あんたを愛した桃太郎の記憶
うえ。
第1話 手紙の到着
ワシは家に帰ってきた。いつものように、ピアノの前を通り過ぎようとしたんじゃが、足が止まってしもうた。鍵盤カバーの上に埃がようけ積もっとって、夕方の光で小さな山みたいに見えるけー、何となく指で一筋の線を引いてみたら下から白いプラスチックが顔を出して、まるで長いこと眠っとった子が目を覚ましたみたいにワシを見上げとった。
その時、携帯が鳴った。会社からの着信じゃ、またどうせ残業の依頼じゃろうと思いながら着信音がなぜかピアノの和音に聞こえて慌てて切ったんじゃが、3年前の最後の日以来誰も触れとらん鍵盤が、まるでワシを見つめとるような気がした。
「また残業かいのー」とワシはため息をついてカバンを玄関の床に置いた。さっきの着信音を思い出して首をかしげながら、単調な電子音のはずなのになぜかドとミとソの和音みたいに聞こえたことを不思議に思うた。
「あれ?今の音は...」と呟きながら冷蔵庫から缶ビールを取り出していつものソファに座った。テレビをつけても画面の内容が頭に入らんので視線は自然にピアノの方を向いてしまい、黒い木目の表面に薄っすらと埃が積もっとるのを見つめとった。
「もうこんなに埃が...」と言ってから、ワシは色々なことを思い返しとった。27歳の誕生日から一週間が過ぎたこと、毎日同じ書類整理と同じ電車通勤の日々が続いとること、保険会社の事務員として働いとるワシの生活が朝8時半から夜7時まで、たまに残業があって給料は悪くないけれど、誰から見ても安定した生活じゃったこと。
でも、とワシはビールを一口飲んでまたピアノを見た。子供の頃から家の隅にあるアップライトの、白と黒の鍵盤が埃の下で静かに眠っとる様子を眺めながら、昔は毎日この前に座っとったのに今では通り過ぎるだけの家具になってしもうたことを思うた。
玄関の方でがさがさと音がした。郵便受けから封筒が一枚ゆっくりと落ちてきて、分厚い茶封筒で差出人の欄に見慣れた几帳面な文字が書かれとるのを見た。
「お父さんからの手紙?死んでから半年も経つのに」と言いながらワシは封筒を拾い上げた。宛名は確かにワシの名前で、裏を見ると「27歳の誕生日を過ぎたら開封すること」というお父さんの字があることに気がついた。
「弁護士さんが『27歳の誕生日を過ぎたら』って言っとったのはこれかいのー」と呟きながらワシは封筒の重さを手のひらで確かめた。手紙だけにしては重くて中に何か別のものも入っとるようじゃ。
夕方の薄暗いリビングで、いつものアパートのいつもの時間に、ワシは今日も素通りするはずじゃったピアノの前で足を止めて埃の線を引いた指をじっと見つめとった。さっきの携帯の着信音がまだ耳に残っとって本当にピアノの和音みたいに聞こえたんじゃということを考えとった。
電気をつけて封筒をそっと開くと中から出てきた紙は少し黄色くなっとってお父さんの几帳面な文字がびっしりと書かれとった。リビングの隅でピアノが静かに立っとって、まるでワシとお父さんの間に立つ証人みたいじゃった。
コーヒーを淹れることも忘れてワシは手紙を慎重に広げた。部屋にはワシの心臓の音だけが響いとって、最初の一行に目が留まり『あんたに最初に伝えたいことがある』という文字を見た時、ワシの手がかすかに震えた。
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