石に刻まれるもの

 石には名を刻めない。


 仕事には従事するし、それを矜持だとも思っている。だけど、俺が削るこの石には、俺の名前は刻めない。


 それでいいと思っていた。資料なんかに名前が残るより、俺が覚えていれば、それでいいと。


 けど違った。俺が生きた証を、どこかに刻みたい。


 石に名前は刻めない——けれど。




   1

 神の家は石で造られる。


 着工の日、俺たち石工はひとところに集められ、これから始まる工事について説明を受けていた。工期は不明だが、教会を造れるなんて名誉な仕事だ。それを受けて、みんな目を輝かせていた。


「なあ、レオン、見ろよ」


 隣で司教の話を聞いていたパウルが俺を小突く。そちらを見てみると、神父が二人、何やら話している。


「司教殿は何をお考えなのか……」

「シッ。聞かれるとまずいぞ」


 彼らの視線の先には司教がいた。どうやら、この司教は二人の判断にそぐわないことをやらかしたらしい。何とも面白そうな話である。俺は司教の話やこれから造る教会の話には構わず、二人の司祭の話に聞き耳を立てた。声をひそめているつもりなのだろうが、それほどでもなかった。


「しかし、あの男を野放しにしておくのは……」


「彼は教皇直属なのだ、私たちがとやかく言えることではない……この教会とて聖下のご意向なのだろう?」


「唆されているのだ。そうに違いない……」


「ありえる話だ。ああも美しいのだから、悪魔に魂を売っていても不思議ではない……」


 あの男、について話しているらしい。教皇直属、ということは聖職者か。悪魔に魂を売ったと思われるほどに美しく、聖下に直接言葉を投げかけられる立場にあり、俺たちがこれから建てる教会を造るよう聖下に進言した。なるほど、面白い。


 俺は同じく聞き耳を立てていたらしいパウルと顔を見合わせ、その美しい男を探して一帯を見渡した。


 男は、驚くほど呆気なく見つかった。この場で最も——否、俺が今まで出会った人間の中で、最も美しい存在だったからだ。


 異国を思わせる褐色の肌。砂金のような黄金の眸。黒檀を梳ったような髪、薄く形のよい玉唇、所狭しと生えそろった重たげな睫毛。完璧な角度の鼻梁と眉。すべてが完全で、きずひとつない。この世の美を集めてかたちにすれば彼になるだろうとさえ、思った。背が粟立つほど、怖気を覚えるほどの、暴力的な美しさ。


「パウル……」


 俺は思わず隣のパウルに声をかけていた。指さしたほうを見て、彼は俺と同じように言葉を失う。


「悪魔に魂を、か……事実だろうな」

「お前もそう思うか」

「ああ。でなきゃあの人こそ御使いだ」


 司教の説話が終わり、俺たち石工は持ち場につくことになった。パウルと俺は基礎部分の担当に割り当てられ、他の奴らと合流した。


「なあ、見たか? 浅黒い肌の神父」


 パウルがそう尋ねると、奴らはそれぞれ近くの奴と顔を見合わせて不思議そうにする。


「そんな人いたか?」

「いなかったよな」

「はあ? いただろ、隅のほうに……司祭たちも何か話してたし、レオンも見てたんだぞ。なあ?」

「聖下に教会を造るよう進言したらしい。司祭たちはそれに不満があるみたいだった。ついでに、司教様もあの男を野放しにしていると愚痴ってたな」


 聞いたか、と再び顔を見合わせ、首をひねられる。他の石工はずいぶん真面目に司教様の話を聞いていたようだ。俺はパウルとこれ以上は無駄骨であることを目配せしあい、ため息を吐いた。


 俺とパウル以外には、あの司祭の美しさを想起することもできないらしい。もったいない話である。


「このへんの人じゃないから気になったのか?」

「違う。彼は……黒かったが、御使いのようだった」


 仲間たちの反応はさまざまだった。鼻で嘲笑う奴、疑う奴、そして——


「——あの人か?」


 見間違うはずもない。烏の濡れた翼の色をした髪、夜に輝く満月のような色の瞳。すべてが完璧なあの人。


 パウルは興奮して俺の肩を叩き、他の奴らは陶然と彼に見惚れた。俺たちの言葉を信じるようになったのか、仲間たちは声をひそめて口々に謝ってきた。


 すると、四旬節でもないのに紫色のカズラを纏った彼は、俺たちに視線を向ける。長い睫毛にけぶる瞳が、俺を捉えた。


「こんにちは。みなで集まって、なんの話を?」


 彼は俺たちの元までやって来たかと思えば、親しげに微笑む。甘く伸びやかな声色でさえ、彼の美に寄与しているように思えた。


 剃髪していないのに、祭服を身に纏っている。俺は教会を造るという仕事上聖職者とはよく会ってきたが、トンスラではない聖職者には初めて会った。昔はどうだかよく知らないが、確か今は全ての聖職者に強制されているはずだ。だが彼の髪は短い。世俗の人間なのか聖職者なのか、どうにも判別しにくかった。教皇直属なら、何かの功績で許されているのかもしれないが。


「あなたの話を」


 俺は黙りこくるパウルたちに代わって答えた。皆はぎょっとして俺を見たが、俺は構わなかった。なにを後ろめたいことがあるだろう。


「私の? それは興味深い。あとで聞かせてください」

「ええ、もちろん」


 微笑みを深める彼に、笑顔で返す。


 それから、近距離で見る彼の彫刻的な美しさに惚れ惚れとしているパウルたちを小突き、持ち場に移った。




   2

 着工して数週間が経ったが、あの神父は毎日飽きもせず現場を訪れては、石工と言葉を交わしている。


 最初は不気味なほど整った見目と高貴さを窺わせる所作に皆も萎縮していたが、彼の親しげな口調と優しい声音に絆された人間は多く、俺もまた、その例に漏れてはいなかった。


 教会の尖塔に付ける装飾部分を鑿で削っていると、ふと影が落ちる。振り返らずとも、誰かがわかった。それほど頻繁に、彼はここを訪れているからだ。


「あんたも懲りないな、ヨハネス神父」

「おや。声をかけずともわかってくれるとは」

「毎日来るのなんてあんたくらいだよ。司教様でさえ、多くて二週に一度だってのに」


 ふふ、と微笑む彼は、世俗に暮らしていたら数多の少女を虜にしてしまうだろうと思わせるほど美しい。事実、現場に差し入れに来ているパウルの妻も、街の娘たちも彼に目を奪われていた。上品な仕草と対応のおかげで、男どもの顰蹙を買うことはなかったけれど。


「神父サマには、そんなに見るものがあるんだな?」

「あるとも」


 俺が振り向いて馬鹿にしてやると、神父はすぐさまそう答え、他の作業をしている石工たちを見渡した。


「人々は敬虔にも祈りながら仕事に従事し、神の家は毎日完成に近づいていく。これほど美しい変化を見る機会をみすみす逃すなど、私には理解できない」

「司教様の悪口か?」俺は笑った。

「秘密にしてくれ」


 白絹に包まれた人差し指をあてがい、薄い唇を横に引く。こうやって気取ったしぐさをすると、娘たちが熱を上げるのもわかるような気がした。気障になってもおかしくないのに、全く嫌味に感じない。


「にしても、あんた他に仕事はないのか?」

「失礼だな」軽く笑う。「日曜日にはしっかりミサの手伝いをしているよ」

「あんたを見かけたことはないけどな」


 俺は鼻で笑ってやった。俺たちが暮らす教区にある教会で、ヨハネス神父の姿を見かけたことはない。毎週日曜にミサに出かける俺が、一度も、である。


 実際に彼がなんの仕事をしているのか、それなりに親しくなった今でも聞けたことはない。司祭の格好をしているのだから、神父としての勤めを果たしているはずだ。だがこの作業場で見かける以外に、彼の姿を見たことはなかった。


「司祭なんだから、ミサの手伝いだけじゃないだろ?」


 俺が記憶しているところでは、司祭の仕事は平日と土曜に一日一回のミサと、日曜に一日二回のミサ。それと一日五回の聖務日課。会議や体の悪い信徒の元への訪問などを含めれば、それなりに忙しいはずだ——元々は俺も修道院にいたので、その手のことには他の奴より詳しい。少なくとも、司祭が毎日、物見遊山をしにくる暇などないことは知っている。


 神父は俺の言葉に少しだけ驚いたようで、わずかに目をみはると、口元に手を当てて小さく笑い出した。


「君は物知りだな。だが私は、聖下からお声がかかるまで、暇を持て余しているんだ」

「なんでだよ?」

「私にしかできない『仕事』があるのでね」

「はあ?」


 仕事。ということは、御使いではないのだろうか。彼が仮に天使であったなら、余暇も全て人を救うことに費やすだろうし——仕事という言い方もしないはずだ。役目とか、使命とか、そういう言葉になるだろう。


「特命全権大使とかか?」


 教皇は国の代表者に対し、学識者や有能な外交官を特使として派遣することがある。特命全権大使は教皇の分身であり、その発言は教皇のものとなる。司祭が任命されることなどないはずだが。


 訝しんで眉をひそめる俺に、彼は愉快そうな微笑を浮かべる。どこか悪そうな雰囲気に、天使じゃないな、と思った。なら、あの司祭たちが噂話をしていたように、悪魔に魂を売っているのかも。


「異端審問官だ」

「は……」


 俺は身を硬くした。異端審問官がどんな仕事か、修道院から脱落した俺だって知っている。罪を犯した者を審問する聖職者。審判において、被告に判決を下す者。教皇に派遣される異端審問官と言えば、グレゴリウス九世が十年前に至る地域へ派遣した托鉢修道士が有名だろう。俺たちが暮らす教区にもドミニコ会士が来て、徹底的に異端を排除するため、組織立って何度も審問をしていた。


 しかし、だとすると、やはりおかしい。


 教皇審問は托鉢修道士を派遣するもので、彼らは聖職者の例に漏れず、トンスラをしている。剃髪していない司祭など聞いたことがないのだ。


「どこの修道会の神父なんだ、あんた」

「便宜的に司祭の職位を授かっているだけで、本業は異端審問のほうなんだ。故に、修道会にも教区にも、所属していない。君は本当に詳しいんだな」

「昔、修道院にいたんだよ。俺のことはいい。あんた……いったい、何者なんだ」


 俺は鑿を持つ手に力が込もるのを感じながら、彼を睨みつけた。悪魔に魂を売ったのだとしたら、俺が、この男を——異端として、告発しなければならない。


 わずかに震える俺の手をめざとく見つけ、彼は金の瞳をすうと細めた。値踏みするような、底冷えのするような視線が、やけに痛かった。


「私は異端を殺すもの。この世ならざる悪霊の全てを滅ぼす、主の雷霆いかづちだ」


 逆光のなかで、その黄金が強く輝いた気がした。




   3

 彼をもっと知りたい。


 俺は、いつしかそう思うようになっていた。


 ヨハネス神父は謎めいて、どれだけ仲良くなったと思っても、付き合えば付き合うだけ疑問が出てくる。修道会に属さず司祭の仕事に就ける理由とか、教皇聖下のお声がかかったときだけ動く理由とか、あの日に深く聞けなかったことは全て、今でも聞けていない。


 酒場は賑わっている。安息日の前の日、酒を飲んでみんなで騒ぐのは、この世の何よりも楽しいことだ。


 俺は酔いつぶれたパウルを介抱してやりながら、彼のほうに視線をやった。まさか、彼がこんなところにまで足を運ぶとは。もっと世俗との関わりを絶っているものだと思ったのに。


「神父様は飲まないのか?」

「そうだぞお、フランツは飲んでたのに」


 パウルは俺を挟んで隣に座る神父に身を乗り出し、ビールの入ったジョッキを掲げる。フランツというのは、工事の初日にヨハネス神父の噂話をしていた司祭二人の片方の名だ。あの男はほとんど還俗しているようなもので、たびたび泥酔するまで飲んで処罰されている。懲りない男である。


「酔わない性質たちでね、飲んでも無意味だから」

「ほんとかよ? 実はすっげえ弱いんじゃないのか?」

「本当だとも」

「見せてくれよ」俺は笑って言った。

「俺も見たい」


 パウルが勝手にビールを追加し、カウンターにドンとジョッキが置かれる。神父は困ったように、しかし愉快そうに笑い、それを持ち上げた。


「では、見ていたまえ」


 言うが早いか、ものすごい勢いで一気に飲み干してしまう。パウルと俺はぽかんとその様子を見ていたが、俺より先にパウルが拍手する。


「すげえ」

「まだだろ、酒が回るまでわからん」

「その通り。レオンはまだ酔っていないようだな」

「牢にぶち込まれたくないからな」


 ドイツは酔っ払いには厳しい。牢屋に入れられるだけならまだ軽いほうで、罰金を支払ったうえで晒し者にされる可能性もある。


 聖職者は特に、舌がもつれたりして聖歌に参加できなくなったら飯抜き、泥酔が習慣化したら免職だ。修道院では滅多に酒なんて飲めなかったが、それだけは教えられた。


 酒場は賑やかで、どっと笑いが起こったかと思えば、怒鳴り声も耳に届いてくる。俺は怒鳴り合う二人の男を一瞥し、ビールを舐めた。


「喧嘩かあ?」パウルも振り返る。

「そのようだ。少し行ってくる」

「あ、おい! あんたが行ったところで——」


 神父は立ち上がると、二人の元へ歩いていき、声をかける。喧騒にかき消されて何を言っているかはわからなかったが、落ち着き払ってはいるようだ。当然か。彼が声を荒らげているところなど、想像できない。


 片方の黒髪の男が、もう片方の茶髪の男を指さして罵っているらしい。茶髪も殴りかかろうとしているが、連れ合いと思しい男たちに止められている。


 神父は二人のあいだに立って何やら説法めいたことをしていた。しかし、次の瞬間——彼の体が吹き飛ぶ。茶髪に殴り飛ばされたのである。


 それを皮切りに、茶髪が制止を振り切って黒髪を殴りつける。机もひっくり返ってしまい、乱闘の様相を呈し始めてきた。酒場の主人のため息が、カウンターの向こうから聞こえてくる。


「何やってんだよ……」


 俺は立ち上がり、神父が立つのを手伝ってやった。彼の口の端には血が滲んでいて、彼の血も赤いのだ、と思った。主の御使いだと、自分で申告したのに。


「大丈夫か? 神父様なんだから、あんな酔っ払いの喧嘩なんかに首を突っ込むモンじゃない」


 あんなに当然のように割って入ったのに、殴られて仲裁もできやしないのだ。なんだかおかしくなって、ふはっと吹き出してしまう。


「あんた、まるで俗人だな」


 神父は——ヨハネスは肩を震わせる俺を普段通りの無表情で見つめていたが、すぐ同じように吹き出した。あの日見せた底冷えのする瞳、嘲りのような笑みとは違う、見た目通りの、若者らしい笑い方だった。


「私は俗人だよ」

「在俗司祭じゃないんだろ、俗人なもんかよ」

「違う」口元が歪む。笑みと、別の何かに。「私は、そう清らかなものじゃない」


 言葉の選び方が、少し違った。堅苦しくなく、女性的でもなく、若い——俺より年上に見えるのに。


 笑っているのに声は弾まない。ヨハネスは一瞬だけ息を詰まらせた俺を見て、わずかに失望したように、寂しげに眉を下げた。


「すまない、言葉を誤ったらしい。私も、みなと同じ人間だということさ」

「あ、ああ……そりゃ、そうだろ。酔っ払いの喧嘩に勝てないようなら、俺たちみたいな人間に決まってる」

「ふふ、ああ——そうだな」


 司祭服の裾についた汚れを払い落として、彼は目を伏せまた笑う。今度は落ち着いた、老練な微笑だった。


 彼のような男が、悪魔に魂を売るはずがない。俺の心にはいつしかそんな確信が居座っていて、天使だという噂話にも、たったいま嘘である烙印が押された。天使でも、悪魔でも、悪魔の誘惑に負けた人間でも、なんでもないのだ。彼は、俺たちと同じ。


 カウンターへ戻っていくと、パウルはとっくに酔い潰れて伸びていた。俺とヨハネスは互いに顔を見合わせ、仕方のない奴だな、と声を合わせて笑いあった。




   4

 石工としての最後の仕事だった教会造りから退き、俺はケルンの自宅で床に伏せっていた。


 火災で消失した先代の代わりに建てられた大聖堂は、俺が生きているうちには完成しなかったようだ。残念だが仕方ない。建築に携われただけで、働いた甲斐はあった。


 パウルは俺より先に病で亡くなり、ヨハネスは——


「今日はどうだ、レオン」


 司祭服を着た男が、がたんと音を立てて家に入ってきた。俺は体を起こし、彼が手に取った水差しを受け取る。ヨハネスは毎日のように俺のところへ来ては、俺を気遣っているのだった。


「今日は、調子がいい」俺は水を飲んだ。「大聖堂はどんな感じだ。進んでるか」

「ああ、進んでいる」


 年老いた俺をやわらかな眼差しで見つめ、水差しを俺の手から受け取って傍らの机上に置く。寝台のそば、窓を開けて、換気をしてくれる。


「それにしても、あんた……やっぱり、神の使いなんだな。もう二十年は経つのに、ちっとも変わらない」

「そうか?」

「俺を見てみろ、もうジジイだぞ。俺は人間で、変わらないあんたは天使に違いない」

「なら、そうかもしれないな」


 ヨハネスは笑って、部屋にあった椅子を引きずって持ってくると、寝台のそばに腰をかけた。


 ここのところ、俺の死期でも悟ったのか、彼はこうして毎日俺の家を訪れて長い話をしてくれる。話題はさまざまあって、ケルン大聖堂の建築現場で起こっていた面白い話とか、パウルが言っていた俺の悪口——もちろん、笑い話にできる範囲の——とか、そういう他愛ないものばかり。それが、何より嬉しかった。


「あんたは……」


 ふと、俺の口をついて言葉が出た。何かを言おうとしたわけではなかったが、なぜか自然と転がり落ちたものだった。ヨハネスは黙って続きを待っている。


「……あんたが、本当に天使だとして」


 俺は、ヨハネスを天使ではないと思った。確かに、そう思っていた。けれどこんな奇跡を見せられては、揺らいでしまうというもの。二十年経っても二十歳やそこらの容姿を保てる人間など、いるものか。


 だから、聞きたいことがあった。


「俺やパウルに姿を見せたのは、なぜだ?」


 着工の日、聖職者を除けば、俺とパウルだけが彼を見つけられた。あれだけ美しく、目立つ顔立ちをしているのに、俺たちだけが。


 ヨハネスの唇がほんのわずかに震えたが、すぐさま引き結ばれる。彼は何を口にするべきか、悩んでいるようだった。何か、神のことばを持っているのかもしれない。あるいは、真実を話すのが怖いとか。いや、ヨハネスに限ってそんなことはあるまい。彼はいつでも、伝えられることを簡潔に伝えてくれる男だ。


「偶然だよ」

「あんたは、天使じゃないのか?」

「……ある意味では、天の使いだとも。だが君たちの信じる神の使いではない。だから……偶然なんだ」


 声が、明らかに迷っていた。何を言うべきか、俺にどこまで明かすべきか。友人にも言えないことはある。それは理解できる。だが、俺は。


「元から、みなに見えていた。だがあの場では、君が最初に、私に気づいた。それだけの話なんだ」

「そんなに目立つ顔をしてるのに?」

「……わかった。白状しよう。すべて話す」


 ヨハネスは深く深くため息を吐いて、寝台の向こう、窓から見えるライン川に視線をやった。


 それから沈黙が下り、俺は静かに彼の続きを待った。今までで一番、続きが気になる話だった。


「私は、父の使いとして彼方から降り立った。ヒトを摸し、ヒトをみている、ただの異邦人なんだ。そして」

「そして?」

魔法使いメイガスでもある」

「はあ?」


 俺は間抜けな声をあげ、心底意味がわからない、という感情を前面に押し出して顔をゆがめた。聖職者であれば、魔術を使うなど容易いだろう。少なくとも、修道院ではそう習った。しかし、魔法使いメイガスとは?


「見ていてくれ」


 ヨハネスが手を握り込む。開けば、透き通った拳大の水晶が手のひらに鎮座していた。俺はまず驚き、それから慄いた。これが、魔術なのか。俺の知っている魔術と違う。薬草を煎じて薬を作るとか、そういうのだろ、魔術って。


「私は、主の御業を地上で代行するものだ。だから、教会の再建を見守っていた」

「御業で、教会を再建しようってのか?」

「必要があればね。だが、君たちを見て考えを改めた。神の家は、人間きみたちの手で造られてこそ輝く」


 俺の手に水晶を握らせて、ヨハネスは優しく微笑む。君たちの手で、と言ったこの男の言葉通り、彼は作業場に現れることはあれど、手を出すことはなかった。


 ああ、しかし、彼が御使いならば。


「あんたに見守られて神の家を造れたことを、俺は、誇りに思うよ。……ヨハネス」


 ヨハネスはほんの少し言葉に詰まって、黄金の瞳をわずかにみはり、揺れる目を細めた。


「私も、君のような石工がいたことを、ずっと覚えている。レオン・バルツァー。我が友よ」


 そう言って、彼は俺の手を取った。


 それだけで穏やかな気持ちになって、俺は目を閉じ、浮かぶ微笑に身をゆだねた。もう雪は溶けつつあり、春の訪れを予感させる風が、窓から入ってきていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎日 21:00 予定は変更される可能性があります

魔法使いの天球儀 早蕨足穂 @sawarabitaruho

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る