昭和転生~令和サラリーマン、高度成長期に無双する~

ポコタ

第一章 昭和四十四年の朝

最初に気づいたのは、天井だった。


白い、染みひとつない漆喰の天井。蛍光灯ではなく、裸電球がひとつ、琥珀色の光を細々と投げている。


(……どこだ、ここは)


山本浩二は、薄目を開けながら考えた。しかし「考えた」と言うには少々語弊がある。正確には、四十五年間積み上げてきた中年男の思考回路が、奇妙なほど小さな体の中で、ゆっくりと起動し始めたのだ。




体が、重かった。


いや、重いというより、言うことを聞かなかった。腕を上げようとすると、まるで夢の中で走るときのような、もどかしいラグがある。右手の指を一本ずつ折り曲げてみる。ちゃんと動く。しかし、その手があまりにも小さかった。


白く、柔らかく、指の関節のあたりにまだ赤ちゃんのえくぼが残っているような手だった。




──俺は、いつから子どもになったんだ。




記憶を遡る。令和の記憶だ。


山本浩二、四十五歳。大手電機メーカー、第三営業部の課長代理。妻とは五年前に離婚し、世田谷区三軒茶屋のワンルームマンションで独り暮らし。趣味は株式投資と、週末の競馬。特技は、会社の飲み会でも素面で聞き流せること。


あの夜のことは、よく覚えていた。


残業が続いた三月の木曜日。終電を逃し、会社のロッカールームで仮眠を取ろうとして、胸の締め付けるような痛みを感じた。心筋梗塞だと、頭の隅でひどく冷静に判断した。スマートフォンを取り出そうとして、力が入らなくて、そのままフローリングに崩れ落ちて──




(そうか。俺は死んだのか)


驚くほど、穏やかな確信だった。


死んで、そして今、ここにいる。天井の染みを眺めながら、浩二はそう結論づけた。パニックにならなかったのは、もともとそういう性格だからかもしれないし、あるいは体が幼すぎて涙腺の機能がまだ感情と連動していないからかもしれなかった。




─── 二 ───




「浩ちゃん、起きた?」


障子の向こうから、女の声がした。


柔らかく、少し高く、しかし芯のある声だった。浩二はゆっくりと首を横に向けた。障子が静かに開いて、エプロン姿の女性が顔を出す。


三十代前後だろうか。化粧っ気のない、しかし目鼻立ちのはっきりした顔。黒い髪を後ろでひとつに束ねて、右手に湯気の立つ茶碗を持っていた。


(お袋……?)


記憶の中に、その顔があった。写真でしか見たことのない、若い頃の母の顔。山本節子、当時三十二歳。


「熱はどう? まだ頭いたい?」


浩二は反射的に口を開きかけて、止まった。


自分が今、何歳の体なのか。声がどれほど幼いか。ここで大人の言葉を喋ったら何が起きるか。中年サラリーマンの思考が、凄まじい速度で状況を分析した。


「……うん」


絞り出した声は、想像以上に高く、か細かった。五歳か、六歳か。幼稚園児の声だ。


母──節子は、安心したように微笑んで部屋に入ってきた。畳の上に膝をつき、小さな額に手を当てる。


「熱、だいぶ下がったわ。よかった。昨日からずっと寝てたのよ」


(昨日から、か)


つまり昨日、元の山本浩二の意識が消えて、俺が入り込んだということになる。あるいは──この体の「山本浩二」と、令和から来た「山本浩二」が、何らかの形で重なったのかもしれない。


どちらでもいい、と浩二は思った。今この瞬間に必要なのは、パニックではなく、情報収集だ。


ただ一つだけ、頭の隅に引っかかりがあった。俺がここにいるということは、この世界は俺の知っている世界と完全に同じではないかもしれない。令和の記憶の中の歴史が、この世界でも同じように起きる保証はどこにもない。それは、後で確かめるしかなかった。




「今日って、何日?」


精一杯、幼い口調で言ってみた。


節子は少し目を丸くしてから、「急にどうしたの」と笑った。


「昭和四十四年の、五月十二日よ。月曜日」




──昭和四十四年。一九六九年。




一瞬、浩二は止まった。


一九六九年は、俺が生まれた年ではない。令和の自分の生年より、五年ほど前だ。つまりこの体は、俺自身ではない別の誰かの体だということになる。


しかしすぐに、その認識を脇に押しやった。今は関係ない。この体がどういう来歴を持つかより、今自分が何をすべきかの方が、ずっと重要だ。




浩二の頭の中で、何かが弾けた。


静かな爆発だった。中年男の知識と経験が、この時代の「座標」と激しく照合し始める。


一九六九年。高度経済成長の真っ只中。東京オリンピックが終わり、大阪万博がもうすぐ開幕する。日本中が「豊かさ」へ向けて走り続けている時代。そして──


(四年後に、第一次オイルショックが来る)


(十六年後に、プラザ合意がある)


(二十年後に、バブルが弾ける)




浩二は、目を閉じた。


母の手の温もりが額に残っている。畳と木の匂いがする。どこかから、子どもの笑い声と、路面電車の音が聞こえてくる。


この時代を俺は知っている。歴史として、数字として、知っている。そして俺は今、その歴史の内側に立っている。




──これは、チャンスだ。




─── 三 ───




その日の夕方、父が帰ってきた。


山本誠一。浩二の記憶にある、三十代の父だった。背が高く、少し猫背で、スーツの胸ポケットにいつもボールペンを二本挿している人だった。当時の銀行員の典型のような、実直で不器用な男。


「浩二、元気になったか」


父の声は、低くて優しかった。畳に座り直した浩二を覗き込んで、ごつごつした手で頭を撫でる。


(親父……)


令和では、もう亡くなっていた。浩二が三十歳のとき、脳卒中で倒れ、そのまま逝った。あまり話せなかった父だった。もっと話せばよかったと、酔ったときだけ思う人だった。


今、その父が目の前にいる。三十五歳。若い。


浩二は短く「うん」とだけ言って、父の顔を見上げた。四十五歳の目で、三十五歳の父を見ている奇妙さを、ひとまず飲み込んだ。




夕食は、白いご飯と味噌汁と、鯖の味噌煮だった。


食卓に並んだその光景が、浩二の胸に刺さった。令和のコンビニ弁当しか食べていなかったここ数年の自分が、急に恥ずかしくなるような、そういう食卓だった。


父は新聞を傍らに置いて、黙々と食べていた。母は「もう少し食べなさい」と浩二の茶碗にご飯を足した。浩二は素直に食べた。五歳の胃袋に収まるだけ、食べた。


(さて)


食べながら、思考を整理する。


まず状況の確認。俺は昭和四十四年、五月に、五歳の山本浩二の体に入った。場所は東京・世田谷。父は銀行員、母は専業主婦の中流家庭。俺の持つ「令和の知識」は、今のところ完全に機能している。


次に、問題点。五歳の子供が突然「株を買いたい」と言っても誰も相手にしない。資金がない。動ける範囲が極めて狭い。社会的な信用がゼロ。法的な権利能力も当然ない。


そして、強み。未来を知っていること。それだけだが、それは途方もない強みだ。




──急ぐ必要はない。今は種を蒔く時期だ。




浩二は、味噌汁を一口すすった。出汁がよく効いていた。


焦らなくていい。俺には時間がある。この体が成長するに従って、できることが増えていく。大事なのは、今この瞬間から、一手一手を正確に打ち続けることだ。


第一次オイルショックまであと四年。プラザ合意まで十六年。バブルの頂点まで二十年。


長い。しかし長いからこそ、確実に積み上げられる。




─── 四 ───




翌朝、浩二は父の書斎に忍び込んだ。


忍び込んだ、というのは正確ではないかもしれない。五歳の子供が父親の部屋に入っても、普通は咎められない。しかし浩二には明確な目的があった。


本棚と、新聞の束だ。


父は几帳面な人で、読み終わった新聞を捨てずに束ねて書棚の下に積んでいた。浩二はその束を引っ張り出して、床に広げた。昭和四十四年の、春から夏にかけての朝刊。


株価欄を探す。


今の自分には、令和の記憶がある。しかしそれは「大きな流れ」の記憶だ。どの年にバブルが始まり、どの年にオイルショックが来て、プラザ合意がいつかというのは知っている。しかし個別の銘柄について、一九六九年の株価が何円だったかなどという細かい記憶はない。


だから、今ここで「基準値」を把握する必要があった。


ソニー、トヨタ、松下電器、新日本製鐵──。並んでいる数字を目で追いながら、浩二の頭の中で計算が始まる。令和での最終株価と、今の価格を比較すれば、どれだけ上昇するか大まかな見当がつく。もちろん、株式分割や合併、上場廃止のリスクもある。しかしそれも含めて、「知っている情報」で勝負できる。




「浩二、なにしてるの」


母の声に顔を上げると、ドアの前に節子が立っていた。眉を少し上げて、散らかった新聞の束と息子を交互に見ている。


浩二は一瞬だけ考えた。五歳の子供がどう振る舞うべきか。


「かぶ、みてた」


わざとつたない言い方にした。


節子は一秒だけ固まって、それから吹き出した。


「株? 浩ちゃんが?」


「おとうさんがいつもみてるから」


「もう、散らかして。ちゃんと片付けなさいよ」


怒られながらも、母の目は笑っていた。叱られながら新聞を束に戻す振りをしながら、浩二はすでに必要なデータを頭の中に収めていた。




──ソニーは今、八百円台か。令和では一万五千円を超えていた。


──トヨタはまだ三百円台。後に株式分割を繰り返して、実質何十倍にもなる。


──松下電器──今のパナソニック──も同じだ。




問題は、金だ。


五歳の子供に投資資金はない。当然だ。小遣いもまだもらっていない年齢だろう。親の財布から抜き取るわけにもいかない。


だとすれば、方法はひとつだ。


時間をかけて、信頼を積み上げる。まず父に、この子供が「普通の子供ではない」ことを示す。そして父を通じて、最初の一手を打つ。


それが、今の自分にできる最善の策だった。




─── 五 ───




五月の連休明け、父が珍しく早く帰ってきた夜のことだった。


夕食後、父は居間でビールを飲みながら新聞を読んでいた。テレビはまだ白黒だった。NHKのニュースが低い音量で流れている。


浩二は、その隣に静かに座った。


「おとうさん」


「ん?」


「かぶって、たかくなったりやすくなったりするの?」


父は新聞から目を上げた。少し意外そうな顔をして、息子を見た。


「なんでそんなこと知ってるんだ」


「しんぶんでみた」


誠一は、しばらく浩二の顔を眺めていた。それから新聞を折りたたみ、膝の上に置いた。


「そうだな。高くなったり安くなったりする。会社が儲かると高くなって、儲からないと安くなる」


「じゃあ、もうかる会社のかぶをかえばいいの?」


父の口元が、ほんの少し緩んだ。


「理屈はそうだ。でも、どこが儲かるかを当てるのが難しいんだよ」


「これからにほんは、もっとゆたかになるの?」


「……まあ、そうなるといいな」


「ぜったいなるよ。おとうさん、かぶかったほうがいいよ」




誠一は、少し長い間、息子を見ていた。


五歳の子供の言葉として聞けば、微笑ましいだけの話だ。しかし何か、その目の奥に宿っているものが、父親に違和感を覚えさせた。


子供の目ではなかった。どこか遠くを見通しているような、静かな目だった。


「浩二は……株に興味があるのか?」


「うん。おとうさんといっしょに、かんがえたい」




その夜、誠一は妻に言った。


「あいつ、変わってるな」


節子は苦笑いした。


「熱を出してから、なんか変な気がしてた。でも元気そうだからいいじゃない」


「うん、まあ……。ちょっと、面白い子だと思って」




浩二は、隣の部屋で布団の中に入りながら、その会話を聞いていた。


(上出来だ)


初日としては上出来だった。父の中に「浩二は普通の子と少し違う」という認識が芽生えた。それで十分だった。今は焦らない。


来年、小学校に上がったら、もう少し踏み込んだ話ができる。再来年には、父を動かして最初の株を買わせることができるかもしれない。


そして、昭和四十八年秋。


第一次オイルショック。


あの混乱の中で、俺はこの時代で最初の「実績」を作る。




──親父、待ってろよ。お前の息子は、少し変わってるけど、決して悪いものにはしない。




窓の外で、路面電車の音がした。


昭和四十四年の、東京の夜だった。

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