恋の落下速度について

陳腐おくだ

第一話 月歩

 椿の花がぼとりと落つるその呆気無さは、ワタクシにしてみるとただただ残念とった感じであった。私はそこに儚さや情緒といった物は感じられず、花が落ちたという事実にしか思えなかったのだ。でもこの方はそこにいくつもの思いを募らせることが出来る。夏の晩のじっとりとした静けさをサカナに酒を進めたり、春の野花の可憐さに目を細めたり、何故そんな事が出来るのだろと直接問うてみれば、彼曰く「愛を知っているから」だと仰る。


 彼の、高柳タカヤナギ志鶴シヅルの「愛の本質」とはいったい何なのだろう。恋も知らない私には、到底知りうることはできないのだろう。


「先生、恋とはいったい何でしょう」


 町への買い出しの帰りにふとそう問えば、彼は考える様に私の顔をちらと見て、また含みを持つように口元を緩ませる。


「必要の無いもの?」


 彼のその問いには私の心を見透かしている様な響きがあった。私はそれにムッとしながら「そう思います」と答える。それを聞いた彼は満足気に続ける。


「子孫繁栄の為の生存本能だと?」


「エェ」


「ならそれで良いのでは?」


「投げやりな……」


「言葉にするのは些かむつかしい」


 その投げ出すような掴めない答えに私は少し怒り気味に「作家先生でしょう?」と煽る。だがそんな言葉もあっさりと躱され、彼は緩やかな笑顔を保ちながら云う。


「その身でこれから学びなさい。学生サンでしょう?」


 その後に冷やかしながら「吉原にでも寄って帰りますか」と問いかけてきたので、私は怒りに任せて「結構です」と強く云い放った。どこまでいっても掴みドコロの無いひと。彼からは愛について何も学べそうも無い。


 買物を終え邸宅に帰り、先生はいつものように一眠りついた。座布団を半分に降りたたむのが彼のお決まりであり、私は買い込んだ荷物を仕舞ってから一息着き、彼の本棚からそっと一冊取り出した。初めてここに来てその日に「棚の本は読んでも宜しいか」と尋ねた処、彼は「どうぞご勝手に、詰まらぬ物ですが」と簡潔に許可を下した。彼は自分の書いた本に執着が無いのだろうか。もし自分だったら……例えば何万字という文字数の論文を書き上げたら出来がどうであれ読み手の意見や感想が聞きたい物だが、彼はどうやらそういった評価や人からの賛辞は不要らしかった。変わった人だなと思って私はパラパラと読み耽る。


“恋といふものはとても密度の高くこの世の万物にも値せぬ質量を持ちながら、そこに拡がる虚無感は到底無視できるものでは無かった。

 いやと見詰めてその姿形を捉えれば、以降絶えず視界の端を並んでくる。夜道を闊歩する月の様なそれは、光にも成り得るし闇にも成るのだ。そして必ず最後に……“


「……自分の本には書いて居るのに、先生は何にも教えて下さら無い」


 ぽそりと呟いて先生を見れば、彼は無防備に口許クチモトを緩ませて眠り続けていた。彼の寝顔を見ると、どうしようも無い気持ちに駆られて来る。脅迫観念の様なそれは、何か自分を駆り立てるように心音をドッドッと強く打ち付け、私はその迫り来る欲望を抑えることに必死であった。そして又、手元の本に目をやれば、清流の水の如く冷たき言葉がそこに放り出されているのだった。


“恋は最後に、必ず裏切る”


 何を以て恋と呼ぶのか。

 私は本を閉じ、それを古びた棚にそっと戻した。そして台所の支度をしてしまおうと襷を手に取り、もう一度彼を見た。柔らかく人好きしそうなのに、何故こんなにも近寄り難いのだろうか。


タダシ君。君は何か勘違いしていますね」


 その夜、箸で器用に魚の身を解しながら先生は云った。焼き加減が駄目だったかしらと彼の目を見れば、相変らず柔い表情の彼がそこに居た。


「作家という生き物はね、別に己の心全てをそこに書き記す訳では無いのですよ。書き連ねた文章や人格は作り上げたフィクションであって、それは全くの私自身では無い」


「先生はあの本で恋をしていたのでは無いのですか」


「ええ全く」


「恋は光にもなり得るし、闇にもなり得ると」


「勘弁してください」先生は少しむせながら口元を隠す。器官に何か入り込んだらしかった。そしてそのまま髪を掻き上げて髪の毛をすっと手櫛で撫でた。その色っぽい仕草を見るとぐっと喉元が圧迫される。「作家に自分の書いた言葉を宛て付けないでくれ……」


 その恥ずかしそうな様に「ご勝手にと仰ったでは有りませんか」と言えば「読むのは勝手にしろと言いましたが、音読しても良いとは云っていない」と子どもの様にむきになって返してくる。その拗ね方が何だかかわゆいので「てっきりご自身の御本に執着が無いのかと」と重ねた。すると彼は「執着なんてありませんよ。愛は在りますが」と返すのだった。愛。またも愛の話であった。


「愛とはいったいなんなのですか。何故私には教えて下さらないのですか」


「君は人に聞いてばかりだね」


 ご馳走様、と彼はおツユの椀を茶碗に重ねる。私が「ア、片付けます」と言っても「このくらい」と立ち上がっていってしまった。呆れられてしまったかと少し落ち込んでいれば、彼は茶碗を流しに置いてから茶の間に戻って来る。


「いいかい、正君」


 私は少し姿勢を直して箸を机に置く。すると先生は「いい、いい。カシコまらないで」と食事の続きを促した。「食べながら聞きなさい。くだらない話だから」


「先生の話はくだらなくなんか有りません」


「……マァ良いけどね。はぁ、君は素直だ、本当に、君の分野と全く違う作家風情を先生だなんて慕って。素直すぎる、心配なくらいだよ。あのね、云っておきますけど、惚れた腫れただの、愛だの恋だの、実際には万人にぴったりな言葉なんてこの世に無いのですよ」


「だから自分で‪学びなさいと? あの、恋は落ちるものと聞いたことがありますが、落とし穴の様な物なのですか? そして“此れは落とし穴だ”と認識できてその上で落ちてしまうのか、それとも落とし穴があることに気付かずに気付いたら落下している、みたいな物なのでしょうか? 落下速度は大凡おおよそどれ程ですか」


「落下速度」先生はそこを繰り返し、目を少し開いてから口元を緩ませる。そして「ふ」と柔らかい笑みを零した。「恋の落下速度を問われたのは初めてだ」


「おかしいですか」


「おかしいったら無い。君、見た目の割に情緒的な考えを持ち合わせているのだね」


 本を書き給えよ、恋についての。

 作家先生にそう云われるなぞ何と屈辱的な事だろう! と私は「書きませんよっご馳走様でした!」と云い放ち、食器を持って流しへ向かった。そのまま皿を洗ってしまえば先生はちゃぶ台の下に放ってあった新聞を取り出してもそもそと読み始めた。表裏二ペイジの新聞には【人気俳優、降板か?】と丁寧にレタリングされた下品な見出しが書かれており、その下の中見出しに【政府に反発する謎の男】とそっちをデカデカと書くべきではというような内容が書かれていて、後で私も読ませて頂けるか打診するつもりである。というのも、新聞は一ヶ月で三十二銭、一枚につきおよそ一銭五厘と言う高級品であり、書生身分の私なぞが買える代物では無いのだ。先生は毎月この時勢や政治についての新聞と、もうひとつ小説やコラムなどの世俗的な新聞を取っている。そんなお金があるということは相当な貯えがあるのだろうか? と思うがそんな無粋な事は聞けそうにない。この平屋で一人暮らし、良い歳の男がお嫁さんも貰わずに一人暮らしというのも不思議だ、こんなに素敵な人なのに。マァとにかく謎ばかりな男性である。皿を洗い終えてちゃぶ台を布巾で拭けば、先生は寝転がりながら新聞に目を通していた。「ご飯、支度から何までありがとう」


「いえ、置いていただいている身ですから」


「それでどうです、東京に来て一週間くらい?」


「よくしていただいて……有難い限りです」


 実際、町の人は学生に優しかった。古本屋から八百屋まで私の学生帽をちらと見るとにこやかに「お勉強偉いわね」とこっそりおまけをつけてくれるのだった。それは私の身分が学生だからというだけで無いのは先生と出掛けるとよく分かる。先生の容姿は言わずもがな美しい。その上あの柔らかな話し方は人を惑わせるのか、婦人達の先生を見詰める眼差しは熱っぽいのだ。


「正君、明日は学校ですか?」


「え?ええ、はい」


「明日の夜は西洋料理に行きましょう」


 それであれば夕飯の支度はしなくていいのかと思いながら、急な提案だなとも思った。そんな疑問を見透かしたのか先生はニコと微笑み「友人と会うから、一緒に食事にね」


「お邪魔では無いですか」


「ふふ。友人に話したらね、君に是非会いたいと」


 そんなに面白い人間性は持ち合わせていないけれど、と思ったけれど、先生の交友関係が純粋に気になったので黙って頷くことにした。先生が読み終えた新聞を手渡してくれたので、私は礼を云ってそれを受け取り部屋に行って読んでやろうと立ち上がれば「ここで読みなさい」と優しく云って先生は真隣に座布団を引き寄せた。


 何故そんな事を仰るのだろうと思ってそこにちょこんと座れば、先生は満足そうににこにこしていた。今日はお酒を飲んでいないのに何故そんなに上機嫌なのだろう。私はずっと気になっていた政治の記事を読もうと見つめれば、先生は黙って二枚目の新聞を引っ張り出して私の前に広げた。物語はあまり興味が無いのだけれど……と思っていれば先生が指先をちょいと使ってある欄を指さした。連載小説の筆者の欄に「高柳志鶴」とくっきり書かれており、私はエッと思って先生を見た。


「読んでみて」


 読むとそれは彼の文体に合った繊細で技巧的なプラトニックな男女の恋愛……では無く、あまりにもくど過ぎる恋愛小説であった。女中として田舎から出てきた女性と主人が共に生活する中で恋に落ちるという在り来りな話である。単純な話ではあるものの言葉の節々に彼のこだわりと技量を感じるそれは成程、確かに彼の作家としての力量を感じられる。それはそれとして、どうにも気になる点があるのだが気の所為であろうか。この気の強く几帳面な主人公の女中。どうにも覚えがあるのだが、これは自意識過剰に過ぎないのだろうか。


 ――御主人様はその指先を私の髪の隙間に滑り込ませ、そっと撫でる様に触れました。彼は冷たいお人だと皆云うけれど、私の頬を撫でた指先は確かに温かかったのです。


「気付いたかな。君と私をモデルにして書いたんです」


 エッと思い私は先生と新聞を見比べた。そこに連ねられている言葉は「可愛らしい」だの「落雁ラクガンの如く甘い唇」だのと歯が浮く様な台詞ばかりであるが、彼を見ても一切動ぜず、ただただ笑っているばかりであった。


「ね、これからもお願いしますね、正君」


 ――椿の花がぼとりと落つる様はあまりにも呆気ないものでした。私はその姿形をしっかりと捉えてしまったのです。この世の万物にも値せぬ質量を持つそれは、彼の引力によって此処に滞って居る他ありませんでした。


 恋は最後に、必ず裏切る。


 その清流の如く冷たき言葉も、強迫観念の様なその存在の前には無力なのだった。

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