薄氷さんはセ◯レ以上恋人未満

剃り残し

第1話

「ねえ、つむぐ


 ベッドの中で一糸纏わぬ姿で俺の胸元にへばりついているのは、首元で切り揃えられた金髪のショートボブの女の子、薄氷うすらい夜宵やよい。彼女が唐突に口を開いた。


「何?」


「住宅のチラシに書いてある『緑豊かで閑静な街』って、要するに『周りにコンビニすら無いド田舎』ってことだよね?」


 窓の外で、遠くを走る車の走行音がかすかに響いている。部屋の時計は、二十時半を指そうとしていた。


「不動産屋のポエムにマジレスするのはやめた方がいいと思うよ」


「や、違う。あれは現代人に対する挑戦状なんだ。言葉の裏に隠された真実を見抜けという、一種のテスト」


「随分と難易度の高いテストだね……」


「ここで問題です。『見栄と虚栄の交差点』ってキャッチコピー、東京二十三区だと何区?」


「……港区?」


「ふふっ、正解。じゃ、次。『本能の赴くままに生きるサバイバルゾーン』」


「……足立区?」


「ふはっ、足立区のこと、そんな風に思ってたんだ?」


「夜宵が誘導したんだよね!?」


「さてさて。どうだろうね」


 俺の胸元にぴったりとくっついたまま、夜宵は変なクイズを出してくる。状況的にピロートークと言われればそうなのだが、話題が明らかにそぐわないチョイスだ。それも彼女ならでは。


 薄いTシャツ越しに、彼女の体温が直接伝わってくる。大学では氷の女と呼ばれ、他人と気安く話すことを嫌がる一匹狼の美女が、俺の部屋では常にこの状態だ。


 透き通るような白い肌と、感情の読めない冷たい瞳。そんな彼女が武装を完全に解き、俺の腕の中で丸まっている。


「お腹減った。スーパー閉まるよ」


 ポンポン、と彼女の頭を撫でる。夜宵は俺の胸に額を擦り付けたまま、名残惜しそうに小さく唸り声を上げた。


「……ん」


 無言。絶対に動かないという強い意志表示だ。


「行かないの?」


「や、行く」


 彼女はゆっくりと身を起こすと、ベッドから腕を伸ばしてグレーのパーカーを床から拾い上げて着る。


 俺のパーカーはオーバーサイズ気味で萌え袖になっている。その袖を鼻先に持っていき、すんすん、と小さく匂いを嗅いだ。俺の匂いが染み付いた、俺のパーカーだ。


「洗濯するから別の服にしてくれる?」


「……」


 夜宵は無言で首を横に振った。ジッパーを首元まで引き上げ、完全防御の姿勢をとる。このパーカーを脱がせるのは、カキの殻を素手でこじ開けるより難しそうだ。


「もう二十時過ぎてる。行くよ」


「……ん」


「裸で寝てたら寒くない?」


「紡が温かいから大丈夫」


「次から何か着て寝なよ」


 夜宵が「ん」と返事をするとのそりとベッドから這い出る。


 ベッドの脇に脱ぎ捨てられていた黒いスキニーパンツを拾い上げ、細い脚を通した。


 結局、上は俺のパーカーというアンバランスな格好のまま外に出るらしい。


 ◆


 アパートの錆びた外階段を降りる。春の夜の冷たい空気が、火照った肌に触れた。


 外に出ると、夜宵は俺から一メートルほど距離を取った。


「手、繋ぐ?」


 振り向いて答えると、夜宵は気だるそうな目を見開く。だが、すぐにいつもの気だるそうなジト目に戻ると首を横に振った。


「や、繋がないよ。知ってるくせに」


「ま、一応確認してみただけ」


「ふふっ。だめだよ、そういうジャブ。男の子はストレートを打たなきゃ」


 彼女と俺は手をつなげない。夜宵は人生で初めて手を繋ぐのは恋人と決めているからだ。


 俺達はやることはやっていても、恋人ではない。セフレ以上、恋人未満。それが今の距離感だ。


 しかし、俺が歩き出すと、後ろからクイッと引っ張られる感覚があった。振り返ると、夜宵が俺のパーカーの裾を、後ろからギュッと掴んで歩いていた。外では絶対に手をつながないという謎の意地を張りながら、結局これだ。


「ねえ」


 視線を足元に向けたまま、彼女が言う。


「自動販売機の、あの『あった〜い』と『つめた〜い』の波線って、なんであんなに間延びしてるの? 誰かに対する煽り?」


 唐突に屁理屈の弾丸が飛んできた。


「温かさと冷たさを視覚的に表現してるだけじゃないかな」


「や、違う。あれは一種のトラップだと思うんだ、うん」


「あの波線に気を取られている隙に、隣のボタンを押させるための高度な心理戦」


「随分と好戦的な自販機だね……夜宵はおしるこ派?」


「……や、私はコーンポタージュ派」


「あー、いいよね。けど自販機でコンポタを売ってるのって違和感ない? どっちかと言えば飲み物っていうよりご飯よりじゃない?」


「ふふっ。コンポタだけカテゴリが違う感じはするよね。その異物感も好きなんだ。私みたいで」


 適当な相槌を打つ俺に対し、夜宵は表情ひとつ変えずに持論を展開する。歩幅は俺にピタリと合わされ、裾を掴む手は決して離れない。


 自動ドアを抜け、蛍光灯の白い光が眩しいスーパーの店内へ入る。夜宵はカートの横にピタリと張り付き、俺の袖を掴んだままだ。


「ちょっと歩きにくいんだけど」


「……はぐれると危ないから」


「子供みたいだ」


 野菜売り場の白菜の山を前に立ち止まる。夜宵が横からスッと手を伸ばし、小ぶりで巻きのゆるい白菜をカゴに入れた。その流れで、隣にあったネギの束を指差す。


「ネギはいらない」


「今日は入れないよ。ミルフィーユ鍋だから」


「玉ねぎも」


「ミルフィーユっぽいけど鍋に玉ねぎは入れないよ」


 夜宵はネギが嫌いだ。恋人ではないから色んなことを知っているわけではないけれど、こうして過ごすうちに知ったことは多い。


 例えば、好きな食べ物は無言でカゴに放り込んでくる。


 カートを進め、精肉コーナーで豚バラ肉のパックを取る。カゴに入れようとして、ふと視線を落としたその時、いつの間にかカゴの中に、ファミリーサイズのアイスの箱が入っていたことに気づく。


「……」


「……」


 夜宵は遠くを見つめている。横顔は無表情だが、耳の先端がわずかに赤く染まっていた。


 欲しいものがある時は「これ買って」とは言わず、無言でカートに入れるのが彼女の癖だ。


「夜宵、これ好きだね」


「……別に。安かったから」


「いつも食べ切れないのに」


「……や、数日に分けて食べきってる」


「気づいたらなくなってるもんね」


 大きな箱アイス。それは「ずっと部屋にいたい」という彼女なりの無言のアピールなのだろうか。


 いや、きっと俺の手料理が好きなだけか、部屋が落ち着くだけだ。


 勘違いしそうになるのをこらえ、そのままカートを押そうとした。


 その時、夜宵が俺の肩にすっと密着してきた。夜宵の鼻先が、俺の肩あたりで小さく動く。


 大きく開いたパーカーの襟元から、華奢な鎖骨のラインが覗いていて目に毒だ。


「……紡の匂いがする」


 耳元で、囁くような声。俺の袖を掴む指先に、ギュッと力がこもる。


「アイス溶けちゃうから、早く行こうか」


 明後日の方向にある陳列棚に視線を逸らし、無理やりカートを前に押し出した。背中越しに、小さな足音がトテトテとついてくる。アパートに帰るまで、パーカーの裾を掴むその手が離れることはなかった。


 ◆


 キッチンに立ち、まな板の上に豚バラ肉と白菜を交互に重ねる。ミルフィーユ鍋は、一応俺の得意分野だ。土鍋の縁から円を描くように敷き詰めていく。


 オープンキッチンのため、リビングにあるソファの方からじとーっとした視線を感じる。顔を上げると夜宵が膝を抱え、パーカーの萌え袖に鼻を埋めながらこっちをジッと見ていた。


「手伝ってくれるの?」


「……や、見てるだけ」


「だよね」


 土鍋を火にかけ、白だしと少しの酒で味を調える。ぐつぐつと煮え立つ音が部屋に響き、肉と野菜の甘い匂いが白く立ち上った。


「できたよ」


 ローテーブルに鍋敷きを置き、土鍋を運ぶ。夜宵がのそりとソファから降り、俺の対面ではなく、すぐ隣に座った。肩と肩が触れ合う距離感だ。


 彼女は箸を持つと、小さく手を合わせて言った。


「いただきます」


 夜宵はふーふーと息を吹きかけ、小さく口に運んだ。感情の読めない瞳が、一瞬だけ細められる。


「……おいしい」


「そりゃよかった」


 二人で横に並んで一つの鍋をつつく。テレビはつけていない。夜宵がふと箸を止め、じっと俺の横顔を見た。


「ねえ、紡」


「ん?」


「明日の朝、パンが食べたい」


「菓子パン?」


「や、何かしらの手を加えたパン料理」


「朝から凝ったものかぁ……」


 俺はため息をつきながら自分の取り皿に肉を足した。


「食パン余ってるし、ホットサンドにしようか」


「……ん。ねえ紡」


 箸を咥えたまま夜宵がまた俺の名前を呼んだ。


「今度は何?」


「これ、食べ終わったら……もう一回する?」


 夜宵は萌え袖で口元を隠したまま、こっそりと俺の肩に頭を乗せながらそう言う。


 俺は何も言わず、ただ黙って頷く。結露した窓ガラスには、並んで鍋をつつく二人の姿がぼんやりと映っていた。

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