桜よ、今は墨染色に咲け

深山心春

第1話

 外界を見下ろした。あちこちに支木をしてある桜の花が目にはいる。

「殿下はどちらにいらっしゃいますか」

 その声にちっと舌打ちをして、雲を蹴り音もなく桜の隣へと降り立つ。誇り高く艶やかに咲いている桜は、春の宵に美しい風情を醸し出していた。

紅(こう)は藍染の着物を楽に着てしゃくり、と柘榴を喰む。しゃくり、しゃくりと、柘榴を喰むけれど、目はじっと桜の花に釘付けになっていた。

「こんなところにいたのかい」

 ふと柔らかな声がして、しっかりと袍と冠をつけた人物がふわりと優雅に舞い降りた。

「近習が慌てて探し回っていたよ。急に消えるから」

「なんでおまえは俺の場所がわかったんだ」

「そりゃあ、紅が今いちばん心寄せてるのはここだと思ったからさ」

 紅と呼ばれた少年は面白くなさそうな顔をする。

「蒼(そう)、お前は鼻が利きすぎる」

「お褒めに預かって光栄だね」

蒼はやわらかな微笑みを浮かべた。

紅は美しい栗毛色の髪を肩まで伸ばし、大きな琥珀色の瞳を持っていた。蒼は長く伸ばした栗毛色の髪にやさしそうな緑色の瞳。髪をひとつに結わえ、身なりもしっかりとしていた。美しく双子のようなふたりは、同い年であったが、蒼の方が年上に見られることが多い。

「今日は説教もなしだ」

「わかってるよ」

 そういうと、蒼は極上の酒を懐から取り出した。それを見て紅の目が見開かれる。

「悪くない」

 そう言って瞳を細めた。蒼が持ってきた盃に酒を注いでもらう。ふたりで桜に向かって盃を向けて、酒をあおった。

「春宵一刻。値千金だ」

「本当だね」

 風が吹く。老木の桜からエネルギーが満ちて、あらん限りの桜吹雪が舞った。桜はこれが最後かというように、むせ返るように美しい花びらを散らしていた。

 盃に桜の花びらがひらひらりと舞い落ちる。紅はその様を少し寂しそうに見やったあと、ぐいと酒を飲み干した。蒼も言葉なく桜を見ながら酒をあおる。やがて春の宵も終わりにさしかかろうかという時、老木の桜から、桜の花々を浴びながら、十二単を纏った美しい女が出てきた。さながら蛹が羽化したかのように。彼女は自分の手や顔を確かめて信じられないという顔をする。けれどすぐにふたりの少年の前にひれ伏した。

「春の花の王子さま方にはご機嫌麗しゅう」

「おまえのような美しい桜に出会えたのだ。機嫌も良くなると言うもの」

 桜の精は嬉しそうに瞳を細める。

「この若き姿も、春の花の王子さまのご配慮なのですね」

「ふん。美しい桜をおまえは毎年見せてくれた。それこそ何百年も。それを労って悪いことはなかろうよ」

「紅はただ、そなたが美しかったと述べてるんです」

 蒼の言葉に、桜の精は両手をついて深く頭を下げた。

「わたくしは五百年、この世を見てまいりました」

 そう言うと微笑む。

「生き辛き世もありました」

 けれどと彼女は続ける。

「それでも心にあるのは人に対する愛だけでございます。私の下で結ばれたもの、残念ながら結ばれなかったもの。いろんな人生模様を見てきました。また、わたくしが身体が不自由になってからは、なんとかもたせようと工夫をしてくださいました」

「ああ、そうだな」

 紅は桜の精に手を伸ばしその手を取った。

「今度生まれ変わるとしたら何の花を望む?」

 その問いに、女はゆっくりと微笑む。

「もちろん、桜を。また長い時を人とともに歩んでいきたいのです」

「あなたの願い聞き届けましょう。さぁ、天界へと帰る時間です」

 蒼の声と同時に。

 桜の精の姿が朧になっていく。彼女は最後まで微笑みを崩さなかった。微笑んだまま、視線は紅の姿を捉えていた。

「さようなら、美しい王子さま方……そして、優しいわたくしの花の王子さま」

 その言葉を最後に桜の精の姿が消えた。風は強さを増し、先ほどまで咲き誇っていた大木を、容赦なくなぎ倒した。ばき、ばき、と鋭い音がして桜は地上に落ちた。

「見事だったな」

「ああ。見事な散り際だった」

紅と蒼はしばらく無言で酒を酌み交わす。

「まだ気になる花はあるかい?」

「あるに決まってる」

「僕も付き合うよ」

「なぜ……」

 その言葉は途切れた。自分の目から涙がこぼれている。紅は急いで袖で拭った。

 五百年もの間、紅の無聊を慰めてくれた桜だった。その人格も、思いやり深く優しかった。彼女の枝に寝そべって昼寝をしたことが昨日のように感じられるのに――。

「彼女の命はつきかけていた。暴風で倒れる運命だった。それは仕方がないよ」

 わかってる。自然の摂理であると。

 花はその命を終えるときに、次は何の花になりたいのか聞かれる。さすがに、紅と蒼は家庭の花々に聞いて回ることはないが、大切にされた花ほど、同じ花へと生まれ変わるのを望むという。

「置いてきぼりばかりだ」

 そう拗ねる紅の声に蒼は苦笑する。巡る巡る季節。何もかもが変わってゆく中、変わらずずっとそこにあった桜の古木に惹かれてもなんらおかしくはない。

 紅も蒼も長い長い年月を生きている。それは花たちの頂点に立つ花の王の子だから。花々を統べる百花の王。いづれ紅がその位につくだろう。

 蒼はその様子を想像する。きっと誰よりも似合うだろう、百花の王の色鮮やかな衣装は。

「蒼、酒を酌み交わそう。あの桜の精のために」

 紅がそう言って、盃を持ち上げる。

「ああ、いいね」

「春の宵は過ぎてしまったが、これはこれで風情がある」

「酒が飲めればどんな景色でも良いのではないかい?」

「人を酒乱のように言うな」

 目の前には、倒れた桜の木。まだ枝いっぱいにつけた桜の花は風に揺られ、散っては風に乗って飛んでいく。どこまでもどこまでも遠くへと。はらはらとそれはまるで涙のようにも思えた。

この倒れた桜も、人の手によって接ぎ木がなされている。次代に命を委ね、また新しく生まれ変わることだろう。

「紅、君。あの桜の精が好きだったんだろう」

 そう尋ねると、返ってくるのは沈黙だった。

「……そんなものではない。尊敬していた」

 思い出すのは百年ばかり前だろうか。戦火のただ中にあった彼女を紅は救った。迫る戦火から彼女を守った。

「人間は愚かだ。いつになっても争いをやめない。一緒に天界へ帰ろう」

 彼女は迫りくる戦火に怯えながらも首を振った。

「わたくしがいなくなっては、人が再興しようとする気力を奪ってしまうでしょう。わたくしはここにおります」

 戦火のただ中にあっても、人を愛しむことをやめなかった彼女。

「天界へ帰ろう。俺が連れて行くから」

 懇願するように何度も言う紅に頭を振り、優しい声で

「それでもひとは愛することをやめないのです」という彼女にその強さに惹かれた。

 その彼女の最期を見送れた。泣きたいほどに気分は良い。

「清子(さやこ)」

 紅は桜の精の真名を口にする。ああ、本当に清らかな桜の精だった。

「清子。今は眠れ。そしていづれの時にかまた会おう」

 そなたが忘れても、俺が覚えているから。いつまでもいつまでも待っているから。

 蒼が慰めるかのように、紅の肩を抱く。倒れた老木はその花びらをやわらかに風に乗せる。

 ある春の宵、桜の老木はそっとその寿命を迎えた。しかし、それを看取った王子がいたことを知る者は少ない。

 明日になれば人も悲しみに包まれるだろう。桜よ、今は喪の色に咲け。

 愛しい者の去ったこの世を墨染色に染め上げろ、と紅は願った。

 空にはぽかりと月が浮かぶ。煌々と散りゆく桜の花びらを静かに照らしていた。




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