深海の呼吸

悠鬼よう子

第一部 鎮魂の海

第1話 限界の閾値

 夏の終わり、久遠くおん島の港は夕凪ゆうなぎに包まれていた。フェリーの甲板に立ち尽くす相川湊人あいかわ みなとは、潮の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、ゆっくりとタラップを降りる。久しぶりに見る故郷の海は、都会で乾いた心をゆっくりと満たしていく気がした。


 ――もう、限界だった。


 思い出すのは、あのビルの非常階段だ。終わりのない仕様変更、納期だけが迫るスケジュール表。誰かが切った見積りの尻拭いを、自分がコードで埋め続ける日々。深夜のサーバールームでエラー音と格闘し、明け方に出社した上司に「まだ終わってないのか」と叱責しっせきされる。

 そして――ついになぐってしまった。乾いた音。PCより重い肩の力が一瞬で抜け、会社の出口で背広のえりがやけに軽かった。

 

 駅のホームの端に立ち尽くし、頭の中は真っ白だった。線路の向こうに、夜の街の灯りがにじんでいる。飛び込んでしまえば楽になれるのか――そんな黒い衝動が、靴底くつぞこからじわじわと這い上がってきた。ふらふらと電車に乗り込むと、つり革につかまる手にも力が入らない。放心したまま通勤電車の窓際で立ち尽くすと、揺れる吊り広告の鮮やかな色だけが浮き立っていた。

 

『ようこそ、久遠くおん島へ――青い海とスキューバダイビングの楽園』


 ポスター中央には、透明な水の中でゆったりと漂うダイバーたちの姿。頭上から差し込む太陽の光が水面で揺らぎ、白い砂地をきらきらと照らす。カラフルな熱帯魚の群れが彼らの周りを舞い、遠くには神秘的なサンゴの森が広がっている。

 

 ――海……。


 その瞬間、胸の奥のびた鍵が、かちゃりと鳴った。

 

 * * *


 十五年前、何の疑いもなく海に飛び込んだ少年だった自分を待っていたのは、突然の空虚。足がもつれ、気づけば冷たい海が全身を絡め取り、底へと沈めようとしていた。必死に藻掻もがくも、声は泡となって消える。

 

 その時、自分に向かって差し伸べられた手――

 

 水中マスク越しから、年上の青年が必死にこちらを見つめていた。その真剣な眼差まなざしに、恐怖で凍りついた心臓が一瞬だけ熱を取り戻した。彼の視線の記憶だけは、不思議と今も鮮やかに胸に残っていた。

 

 それと同時に、海は安らぎと恐怖という両方を抱えた場所なのだということも思い知らされ、どちらも確かで、どちらも忘れられなかった。

 

 * * *


相川あいかわさんですね?」


 不意にかけられた声が、遠い記憶の海から、現実へと自分を引き上げる。気がつけば、潮の香りが混じる港の待合所。視界の隅で、日焼け止めの白さが頬に残る女性が立っていた。

 

「観光協会の水城みずきです。」

 

 彼女が差し出す名刺には、『久遠くおん島観光協会・地域資産マネジメント課 兼 不動産コーディネーター 水城みずきかなえ』と印字されていて、協会のロゴの横には、小さく「空き家・土地活用/島内案内」といった文字も添えられている。

 どうやら観光案内だけでなく、島の空き家や土地の管理、不動産の仲介・相談など、地域の暮らしや移住者支援にも、彼女は携わっているらしい。

 

 ぼんやりと余韻の中にいた湊人みなとの心が、徐々に波打ち際へ戻っていく――


「は、はじめまして。相川湊人あいかわ みなとです。……その、今日からしばらく、島に」


「聞いてます。民宿、やられるんですよね?」


 彼女は歩幅を合わせながら、駐車場まで軽やかに進む。


「せっかくなら体験ダイビングを目玉にしてみません? 最近はダイビング目的で島に来る観光客も多いんです。」


 「ダイビング……。」


 その言葉に、胸の奥に沈んでいた恐怖がざわめく。だが同時に、今度こそ自分で“あの海”と向き合いたいという思いも、どこかで芽生えていた。


「……実は、島のポスターに惹かれて戻ってきたんです。あの青い海を、もう一度ちゃんと見てみたくて。だから、ライセンスは取ろうと思ってたんです」


「いいじゃないですか。うち、提携のスクールがありますよ。明日、顔出してみます?」


 そう言いながら、かなえは湊人の顔をしげしげと見つめる。


「……あの、相川あいかわさん、じゃなくて――湊人みなとくんって呼んでもいいかな。千晶ちあきからよく弟くんの話を聞かされてたから、その方がしっくりくるんです。」


 思いがけない言葉に、湊人みなとは一瞬きょとんとする。


「姉ちゃんから……?」


「はい。私、中学のとき千晶ちあき先輩にずっと憧れてて――放課後、一緒に帰ったり、勉強を教えてもらったり……。いつも明るくて、でも誰より頑張り屋で、すごく素敵な人でした」


 かなえは少し息を整え、目を細める。


「今はハワイで結婚されたんですよね? 年賀状でそのことを知って、ほっとしました。……いろいろ不幸な出来事が続いていたから、ずっと心配していたんです。」


 急に静かになった潮風の中、言葉が少しだけ宙に浮いたまま沈黙が落ちた。湊人は視線を落とし、しばし何かを思い出すように海を見つめる。


「……そうですね。姉は強い人ですから」


 触れられたくない過去が、さりげない会話の隙間に滲む。だが、かなえはそれ以上深く聞こうとはしなかった。


「……ごめんね、変なこと言っちゃって。でも、また湊人くんが島に戻ってきてくれて、なんだか嬉しくて…」

 

 やわらかな余韻がふっと消え、二人は並んで駐車場へ歩き出した。さっきまでの親しげな雰囲気がどこか遠ざかり、互いに言葉を探すような静けさが流れる。

 

 車に乗り込むと、どちらからともなく小さな会釈えしゃくを交わす。

 

 エンジンがかかると、夏の終わりの空気が窓越しにそっと流れ込んだが、車内にはわずかな緊張が戻っていた。


  *

 

 やがて二人は、高台に建つ古い二階建ての家にたどり着いた。港から少し離れた場所で、木々の間からは青い海が一望できる。かなえが鍵を開けると、玄関の戸がきぃと音を立てて開いた。


「ここです。少し古いですけど、ながめは悪くないでしょう?」


 かなえが鍵を開けると、玄関の戸がきぃと音を立てた。しばらく人が住んでいなかったのか、障子のさんにはほこりが積もり、畳には潮風で乾いた匂いが残っている。


「風通しはいいので、窓を開けてみてください。」


 促されるまま窓を開け放つと、潮風が一気に吹き抜け、床板がかすかにきしんだ。光が差し込み、室内の空気が少し和らぐ。


 段ボールをいくつか居間の隅に積み上げると、かなえは古びた食卓を軽く叩いて笑った。


「家具は最低限しか残っていませんが、島の暮らしには十分ですよ。」


 湊人は窓辺に腰を下ろし、港からかすかに響く船のエンジン音に耳を澄ませた。


 十五年前、この島を離れてから戻ることはないと思っていた。けれど今、潮の香りと蝉の声に包まれながら、目の前に広がる海を見下ろしていると、確かに「自分の居場所」がここにあるのだと感じられた。


  *


 かなえが「賃貸契約書の控えのコピーは後日お持ちしますね」と丁寧に告げ、玄関先で軽く会釈して帰っていった。扉が静かに閉まる音が響くと、家の中には再び静寂が広がる。開け放たれた窓からは夜の潮風が吹き込み、白いカーテンがゆっくりと波打つ。遠くで寄せては返す波の音が、まるで胸の奥まで優しく沁み込んでくるようだった。


 湊人はリビングにひとり立ち尽くし、そっと小さく息を吐いた。


 十五年ぶりに帰ってきた、この海辺の町――その静けさと潮の香りが、確かに自分を迎え入れてくれているように思えた。湊人は小さく息を吐き、ほんのわずかな安堵と、これから始まる新しい生活への期待を胸に、窓の外の夜空を見上げた。

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