吉原雨模様ー幽霊絵師、時雨蓮次の受難ー

秋月糸乃

第1話 筆を執れば、その身は雄弁

 空が赤い。雨が降る前の夜はいつもこうだ。

 湿り気を帯びた風が、吉原の華やかな喧騒を裏路地へと運んでくる。


 ここ、吉原でも指折りの大見世『扇美屋おうみや』の一室には、二人の男女がいた。


「……やだ……時次ときじ、もう、堪忍……」


 女が、しどけなく乱れた着物の合わせを抑え、熱に浮かされたような吐息を漏らす。


 対する男――時雨蓮次しぐれれんじは、女のそんな哀願を撥ねつけるように、低い声で囁いた。


「なぁに言ってんだ姉さん、まだできんだろ。ほら、そこ、もっと左の膝を立てて。腰をぐっと引くんだ」


 蓮次の指先が、女の白い足首を無造作に掴み、不自然な角度へとねじ曲げる。


 女――扇美屋の部屋待ちであり、蓮次の幼なじみでもあるお艶は「ひっ」と短い声を上げた。


「……そう。その無防備な格好が、男の情欲をそそるのさ。今のまま動くんじゃないよ。俺の筆がお前のその艶を、余さず食いつぶしてやるから」


 蓮次は饒舌だった。

 普段、路地裏で猫背を丸め、ボソボソと土くれに話しかけるような根暗な男とは、とても思えない。


 彼が描いているのは、お艶がお客に贈るための特注の春画だ。

 そのまま夜が更け、明け方の鐘が響く頃。二人は戦場のような熱気の果てに、力尽きたように畳の上で折り重なって眠りに落ちた。


 ◇


 翌朝。

 吉原の仲の町は、夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


「……よく働いたわねぇ、蓮次。ほら、約束通り極上の飯を馳走してやるから」


 お艶はすっかりいつもの「粋なお姉さん」に戻り、寝起きの蓮次の腕を強引に抱きかかえて歩く。


 その時、向かいから重箱を抱えた少女――日和ひよりがやってくるのが見えた。

 腕を組み密着する二人を見た日和は、みるみるうちに般若のような形相に変わる。それを見たお艶の口角が、意地悪く跳ね上がった。


「昨日はすごかったわよ、蓮次。あんた、あんなに激しいなんて知らなかったわぁ」


 わざと誤解を招くような言葉を投げ、真っ赤になって固まる蓮次と、怒り爆発の日和を交互に見てくすりと笑う。


「冗談よ。あたしゃお邪魔なようだからこれで。二人で飯でも食ってきな」


 お艶はお金を渡し、すれ違いざまに「お礼は身体で払ってもいいのよ」と蓮次に耳打ちをする。


 顔を赤く染めてただ立っている蓮次とその横で今にも頭から湯気が上がりそうな日和を背にお艶は颯爽と去っていった。


「あー、可愛い。本当いじめがいがあるわ。」


 クスッと笑ったお艶の独り言に2人は気付かなかった。


 その後、日和からの猛烈な説教という名の「朝食会」をどうにか生き延びた蓮次は、ようやく解放され、一人で裏路地の自宅へと向かった。


 蓮次は、吉原の遊女の元に生まれ、この廓の泥と白粉の匂いの中で育った。

 親の顔も知らぬ天涯孤独。幽霊を描くことで糊口を凌ぐこの男にとって、吉原の裏路地こそが唯一の安息地だった。


 ボロの扉を開け、湿った空気が漂う部屋に入る。


「……ただいま」


 返ってくるはずのない挨拶を口にした蓮次の足が、止まった。


 部屋の真ん中に、女が一人、座って俯いていた。

 だが、それは生身の人間ではない。

 女が着ている着物は上等なものだが、ぐっしょりと水に濡れ、無惨に着崩れている。畳の上には、女の体から滴り落ちた水が黒い染みを作っていた。


「……絵師、様……」


 女がゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は濁り、果てしない絶望が渦巻いている。


「許せない、人が……います。どうか、私を……助けて……」


 震える声が、蓮次の鼓膜を叩く。

 蓮次は大きな溜息をつき、背負っていた画道具を下ろした。


「……やれやれ。俺のところへ来るのは、いつも厄介な女ばかりだ」


 蓮次は愛用の筆を手に取った。

 その瞬間、彼の瞳に宿る色が、再び鋭く、艶やかに変わり始める。

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