呑気で軽薄な兄の生首と平穏で平坦な我々の生活について

目々

生首、空き缶、縺れた布団

 頭蓋骨に直に縄をかけて締め上げられるような二日酔いの頭痛に唸りながら目を開ければ鼻先に立っていた兄の生首と真正面から視線がかち合って、もう一度昏倒しようと思ったのに、脈に合わせて激しくなった頭痛がそれを許してくれなかった。


「土曜だけど、もう昼だから。起きた方がいいんじゃないか。昼飯食いそびれると夜もずれ込んで変な時間に食うことになるし、そうすると寝る時間とか全部ズレて面倒なことになるから」

「ああ、まあ、起きる、っていうか起きたけどさ。兄さんはその――何?」


 俺が起きるのに合わせるように、生首はベッドから飛び降りる。そのまま勢いよくローテーブルの上に跳ね上がり、林立した空き缶の群れを背後に従えて、深々と前傾してみせた。


「見れば分かるけど、首しかないんだよね、今の俺。どうしよう」

「ないっていうか……首から下はどこにやったんだよ」

「なんかどっかいった」


 幼児のような返答に舌打ちしそうになるが、ここで兄――生首を責めても仕方がないとどうにか堪える。起き抜けの人間の神経をここまで適確に逆撫でできるのもある種の芸だろう。どうしようと言われても、こちらだってどうしようもない。というより何があってこうなったのかが一切分からない。


「っていうかさ、兄さんなんだよな。首だけだけど、顔はあるけど、本当に」

「兄さんだよ。寺藤和紘かずひろ二十六歳、無職で独身で吸ってる煙草はマルボロの、お前の兄さんだよ」

「べらべらとさあ、そのなりでよくも口がそこまで……」

「駄目だったか」

「駄目じゃないんだよ、そういうことをこういうときにそういうふうに喋るあたりは兄さんだよ」


 本人確認が不本意ながら成立して、俺は目を伏せる。この状況で生真面目にふざけた軽口――本人にはその気は然程ないのだろうが――を叩けるのは、確かに俺の知っている範囲では兄ぐらいしかいない。そして見ず知らずの他人の生首が枕元に立っているのも嫌だが、身内が生首だけになっているのも当然のように嫌だ。

 兄は首だけという有様のくせに、いつもと変わらないへらへらとした笑みを浮かべている。三白眼気味の両目はじっとこちらを見ているが、特に悲しげな色やら戸惑いの気配などの細やかなあれこれは俺には見出せそうにない。僅かに眉根が寄っているのは、本人も困惑しているということなのだろうか。その割に右端にほくろの添えられた薄い唇はにんまりと吊り上がっている。二割ぐらいはこの状況を楽しんでいそうなのが腹立たしい。

 ――俺が切り落としたとか、そういうのはないよな。

 最悪の状況ではあるが、常識的には一番あり得そうな可能性がようやく頭に浮かんだ。周囲を見回す。床と絨毯にはそれらしいシミや汚れはない。兄の乗ったローテーブルには昨晩の狼藉の名残空き缶の群れと汚れた皿が鎮座している。包丁や鋸といったその手の修羅場の標準装備であろう分かりやすい刃物も見当たらない。恐る恐る自分の手に視線を向けるが、秋の淡い日射しにぼんやりと照らされている生白い肌には何の痕跡もない。指に火傷跡はあるが、これについては覚えがある。起き抜けの寝ぼけた頭で煙草を吸っていたときに迂闊に指を滑らせてできたものだから、思い出さない方がマシな類のものだ。

 ――人の首を落としたんなら、もっと散らかしてるはずだろ。

 阿部定じみた真似をしたならば、いかに泥酔していても被害者は相当暴れたはずだ。ならば多少の痕跡はあるのが常だろう。ましてや俺にはその手の経験は一切ない。義務教育でアジだかサバだかの三枚おろしをこなした覚えはあるが、だからといってその数倍の丈と重さのある人間の首を何事もなく落とせるわけがない。よしんばその場のノリと酔いの賜物でどうにかやり遂げたとして、ここまで完璧な後始末――肉片どころか血のひとしずくも残さないような所業だ――などできるはずがない。

 だが、事実としてその類の惨劇の残滓じみたものはこの狭い部屋の中には見当たらない。昨晩の家飲みの残骸と、生首ひとつ。さして広くも狭くもない、学生向けアパートの1Kの一室からは、胴体だけが綺麗に消え失せている。


「俺も潰れてからのこととか全然覚えてないんだけど、明け方に玄関の開く音はしたんだよな。あのときはお前が煙草買いに出たかなんかしたと思ったんだけど、よく考えたら俺の胴体が出てったのかもしれない」

「確認とかしなよ、つうか横で寝てたろ俺、あんた床に転がってたんだから」

「まだ酔ってたからさあ、起きて確認すんのだるかったんだよ。つうかあれだね、だとするとそんときもう俺って首だけだったんだね」


 首だけでも酔いって持続すんだねとどうでもいいことを呟いて、兄が机の端でふらふらと揺れてみせた。

 何を聞いてもそれなりに答えてはくれるが、頭痛がひどくなるような内容しか返ってこない。そのくせ生首は特に危機感もないような呑気な口調と表情で、机の上で時折小さく跳ねるような動きをしている。物理的にどうなっているんだと聞こうとして、そもそもが首だけで動いている時点で生物的にあり得ないことが起きているのだということを再認識する。どうしようもない。

 全部見なかったことにして寝直そうかと半ば本気で考えて、足元でもつれているタオルケットに手を伸ばす。ざらざらとした布の感触に縋りながら、俺は悪あがきのような問いを投げる。


「……昨日、何してたっけ、俺ら」

「見りゃ分かるじゃん、飲んでた。俺の無職祝いで」

「馬鹿言ってんじゃないよ、つうかずっと馬鹿なことしか言ってないんだよあんた、年上のくせにさあ……」


『職場に行ったら誰もいないし上司も同僚も軒並み連絡がつかないから多分俺失職したし、とりあえず暇になったから久々にお前んとこで飲みたい』

 そんな馬鹿みたいな連絡が来たのが昨日の昼。九月の明るいくせに熱のない日射しの中でスマホ越しに聞いた兄の声はいつも通りに滑らかで呑気で、内容のとんでもなさを追求する気も失せた。


 午後の日が世界の縁に引きずり込まれ、夕闇のじりじりと濃くなり始めた頃に部屋のチャイムが鳴った。モニターを確認したらば呑気に手を振る兄がいた。招き入れれば両手に提げたエコバック――明らかに容量以上の荷物を詰め込まれている――を誇らしげに掲げながらのしのしと居間まで踏み込んできた。


「元気にしてたか」

「それ俺の台詞じゃないの」

「俺はずっと元気だよ。今日から仕事もしなくていいんだからもっと元気」

「大人の台詞じゃないんだよな、っていうかマジで無職になったの兄さん」


 俺の問いに晴れ晴れとした顔で頷く兄は浮かれた柄シャツ――黒地に大輪の緋牡丹が咲き誇っている――を着ており、その時点でこの人が現状に何の一片の憂いも持たずにはしゃいでいるということが分かり、俺は頭を抱えたくなった。

 外見で人を判断するのはよくない。そんな義務教育で習ったような基本めいた倫理を思い出す。けれども自分が失職した途端に馬鹿の量の買い物をして浮かれ切った派手な柄シャツを着て軽薄極まりないのに何の屈託もない笑顔を浮かべていられるような人間――しかも兄だ――をどう分類するのが適切なのかが俺には分からない。そんな外れ値イレギュラーへの対応など、ようやく現代社会を二十年生き延びた人間でしかない俺が知っているわけもない。

 従って俺は早々に思考も問答も何もかもを諦めた。飲みに来たのなら飲ませてやればいいし、一人が嫌だというのなら相手をしてやればいい。それだけのことだ。

 かくして日も沈み切らないうちから狭い居間で兄弟二人が顔を突き合わせて酒を飲み始めたという次第なのだから――発端からして、どうしようもないのだ。


 明らかに兄が買ってきた酒が二人分には過分な量があったのと、俺の部屋にもタイミングのいいことに幾らかの在庫瓶酒や缶酒があった。飲んで喋っているうちに時間は過ぎ、また比例するようにアルコールの摂取量は増加していく。互いによろよろとしながらそのあたりに潰れて――起きたらこの様だ。

 ――マジで何にも覚えてない。

 思い出せた過程には頭から尾っぽまで愚行が満ち満ちているし、肝心の箇所は泥のような酩酊に塗り潰されている。忘れていた方がマシだったかもしれない、飲み会の翌朝に抱く感想としては使い古された類の結論が出力されるくらいには、典型的で救いようのない失敗だ。


「楽しく飲んだのにな、ああいう家飲みなら何回やってもいい。っていうかお前が酒飲める年齢になってくれてめちゃくちゃ嬉しいのを噛み締めてるね、今」


 明らかに優先順位の間違った事象に思考を割いてはへらへらと笑う兄の生首を眺めて、俺は何度目かも分からない溜息を吐く。何でこんなことになったんだと自問を繰り返せど、答えはどこにも見当たらない。


 スマホが鳴った。

 画面には寺藤義晃よしあきの文字――叔父の名前が表示されている。

 なんで今?

 相手が誰かは知っている。俺の父の弟、つまりは叔父だ。同じ路線の隣の駅、そこから徒歩で十分程度のところに安アパートを借りて住んでいる。住居がそこそこ近いのと、小さい頃からそれなりに付き合いがあったのもあり、俺がこうして大学進学を期に一人暮らしを始めてからはたまに互いの生存確認がてら飯に行くぐらいの交流がある。かといって所詮は叔父と甥であり、そこまで頻繁に連絡を取っているわけでもない。何より前置きのメッセージもなしにいきなり電話が来るというのは珍しい。

 うっすらとした嫌な予感に苛まれながら、俺は通話を繋ぐ。


『ねえ明貴あきたかくん土曜日の昼間にいきなり悪いんだけど、信じてもらえないかもしれないけどまず話だけは聞いてほしいっていうか、俺んとこに今朝から胴体が居座ってて、殴りかかったりはしてこないんだけどでも馬鹿みたいに派手な花柄のシャツ着ててつうか首がないんだよね断面とかおっかなくて見らんないんだけど、どうしようこれヤクザかなっていうかこれって警察呼んでも俺罪とかに問われたりしないかなそもそも警察でいいのかな救急とかの方なのかなみたいなそのあたりも含めて俺どうすればいいのか全然分かんないんだけど、どうしよう、明貴くん』


 錯乱一歩手前としか思えない物言いだが、内容自体はシンプルだ。叔父の部屋に胴体――首のない人体が居座っている。どうするべきか分からない。助けてくれ。主張の骨としてはこのあたりだろう。

 なるほど普段であれば叔父の気が狂ったと判断して、父に相談して話を聞くか病院に連れていくかを考えるところだろう。ただ現在の状況からすると、恐らく叔父の頭はまともに働いている――つまりその状況が妄想や狂気のそれではなく、実在しているのだと俺は鬱々と確信してしまった。


 家に誰とも知れない人間、その首から下だけが侵入している。というか間違いない、恐らくは兄の胴体だろう。馬鹿みたいな花柄の柄シャツを着ていて、首がない胴体――そんな状況にある人体が複数あるような世の中など、早めに滅んだ方がいい。


 どうして叔父の家そんなところに胴体があるのかといえば、移動したのだろう。兄の首から切り別れて、このアパートを出て叔父の住まいへと向かった。一文無しの胴体に可能な移動手段といえば恐らくは徒歩だろうが、それも絵面が悍ましいことになるという問題さえ無視できるのならば、別に不可能ではない。電車で一駅、つまりは歩いてそこそこの距離ではあるが、平均的な成人の体力ならば十分に踏破できる。実際に俺も以前に思い付きで徒歩で叔父の住居に辿り着けるかと試したことがあるが、翌日には結構な筋肉痛に身悶えする羽目になった。それをあの首なしの胴体が歩いた――変な噂になってたらどうしようとの思考が過ぎるが、当然ながらどうすることもできない。目撃者の少ないことと、どうにか幻覚か気の迷いだと思ってもらえることを祈るしかないだろう。


「えっとですね、その、叔父さん」


 啜り泣きが聞こえる。無理もない。いきなり自分の家に浮かれた柄シャツを着こなした首なしの胴体が駆けこんできたら気が狂うまである。四十を過ぎた成人男性だろうが泣きたくなるのも当然だろう。


「そうですね、その、警察は一旦待ってもらえますか。これから俺と兄さんが行くんで、それから色々考えましょう。話したいことがこっちにもあるので」

『来てくれるの……? 俺の頭がおかしくなってるかもしれないのに……?』

「多分そこは大丈夫だと思います。保証しますし、そのへんを説明に伺います」


 すぐに向かいます、とだけ告げて電話を切る。これ以上話を続けて、下手な説明で混乱させるのもむごい仕打ちだろう。

 ここから駅まで十五分、うまく急行に乗れれば十分、そこから諸々合わせても、余程しくじらなければ叔父の住居に辿り着くまで四十分ぐらいだ。

 ――生首を抱いて電車に乗るのか。

 どこかのミステリ小説で見たような光景を自分が実演しなければならないということに、暗澹とした気分になる。とりあえず鞄に詰めて、絶対に顔を出さないように言い聞かせておくべきだろう。余計なトラブルをこれ以上増やしたくない。

 ベッドから降りる。とりあえず事態はそれなりに緊急ではあるが、顔ぐらいは洗っておきたかった。二日酔いそのものといった顔で電車に乗るのも、叔父に会うのも気が引けたからだ。この期に及んでそんな些細なことを気にしてどうなるのかと、俺はがしゃがしゃと髪を掻き回す。

 机の上に陣取ったまま、こちらを見上げる兄の首と目が合った。首を傾げるように僅か傾いてから、


「なんかあれだ、面倒をかけるね、本当」


 ごめんなと軽薄な声に僅かに気遣うような色を滲ませて、兄が前傾する。

 俺は黙って首を振った。

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