時間です。
でも、案外そういうものなのかもしれません。主人公のもとに訪れた死神は彼の目に見えていますが、私たちのもとへ来る死神は、目には見えないのかもしれない。そうとは知らずに私たちは最期の一日を過ごし、いつもと変わらぬままに死んでいく。
けれど、よく考えると不思議です。もともと私たちは、いつ死んでもおかしくない。明日死ぬとわかった途端に今日の行動が変わるというのなら、普段の自分は一体何をしているのか、という話でもあります。
主人公がそう考えていたかはわかりません。ただ彼は彼なりに、あえて普通の日々を過ごすことで、恐怖をごまかしながら、それでもなんとか向き合おうとしていたのだと思います。
最後に父は言います。「理由がないというのは納得できん」と。けれど、主人公の言うとおり、死ぬことに理由なんてありません。それはきっと、誰にとっても同じです。そして彼は、予告されたとおりに、この世を去っていきました。
軽妙でテンポの良い会話の中に、生きるということの輪郭が静かに見え隠れする作品でした。
面白かったです。