【ホラー×ファンタジー×文芸】夜のアトリエ――代償の棚
マスターボヌール
第1話
鍵を差し込む前から、ドアはすでに開く気配を持っていた。
守人は右手の指で把手に触れた。冷たさが関節の奥まで這い上がってくる。それだけだ。それだけのことを、たしかめてから押す。
室内の空気は昼と変わらない温度のはずだった。にもかかわらず、一歩踏み入れると肺の中がわずかに狭くなる感覚があった。慣れているはずのことが、毎夜、慣れていない顔をする。守人はそれを考えないようにする練習を、ずいぶん長いあいだ続けている。
棚の上に布をかぶせた器具が三列。左から絵具の瓶、粘土のブロック、刃物の束。午後の客が使った形跡はなかった。昼間の人間たちはここで何かを作り、何かを作れなかった自分を発見し、そのどちらも忘れて帰る。守人には関係のない話だ。
深夜零時までに準備を終える。
ルールというほどのものではない。ただ、そうしなければならない理由を、守人はもう問わない。
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最初に来たのは、50がらみの男だった。
ノックは三回。二回目と三回目の間が長すぎた。踏みとどまることを、体が考えていた時間分だけ。
守人はドアを開けなかった。開く必要がなかったから。鍵はとうに外れていた。
男は入ってきて、室内を見た。見るというより、目が何かに貼りついて剥がれなくなった、という感じだった。棚の瓶の一つを、3秒か4秒、視線がはなれない。守人はその視線の先を確認しない。確認しなくてもわかるし、わかっても変わらないから。
「座りますか?」
椅子は二脚ある。守人が指したのは窓側だった。男はそこに座り、上着の胸ポケットに手を入れ、何も出さずに引っ込めた。
沈黙が続く。
守人は待つことに不満を持たない。待つという感覚そのものが、ある時期からうまく作動しなくなった。何かが零時を境に変質したのか、それとも最初からそういうものだったのかは、思い出せない。
「……娘が」
男の声は思ったより低かった。
「3年前に、娘が死にました」
守人は動かない。
「事故じゃない。俺が、」
そこで男は口を閉じた。閉じたというより、言葉が途中で固まったようだった。喉の動きが止まり、目線が床に落ちた。守人は男の顎のあたりを見ていた。具体的にそこを見ていたというより、どこも見ていなかった。
3年。
数字は空気のように部屋に漂って、何にも着地しなかった。
「……消したいわけじゃないんです」
男がまた話し始める。声が最初より掠れていた。
「ただ、あの夜を。あの選択を。俺があそこで別の道を選んでいたら、という。それだけを…」
守人は棚の方へ歩いた。絵具の瓶を一本、布の上に置く。瓶の中身は夜の底のような色をしていた。光を吸って、返さない。
「代償があります」
守人の声は感情の起伏を持たない。それは意図したことではなく、どこかの時点でそう固まってしまったものだ。
「え?代償とは?」
「それは私にもわかりません」
男が守人を見た。見る、というより、何かを探した。弁明か、保証か、嘘をついているかどうかの判断か。守人にはその求めに応える手持ちがなかった。
「本当に、わからないんですか?」
「はい」
それが嘘かどうかを守人自身も判断できない。わかっていて言わないのか、本当にわからないのかという問いは、零時を過ぎると意味の輪郭が溶けはじめる。
男は瓶を手に取った。
指先が触れた瞬間、室内の温度がほんの少し下がった。計器があれば測れる程度の変化だったかもしれないし、守人の感覚が捏造したものかもしれない。区別は、もうずっとむずかしい。
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夜明けまで、守人は椅子に座って男を見ていた。
見ていた、というのは正確ではない。男がいる空間の方向に、顔が向いていた。
男は絵具を使った。使い方を教えなくても、使える。ここに来るような人間は、ルールを教えられなくても手が動く。その事実を守人は疑問に思わなくなって久しかった。
朝の4時すぎ、男は立ち上がった。
顔に何かが起きていた。表情が変わったのではなく、表情を作る筋肉の下にあるものが、別の配置になったような。守人は男の目を見て、それがいつ始まったのかを考えた。絵具に触れた瞬間か。それとも最初から、男の中ですでに何かが動いていたのか。
「ありがとうございます」
男は言った。
声に感情があった。安堵か、解放か。守人にはその区別ができなかった。区別する必要もなかった。
男は出て行った。ドアが閉まる。
沈黙が戻った、というより、沈黙は最初からそこにいた。男がいたあいだも、男が出たあとも、変わらない密度で部屋に満ちていた。
守人は布をかぶせた瓶の列を見た。絵具が一本、わずかに減っている。それだけが変化だった。
代償はまだ来ていない。
来るとしたら、昼に来る。守人の関知しない場所で、守人の見えない角度から。それがどういう形を取るかを考えることを、守人はしない。するだけの、何かが足りない。
それが何かを、守人はもう問わない。
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朝が来た。
カーテンの隙間から光が差す。棚の瓶が光を反射して、無数の小さな白を天井に撒く。昼間の客がやってくる。絵を描く人間、粘土をこねる人間、何かを作ることで自分が何者かを確かめようとする人間。
守人は鍵を持って、表のドアを開ける。
看板を出す。夜間営業は零時から。
普通の午前だった。
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代償は11日後に来た。
守人はそれを知らない。知る方法がなかった。ただ、11日目の深夜に男がまたドアを開けたことで、何かが起きたことだけはわかった。
男の顔は前と同じだった。輪郭も、目の位置も。ただ目の中に、前回あったものがなかった。前回あったものが何だったかを守人は正確に記憶していなかったが、なくなったことだけは判断できた。空の器を見るとき、何が入っていたかを知らなくても、空であることはわかる。
「座りますか?」
男は今度は座らなかった。
ドアの近くに立ったまま、壁のあたりを見ていた。壁には何もない。アトリエの壁はいつも白く、何も貼っていない。守人がそうしておく理由は、理由と呼べるものではなく、ただそうしている。
「……娘のことを」
男がようやく言った。
「思い出せない…」
守人は動かなかった。
「顔が出てこない。声も。あのとき何を話したかも。何も。何年一緒にいたかも、今日の朝まで数えられたのに、今は」
男の口が一度閉じた。また開く。
「数字だけ出てくる。17年。その数字は覚えてる。でも17年が、空っぽなんです」
守人は窓の外を見た。深夜の路地に、自転車が一台とめてある。誰のものかは知らない。昨夜からそこにある。それだけのことを守人は確認して、それからまた男の方に顔を向けた。
「記憶は消えましたか?」と守人は聞いた。
「消えたんじゃない。消えたなら、穴が残る。穴もない。ただ、ないんだ」
男は上着の袖を少し引っ張った。何かを確かめるような動作だったが、何を確かめているのかは守人にはわからなかった。
「あの夜のことは、変わりましたか?」
男は答えなかった。
答えないことが答えだった。守人にはわかった。変わった。あの夜の選択肢が、別の形になった。男はそれを手に入れた。代わりに、娘への感情が消えた。事実は残り、感情だけが抜け落ちた。記憶の中の娘は、もう誰でもない人間になっている。
17年が、数字になった。
「返してもらえますか?」
男の声は穏やかだった。怒りも懇願もなかった。それが守人には、怒りより重たく聞こえた。
「残念ながらできません」
「そうですか…」
男はそれだけ言って、ドアを開けた。
出て行く前に一度だけ振り返った。守人を見た。何かを探していたかもしれないし、ただ惰性で振り返っただけかもしれない。守人には判断できなかった。判断しなくていい問いだったかもしれない。
ドアが閉まった。
守人は棚の方へ歩いた。前回男が使った絵具の瓶を手に取る。中身はさらに減っていた。使った量より減っている気がした。気がしただけかもしれない。守人は瓶を棚に戻して、布をかぶせた。
代償の形を守人は予測しない。できないから、というより、予測して何かが変わるならとうにそうしている。
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二人目は女だった。
30代、おそらく。髪を一本に束ねていた。首筋が細かった。それだけを守人は見て、それ以上は見なかった。
彼女はドアを開けて入ってきて、守人を見て、それから棚を見た。棚を見る時間が長かった。刃物の束のあたりで視線が止まった。
「何をしたいですか?」
守人が聞いた。
女はすぐには答えなかった。棚から視線を外して、床を少し見て、それから守人の方に向き直った。向き直ったが、守人の目は見なかった。守人の肩のあたりを見ていた。
「……人がいるんです」と彼女は言った。
いる、という言い方だった。存在することへの言及。
「その人が、消えてほしい」
「死んでほしいということですか?」
「消えてほしいんです!」
死と消滅のどちらを望んでいるかを守人は詮索しない。どちらを望んでも、使うものは同じだから。
女は椅子に座った。膝の上で手を重ねた。指の関節が白かった。力が入っているわけではないのに、最初からそういう色だった。
「その人は、あなたに何をしましたか?」
「あなたに関係ありますか?」
「……ありません」
「……」
女は一瞬、何かを言いかけた。言いかけてやめた。やめたことに気づいた顔をして、また別のことを言おうとして、それもやめた。
守人は待った。
「5年間」と女はようやく言った。「5年間、ずっと横にいた人間が、他の人間と生きていくことを選んだ。それだけです。それだけのことが、私には…」
そこで言葉が切れた。切れたというより、言葉の続きがそもそも存在しなかったような終わり方だった。
守人は刃物の束を棚から出した。布の上に置く。女の目がそこに向いた。今度は視線が離れなかった。
「これを使えば、その人の運命の流れを断てます」
「殺せるということですか?」
「殺すというより、切る。その人がたどるはずだった道を、ある点で断ち切る。何が起きるかは、切った後でないとわかりません」
女は刃物を見続けていた。見ているあいだ、呼吸が浅くなっているのが守人にはわかった。胸の動きで、わかった。
「代償は?」
「私にはわかりません」
「本当に?」
「はい」
沈黙。
路地に風の音がした。一度だけ。それからまた静かになった。
「……その人が、幸せになるのを見ていられないんです」
女の声は静かだった。静かすぎて、怒りなのか悲しみなのか守人には判別できなかった。どちらでもあり、どちらでもなかったかもしれない。5年が人間にする何かを、守人は概念としては理解している。感覚としては、もう持っていない。
「それは…」と守人は言いかけて、止まった。
何かを言おうとしたのか、言おうとしたふりをしたのか、自分でもわからなかった。このアトリエの中で守人が言いかけて止まることは、ほとんどない。ほとんどないことが起きた理由を守人は追わなかった。
女は刃物に手を伸ばした。
指が柄に触れた瞬間、守人は窓の外を見た。反射的に、とは言えない。反射する何かが守人に残っているかどうかは自分でも判断できないから。ただ、顔が窓の方を向いた。
路地の自転車は、まだそこにあった。
12日間、誰も取りに来ていない。誰かが忘れたのか、誰かが捨てたのか、守人にはわからない。わからないことを守人は問わない練習を、長く続けている。その練習が今も続いているかどうかも、夜になると確かめる方法がなくなる。
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女が出て行ったのは、夜明けの少し前だった。
刃物を使った。使い方を教えなくても、手が動いた。守人はそれを見ていた。見ていたという言葉が正しいかどうかわからないまま、視野の中に女がいた。
女が去り際に一度だけ笑った。
笑い、という表現が正しいかどうか守人には判断できなかった。口の端が動いた。それを笑いと呼ぶかどうかは、見た人間が決めることだった。守人が見た、とすれば、守人が決めることになる。守人は決めなかった。
ドアが閉まった。
守人は刃物の束を布に包んだ。包んでから、重さを感じた。前より重かったかもしれないし、前の重さを守人が正確に記憶していないだけかもしれない。どちらでも、棚に戻す動作は変わらない。
代償がどこかで始まっていることを守人は知っていた。
知っている、という言葉を使っていいかどうかわからないが、他に使える言葉がなかった。女の切った糸が、今ごろどこかで何かを変えている。変わった何かが誰かに当たり、当たった誰かが別の誰かを変える。守人には見えない連鎖が、今夜も夜の底で静かに続いている。
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朝が来た。
光が棚の瓶を照らした。刃物の束は布の中にある。見えない。
守人は鍵を持ってドアへ歩いた。
表に出ると、路地に朝の空気があった。自転車はまだそこにあった。今日も誰かが来て、また夜が来て、また誰かがこのドアを三回ノックする。
それだけのことが続いている。
守人はそれを確認して、看板を出した。
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