【完結】泡になる人魚姫は祓い屋の軍人に恋をした―掌に刻んだ名前―
霧原いと@異世界Vtuber連載中!
プロローグ
穏やかな陽光の見守る浜辺で、幼い少年と人魚の少女が遊んでいる。
人魚の少女は真珠のような白い髪を煌めかせながら、波打ち際で歌を紡いだ。
それは美しく澄んだ歌声だった。
聞く者すべての魂を柔らかく包み込むような歌声だった。
眠れ 眠れ 荒ぶる魂
深き海の やさしき揺り籠で
怒りも かなしみも
泡となり 波にほどける
光となって 夜に溶け
静かな海へ 還りなさい
少年は暫し心を奪われたように、ほうっとしていた。
それから漸く我に返ると、声を弾ませて少女を称えた。
「凄いね、まるで童話の人魚の歌みたいだ」
「童話?」
「知らないの。ほら、この本にも書いてある」
少し得意げな顔で、少年は赤茶色の表紙の本を開いて見せた。
人魚の少女は首を傾げながら、その中を覗き込む。
「わあ、綺麗!」
少女が最初に反応したのは、綺麗に描かれた挿絵の方だった。
そこには、海中で歌う美しい人魚の姿が描かれていた。
「……これはなに?」
それから、少女は文字の方を指さして首を傾げる。
「文字だよ。物語が書いてあるんだ」
「初めて見たわ。どうしてこれが、物語なの?」
大きな目を瞬かせる少女に、少年はくすくすと笑う。
「いいよ。歌のお礼に、僕が読んであげる――」
こうして今度は、少年が人魚の少女に物語を読み聞かせた。
彼の持参した童話集には、沢山の物語がつまっていた。
マッチ売りの少女、みにくいアヒルの子、赤い靴、そして――人魚姫。
少女があまりにも瞳をきらきらさせて聞いてくれるものだから、少年は嬉しくなって次々にページを捲った。
そして気づけば、すっかり太陽が傾いてしまった。
遠い海の水平線に、真っ赤な夕日が沈んでいく。
「そろそろ帰らなくちゃ」
名残惜しそうに、少年は本を閉じた。
「そう、そうなのね。残念だわ」
人魚の少女はしょんぼりと俯いたが、すぐに笑顔を作って顔をあげた。
「とても楽しかったの。ありがとう」
少女の笑顔が何だか眩しく感じて、少年は少しだけ目をそらした。
「うん。僕も、楽しかった」
「私も文字を読めたら良いのに」
ぽつりと寂しげにつぶやいた少女に、少年が返す。
「少しずつ、覚えていけばいいよ」
「できるかしら」
「できるさ。ほら、手を貸して」
人魚の少女は不思議そうに、少年に手を差し出す。
少年はその小さな掌に、丁寧に指で文字を描いた。
『さくや』
きょとんとしている少女に、少年は微笑んだ。
「さくや。僕の名前だよ。これなら、水の中でも書けるでしょう?」
人魚の少女は、彼の顔と自分の掌を交互に何度も見返した。
それからやっと納得したのか、嬉しそうに表情をほころばせる。
「さくや。さくやは、あなた」
「うん。そう。君の名前は?」
「私の名前? 私には、名前はないの」
少女の言葉に驚いた少年は、うーん、と頭をひねった。
「名前がないんだ。そっか。……それなら、僕がつけてあげる」
空は既に茜色から、紫色へと滲みかけていた。
海から吹き抜けてくる風も、少し冷たくなっていく。
「君は、しおみ。美しい海と言う意味だよ」
「美しい海?」
「そう。だから、君にぴったりだと思ったんだ。どうかな」
不安げに訊ねる少年に、人魚は声を弾ませた。
「しおみ。しおみ! 嬉しい、私は、しおみ!」
人魚の少女――汐美ははしゃいだように、海の浅い場所を飛び跳ねる。
そのとき、遠くから人間の声がした。
どうやら少年を呼んでいるらしい。
「いけない、母さんだ。本当に、もういかなくちゃ」
「ええ。ありがとう。さようなら。……また会える?」
不安げに問いかける汐美に、少年ははにかむ。
「うん。きっと」
こうして二人は別れた。
一人になってからも、汐美は何度も何度も彼の名前を自分の掌に書き重ねた。
そうすると何だか胸が温かく、幸せな気持ちになった。
――それが恋だとは、まだ知らないまま。
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