2028ロスオリンピック 『40歳の妄想 ― 馬と私と、もう一度跳ぶために』
@k-shirakawa
第1話 40歳の妄想「隣の席の彼女を見て」
朝の厩舎には、馬の鼻息と蹄の音だけが静かに響いていた。
彼女の周囲には、今日も若手の職員たちが集まっていた。
「課長、この障害の進入角度、どう調整すればいいでしょうか?」
「馬に対しての重心移動、どう意識すればいいですか?」
彼女は一つひとつの質問に、馬の動きに例えながら丁寧に答えていた。
その声は凛として、芯が通っていた。
練習場では一転、彼女の声は鋭く響く。
「今のは、馬に頼りすぎよ。自分の軸を意識しなさい!」
部下たちは怯むことなく、涙を浮かべながらも馬と向き合い、再び障害へと挑んでいた。
練習が終わると、彼女の前で深々と頭を下げる部下たち。
その姿には、技術だけでなく人としての敬意が滲んでいた。
私は彼女の一学年上の先輩。同じ女子大学、同じ馬術部。
種目こそ違うが、私は学生時代と社会人になってから、全日本で優勝を三度経験している。それだけが、彼女に対して誇れる唯一のことだった。
彼女は今年、初めて全日本に出場した。地区大会では常に優勝だったが、全日本の舞台は未経験だった。それでも、彼女の周囲には人が集まる。
部下だけではない。獣医、装蹄師、関係会社の職員たちも、彼女を慕っていた。
私は違った。怒っているつもりはないのに、「怖い」と言われる。
社食では、事前に選んだ定食をその場で変えようとする我儘さ。給食スタッフが困った顔をしているのを見ても、気にせず注文を変えてしまう。
そんな私の我儘に、彼女はいつも「お姉ちゃんが食べられないなら、私がいただきます」と言って救ってくれる。
彼女は学生時代から私を「先輩」ではなく、親しみを込めて「お姉ちゃん」と呼んでいた。
その言葉に、周囲の空気が柔らかくなるのを感じる。彼女の周りには、自然と人が集まる。社食でも、老若男女問わず彼女の席は賑やかだ。
その夜、厩舎の隅で馬の首を撫でながら、ふと思った。「私は、何を失ったんだろう」 そしてもう一度、心の奥で呟いた。「いや、まだ取り戻せるかもしれない」
馬が静かに鼻を鳴らした。それに背中を押されるように、私はスマホを取り出し、彼女にメッセージを送った。
「明日、練習を見せてくれない?」
送信ボタンを押した指が震えていた。それは、プライドを捨てた瞬間だった。
つづく
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