第五章:愛か、それとも故郷か
怜と陽菜が恋人として歩み始めてから半年が過ぎた。二人の関係は仕事でも私生活でも理想的なパートナーシップを築いていた。
Quantum Cuisineは「料理における科学と感情の完璧な融合」を実現したレストランとして世界的な注目を集め、予約は常に数ヶ月先まで埋まっていた。
陽菜は正式に副料理長に昇格し、彼女の担当する「温感料理」部門は、食べ物の温度や食感の変化を通じて感情に訴えかける革新的な分野として注目を集めていた。
一方で、ピエールのオンライン料理教室も軌道に乗り、『Chez Grand-mère』の経営状況は着実に改善していた。月一回のQuantum Cuisineでのフランス料理フェアも好評で、日仏の食文化交流の象徴的な存在となっていた。
春のある夕方、いつものように営業を終えた二人は、厨房でゆっくりと後片付けをしていた。
「今日のお客様も喜んでいらっしゃいましたね」
陽菜は満足そうに微笑んだ。
「ああ。『記憶の再構築』コースは、君のアイデアが核になっている。お客様の思い出を科学的に分析し、感情的に再現する……僕一人では決して思いつかなかった発想だ」
怜は陽菜を見つめた。彼女がいることで、自分の料理人としての可能性が何倍にも広がった。それは仕事上のパートナーシップを超えた、人生のパートナーとしての絆だった。
「陽菜さん」
「はい」
「君に相談したいことがある」
怜は真剣な表情を浮かべた。
「実は、来月アメリカの料理学校から講演の依頼が来ている。分子ガストロノミーと感情の融合について話してほしいと。君も一緒に来てもらえないだろうか」
陽菜は驚いた表情を浮かべた。
「私が? でも私はまだ……」
「君なしでは成り立たない話だ。科学と感情の融合は、君があってこそ実現できた。ぜひ一緒に行ってほしい」
陽菜は嬉しそうに頷いた。
「はい! 喜んで!」
しかし、その時、厨房の電話が鳴った。時計を見ると午後十一時。こんな時間に電話とは珍しい。
陽菜が電話に出ると、相手は興奮した様子のピエールだった。
「陽菜! 素晴らしいニュースがあるんだ!」
「師匠? どうしたんですか?」
「君のオンライン料理教室が話題になって、フランスの有名な料理雑誌が取材に来ることになったんだ! そして、パリの三つ星レストラン『Le Bernardin』のシェフが、私の料理を食べたいと言っているんだよ!」
陽菜は目を輝かせた。
「それは素晴らしいですね!」
「でも、問題があるんだ。雑誌の取材では、君がどこで修行したかが重要なポイントになる。そして、『Le Bernardin』のシェフは、君の技術を直接見たがっている。だから……」
ピエールの声が少し沈んだ。
「申し訳ないが、一度フランスに帰ってきてもらえないだろうか? この機会を逃すと、店の本格的な復活は難しいかもしれない」
陽菜は困惑した。アメリカでの講演の話が出たばかりで、今度はフランスへの帰国要請。
「どのくらいの期間でしょうか?」
「最低でも三ヶ月は必要だと思う。取材、料理の指導、新しいメニューの開発……」
三ヶ月。それは決して短い期間ではない。
「分かりました……検討してみます」
陽菜は電話を切ると、複雑な表情を浮かべた。
「どうしたんだ?」
怜が心配そうに尋ねた。
陽菜は事情を説明した。師匠の店の完全復活のチャンス、しかしそのために三ヶ月間フランスに帰らなければならない。
「素晴らしい話じゃないか」
怜は言ったが、その声には複雑な感情が混じっていた。
「君の師匠の店が本当に立ち直れるなら……」
「でも、アメリカでの講演も……」
「それは僕一人でも何とかなる」
怜はそう言ったが、内心では陽菜と離ればなれになることへの不安でいっぱいだった。
その夜、陽菜は一人でアパートに帰り、悩んだ。師匠への恩義、店の将来、そして怜との関係。すべてを天秤にかけることはできない。
翌朝、陽菜は怜に相談した。
「正直に言うと、迷っています」
「どんなことで?」
「師匠には本当にお世話になったし、お店を復活させたい気持ちもあります。でも……」
陽菜は躊躇いがちに続けた。
「ここでの仕事も、怜さんとの関係も、とても大切で……三ヶ月も離れることが不安なんです」
怜は陽菜の手を取った。
「陽菜さん、君の気持ちはよく分かる。でも、これは君の料理人としてのキャリアにとって重要な機会だ」
「でも……」
「君が迷っているなら、僕から提案がある」
怜は深呼吸をして続けた。
「僕も一緒にフランスに行こう」
陽菜は驚いた。
「え? でも、Quantum Cuisineは?」
「田中に任せれば大丈夫だ。彼も十分成長している。そして……」
怜は微笑んだ。
「僕も君を育てた場所を見て、君の料理のルーツを理解したい」
陽菜の目に涙が浮かんだ。
「怜さん……」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「向こうで、君と僕の合同料理教室を開こう。分子ガストロノミーと伝統料理の融合を、フランスの人たちに伝えるんだ」
その提案に、陽菜は感激した。
「それって……」
「君の師匠の店にとっても、新しい話題になるはずだ。日本の分子ガストロノミーのシェフとフランス修行をした日本人シェフのコラボレーション。メディアも注目するはずだ」
陽菜は嬉しさで声を詰まらせた。
「ありがとうございます……本当にありがとうございます」
二週間後、二人はフランスに向かった。プロヴァンスの小さな空港に降り立つと、ピエールが迎えに来ていた。
「陽菜! そして神堂シェフ! ようこそ!」
七十歳を超えた老料理人は、まるで孫を迎えるような笑顔で二人を抱擁した。
「师匠! お元気そうで良かったです」
「君たちのおかげだよ。オンライン教室のおかげで、店の売上は三倍になった」
プロヴァンスの風景は、陽菜の話通り美しかった。ラベンダー畑が続く丘陵地帯、古い石造りの家々、そして空気にはハーブの香りが漂っている。
『Chez Grand-mère』は、小さな町の中心部にある愛らしいレストランだった。二十席ほどの店内は、温かい木の内装に家族の写真が飾られていた。
怜は店に足を踏み入れた瞬間、陽菜の料理の原点を理解した。ここには科学的な精密さはない。代わりに、家族的な温かさと、長年培われた伝統がある。
その夜、ピエールは二人のために特別な夕食を用意した。シンプルな家庭料理だったが、どれも愛情に満ちていた。
「これが陽菜の原点なんですね」
怜は感慨深く呟いた。
「ええ。ここで学んだのは技術だけじゃなく、料理に対する姿勢でした」
陽菜は懐かしそうに店内を見回した。
「毎日、地元の人たちが家族のように集まって、一緒に食事をする。料理は単なる栄養補給じゃなく、コミュニティの中心なんです」
翌日から、二人の本格的な活動が始まった。料理雑誌の取材、『Le Bernardin』のシェフとの面談、そして地元テレビ局での料理実演。
怜と陽菜の合同料理教室も大きな話題となった。分子ガストロノミーの技術で伝統料理を現代的に表現する試みは、フランスの料理界に新鮮な驚きを与えた。
しかし、最も印象的だったのは、地元の人たちとの交流だった。陽菜の故郷の人々は、まるで家族のように二人を受け入れてくれた。
ある夜、地元の農家の家に招かれた時、おじいさんが怜に言った。
「あなたは陽菜を幸せにしてくれているのですね。彼女の笑顔が、前よりもずっと輝いて見える」
その言葉に、怜は深く感動した。
三ヶ月の滞在は、二人にとって貴重な経験となった。怜は陽菜の料理のルーツを深く理解し、陽菜は怜と自分の故郷を共有できる喜びを味わった。
ピエールの店は、メディアの注目と二人の活動によって、完全に復活を遂げた。予約は数ヶ月先まで埋まり、全国から客が訪れるようになった。
「君たちのおかげで、私の人生最高の時期を迎えることができた」
帰国前夜、ピエールは感謝の言葉を述べた。
「そして、陽菜の人生も素晴らしい方向に向かっている。神堂シェフ、どうか陽菜を大切にしてください」
怜は深々と頭を下げた。
「必ずお約束いたします」
日本に帰る飛行機の中で、陽菜は怜に言った。
「今回のフランス滞在で分かったことがあります」
「何だい?」
「故郷は大切だけど、一番大切なのは、愛する人と一緒にいることです」
怜は陽菜の手を握った。
「僕にとっても、君と一緒にいることが一番大切だ」
二人の絆は、この三ヶ月でさらに深まっていた。故郷への愛と恋人への愛、両方を大切にできることを学んだ二人は、新しいステージへと向かおうとしていた。
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