第2話: 王子様は俺の前だけ泣く。俺の前だけ甘える。牙は——まだ見せない。

 ハクアと出会ったのは、一年前の春だった。

 帰り道の裏通り。学校から少し離れた、人通りの少ない道。前方から声が聞こえた。


「ねえ、お茶でもどう? すぐそこにいいカフェがあるんだけど」

「結構です。急いでいますので」


 低く澄んだ声。王子様モードのハクアだった。制服姿のハクアに、大学生くらいの男が二人、行く手を塞いでいる。ハクアは眉一つ動かさず、クールに対応している。


「そう冷たいこと言わないでさ。ちょっとだけ」

「お断りします」


 毅然きぜんとしていた。だが、男たちはしつこかった。一人がハクアの腕を掴んだ。


「いいじゃん、ちょっとだけ——」


 その瞬間、ハクアの体がびくりと震えた。

 ぴんと立っていた耳がぺたんと倒れる。凛としていた瞳が揺れる。唇が震える。尻尾が脚の間に巻き込まれる。


「やっ——やだっ、はなしてっ——」


 声が、変わっていた。低い王子様の声ではない。甘くて、幼くて、怯えた声。

 王子様の仮面が、恐怖で剥がれたのだ。

 ——次の瞬間には、俺は走っていた。


「おい、離せよ」


 男たちの間に割り込んだ。腕を掴んでいた男の手を振り払った。背後にハクアを庇う形になる。

 男たちは数秒こちらを睨んだが、人通りのある大通りから声が聞こえたのを契機に、舌打ちして去っていった。

 振り返ると、ハクアがその場にしゃがみ込んでいた。膝を抱えて、震えている。白い尻尾が脚に巻きついている。ふさふさの白い髪が揺れている。さっきまでの凛々しさが嘘みたいに、小さく見えた。


「大丈夫か?」


 しゃがんで、目線を合わせた。ハクアの蒼い瞳が、涙で滲んでいた。


「こわ、かったっ……」


 幼い声。小さな子供が怖い夢を見た後のような、そんな声。

 この子は今——素の状態にいる。王子様の仮面を剥がされて、中身がむき出しになっている。

 中身は——怖がりで、寂しがりで、誰かにくっついていたい、普通の女の子だった。


「もう大丈夫。あいつら、行ったから」

「……ほんと?」


 ハクアの目が、まん丸になった。涙がぼろっとこぼれた。そのまま、俺の胸に顔を突っ込んできた。


「うえぇぇ……こわかったよぉ……」


 泣いていた。学園の王子様が、路上で、見知らぬ先輩の胸で号泣していた。白い尻尾がぶるぶる震えている。俺の制服が涙でびしょ濡れになっていく。

 ——なのに、腕が回ってきた。ぎゅう、と。しがみつくように。離さないように。

 それが、全ての始まりだった。


  

 あれ以来、ハクアは俺の前でだけ「幼児退行モード」を発動するようになった。甘えていい相手として認識されたらしい。

 翌日の放課後、校舎裏で偶然二人きりになった瞬間、ハクアは王子様の顔を脱ぎ捨てて「せんぱい!」と飛びついてきた。切り替えの速度に目眩がした。三秒前まで別の後輩に「頑張ってね」とクールに声をかけていた人間がこれだ。


 以来、空き教室での密会が日課になった。

 問題は——学校ではその関係を完璧に隠さなければならないことだ。


「先輩」


 昼休み。廊下でハクアとすれ違った。王子様モード。声は低く、瞳はクール。すれ違いざまに小さく頷くだけ。

 だが、すれ違う瞬間——俺の手に、ハクアの指先がほんの一瞬だけ触れた。わざとだ。


「せーんぱいっ」


 小声のささやきも追加。表情は一切変えない。周囲には気づかれない。だが触れた指先が、微かに震えていた。

 早く放課後にならないかな——そう言っている指先だった。


「ハクア様と先輩って、仲いいんですかー?」


 放課後。ハクアのファンを自認する後輩の女子三人に、取り囲まれた。


「いや、普通だけど」

「うそー、ハクア様って先輩にだけ挨拶する時ちょっと笑うんですよ。気づいてました?」

「……そうか?」

「気づいてないんだー。先輩、鈍感ですねー」

「そうです! あ、もしかして先輩、ハクア様をオトしちゃった系ですかー?」


 きゃあきゃあ騒いでいる。一人が俺の肩をぽんと叩いた。


「先輩も隅に置けませんねっ!」


 軽いボディタッチ。何気ない仕草だった。

 ——その瞬間。

 廊下の向こうに立っていたハクアと目が合った。王子様モード。表情は微笑んでいる。いつものクールビューティ。


 だが——瞳が、笑っていなかった。


 蒼い目の奥に、稲妻のような鋭い光が走った。一瞬だけ。殺気——とは違う。もっと冷たくて、もっと粘着質な何か。俺の肩に触れた女子の手を、ピンポイントで射抜くような視線。


 背筋が凍った。

 次の瞬間には、ハクアはいつもの微笑ほほえみに戻っていた。後輩の女子たちに「やあ」と手を挙げて、廊下の角を曲がっていった。


 ——気のせいか?


 三十分後。空き教室。二人きりになった瞬間、ハクアは幼児退行モードに切り替わって俺に飛びついてきた。いつもの「せんぱいーっ」だった。俺の胸に顔を埋めて、腕をぎゅうぎゅうに巻いて、尻尾をぶんぶん振って。


「せんぱい今日もいっぱい撫でてー。おなかもー」


 無邪気だった。可愛かった。いつも通りの、甘えん坊の後輩だった。


 ——だけど。

 さっきの目を思い出す。廊下で、女子が俺の肩に触れた瞬間の、あの目。


 俺に無邪気に抱きついているこの子の——本性を、一瞬だけ見てしまった気がした。

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