第2回 岐阜県土岐市の高山城:許すまじ水道設備工事と森長可!

 土岐市の市街地を見下ろす立地にある高山城を訪れました。この城の最大の問題点は中心部分に水道設備(貯水場)が建設されてしまい、遺構が破壊されてしまっていることです。

 自分のような素人の目には残っているかもしれない戦国時代の部分と、工事で造成された部分の区別がつきません。しかも、主郭部はフェンスに囲まれていて端まで近づきにくくなっています。

 北にある祠の方からフェンスの外に出れて、一回り外側に巡らされた古いフェンスの際までは行けるのですが、安全そうな祠周りだけを観るのにとどめました。その辺りの縁は急傾斜になっていて、とうてい下から登れそうにはありませんでした。古くからの切岸だったのでしょうか。

 森林管理支援情報MAPでみると主郭部分から竪堀のような溝が放射状に伸びていて、これが自然地形だとしても横移動を防ぐ効果があったと思われます。



 とりあえず大きく変化していないであろう立地について見ていきます。尾根の側からつく駐車場のあたりが三の丸とされていて、そちらの攻撃の防壁になっています。看板にある昭和三十一年に描かれたスケッチでは二の丸が一の丸の西側に少し段を低くして張り付いている状態だったようですが、現状ではよくわかりません。

 三の丸と一の丸の間には段差があり、石垣で補強されていますが、この石垣は戦国時代にはなかった「落し積み」でした。綺麗に成形されていることからも当時のものでないことが明らかで親切ですらあります。

 二の丸の北の方に出丸があり、そこから西に降りて行く道が大手道だったようです。それが出丸かは分かりませんが、伝井戸の西側に突き出した部分があり、他の場所よりも傾斜が弱そうです。それでも道は狭く大軍が攻め上がるのは難しいと感じます。


 尾根側は駐車場につく前にいったん登って、少し降りてから至ることが印象的でした(ただし道は改変されていると思われます。車道に高まりが切られて土壁になっている部分がありました)。高山城のプランでは高所を完全には囲い込めず、鞍部(堀切?)の北側までを防衛ラインとした印象です。

 防御のための細かい構造は工事のせいでわかりませんが、尾根側からの攻撃に対しては三の丸の存在で厚みを確保しています。



 そして、看板やパンフレットによれば、ここで七百人の守備兵が立てこもり八百人の戦死者(おそらく敵味方あわせて)が出るような戦いがあったらしいのです。

 七百人は相当多くて、広い曲輪もしっかり守れそうです(ただし、今回見学していない第二砦が東の峰にあるらしく、そちらを含めての防衛兵力でしょう)。

 基本的には切岸で敵を寄せ付けず、狭い大手道に兵力を集中して守って、時間を掛けて山を登り三の丸に迫ってくる敵には豊富な戦力で出撃して撃退する。三の丸に入られたら、そこをフィールドにして、もう一戦を挑む。

 そういう戦い方をしたのではないかと夢想しました。

 まぁ、何度も落とされた城なんですけどね(記録にあるのは二回。脅され退城したのを入れれば三回。他に高山氏の城主断絶時に狙われたこともあるが、陥落してはいない?)。



 東側の谷に降りたところにある穴弘法は涼しくて夏は過ごしやすいです。今より寒冷だっただろう戦国時代の冬は……。降りる道の湿気の多い壁面にびっしり生えた苔には珍しいものがありそうと感じています。



 なお、地元の公式サイトに載っている復元想像図では、今回訪れた部分と東の峰にある第二砦で穴弘法のある谷を囲み、谷の出口は柵と門で封鎖する構造になっています。

 まるで朝倉氏の一乗谷の小さい版と言った雰囲気です。一乗谷ほど知名度はありませんが、八上城も似た構造だったはずです。

 高山城を含めて、どの城も囲まれた谷の方向が南北を向いていることが興味深いと思います。日照時間が東西の山に遮られて短くなっても、太陽が低くなる冬の時期にまったく日の当たらない場所ができる東西方向の谷よりはマシなのかもしれません。


 高山城一の丸にある井戸だけで七百人の喉を潤せるか疑問だったのですが、谷を防衛ラインの内側に取り込んでいたなら納得です。谷口の守りを突破されて山上に退却することになったら、その時には兵力が減っていて、一の丸の井戸でも養えるという冷徹な計算もあったのかもしれません。

 地図では第二砦のある山は西側に深い谷が切り込んでいるのと、北東にも尾根が分かれて伸びているので、実際の高山城全体の構造は復元想像図よりも複雑になったと思われます。



 日を改めて復元想像図の谷が遮断されている場所のすぐ外側にあった南宮神社の辺りにも行ってみました。南宮神社側からみた高山城の主郭部分は見上げるようで、とてもまっすぐ登れそうには見えませんでした。

 ただし、谷側に回り込んで巻くように登っていく後世の道がありそうにも見えました。復元想像図では道のある出丸からまっすぐ西に降りた辺りは道路にフェンスが立てられていて山に入れそうもありません。


 谷の出口を遮断していた痕跡は後世の撹乱で見つけられそうにないです。穴弘法の駐車場の土手がそれっぽく見えてしまいますが無関係でしょう。

 ただ、前の通りから穴弘法に入っていく道が二回折れ曲がっているのは防御を考えた構造が残っているのかもしれません。

 谷の平地は後世に造られたのであろう溜池の高山池を考慮しても広くはなく、建物が建てられても数軒でしょう。そういう意味では一乗谷のようにはなれません。



 過去の航空写真は1963年から確認できましたが、それでは問題の水道設備は確認できません。1991年出版の「美濃国・土岐庄【高山城の考察】」では「現在は貯水場があり立ち入りできない」と書かれていて、1990年の航空写真には南東に小さな建物があるらしきことから、これが問題の施設のようです。そこから遡ってみると、1975年の航空写真には既にこの建物があります。貯水槽自体は現在よくある地上の金属タンクではなく地下式になっていたのでしょうか。余計に地形の破壊が酷そうです。

 東の谷にある高山池は1963年から現在と同じサイズです。


 現在の城下には下街道の高山宿(宿としての成立は江戸時代ですが、街道はヤマトタケルの時代から存在したと言われている)があり、土岐川流域が一望できて戦略的に重要な立地(しかも多くの兵が駐屯できる)なので、近隣を通る軍は無視することができない。しかし、謀略無しで主郭部を短期間で落とすことは困難(谷を攻めても山の上に退却されるし、三の丸を南から攻めるのには抵抗を排除しながらの登山が必要)。

 敵が大軍でも少なくとも数日は足止めできるので、その間に救援が来れば助かるという計算だったのではないでしょうか。岐阜城(織田が味方の場合)・岩村城(武田・西軍が味方の場合)もそう遠くないわけで。


 ちなみに(江戸時代の二次資料「東濃天正記」によると)関ヶ原合戦後に妻木氏に高山城が攻められた時は九月一日未明から攻撃が開始されて九月三日未明に守備軍が落ち延びたようですが、もう援軍が期待できない状態なので撤退の判断が早かったかもしれません。それでも丸二日はもったとも言えます。



 自分がもし高山城を改修するなら――現在の土盛りを排除して旧来の遺構を復元したいです。現代の話。

 復元想像図で谷の南側の山が城に取り込めていないのは気になります。さすがにそこまでは規模を大きくできなかったのでしょうか。

 森林管理支援情報MAPでみると、それがしたければ最終的に現在の霊園まで規模を拡大することになりそうです。密度を維持したまま籠もるのに必要な兵力は三千くらいかな……?


 そういえば前回書いた今城では城主の帰農で命を取らずに許した森長可ですが、こちらの高山城では部下が城主の平井頼母を誘い出して騙し討ちにし嫡男も追跡して殺害させたという鬼武蔵のイメージにふさわしい逸話があります。

 ただし、平井頼母の最期には小牧・長久手の戦い後に森長可の弟、森忠政によって謀殺されたなどの諸説があるようです。



課題

・第二砦の踏査

・高山城の詳細な縄張図や復元図のある資料の探索


追記1

 妻木城跡・士屋敷跡発掘調査報告書に近隣の城として高山城の縄張図が載っているのを発見しました(133-134ページ)。第二砦部分は含まれておらず、現状の地形をケバ線で少し強調した感じです。出丸から大手道が下っていく様子が少し分かりやすいです。どうも民家の裏に出てしまう様子?

 これを見ると水道設備工事前に描かれたスケッチにも価値があるのを感じます……。

追記1の追記

 上記の縄張図の出典が「岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第3集(加茂地区・東濃地区)」であることを確認しました。やはり説明文に第二砦についての記述はありませんでした。

 代わりではありませんが、第二砦と城下町を含めた土岐高山城の立体パネルが存在するようです。どうも、お城関係のイベントで展示しているみたいです。どれくらい考証されたものなのか気になります。


追記2

 第二砦のある尾根に登りました。穴弘法の駐車場に近い灯籠の後ろにあるつづら折りの道を登ってみました。少し登ったところで右手側に壁面がえぐれた場所があり、農家の野菜貯蔵庫が崩落した跡か何かのように思えました。上にもう一段、陥没した部分がありました。道の左手斜面に抉れが連続しているように見えないこともなかったです。竪堀ではないと思いますが。

 道を登り切ると広い平場に出ました。草が生い茂っていて踏査はしにくいです。緑の支柱で造られた簡易ハウスの残骸みたいなものがあり、耕作に使われたことのある場所のようです。

 道端に吹き付けの茶碗が割れたものが落ちていました。技法的に明治以降のものでしょう。山道を進むと碍子や湯呑みも落ちていました。

 出た平場の谷を挟んだ向こうに森林整備用のセンターハウスがあり、霊場からそこまで砕石の山道が通じています。ただし、霊場側の入口が車が通れないように封鎖されていました。ハウスのウッドデッキは腐食していて乗ると踏み抜く危険があります。

 近くの看板をみるとハウスの北東に高山城第二砦が雑な楕円で示されていますが、茂みや樹木でそちらには近づきにくかったです。

 霊場までのダート車道を歩き、右に穴弘法の上流側に出る踏み跡あったので確認しました。粘土が試掘されたらしき場所の少し先で行き止まりになりました。

 地層に含まれていたこぶし大の轢がゴロゴロしていて、投石の弾には不足しない雰囲気でした。

 結局、自分の目にはハッキリした戦国時代の遺構は識別できませんでした。車道による破壊もあると思いますが、車道は尾根を避けて西側を通っているので、尾根上を歩いて調べれば何か見つかるのかもしれません。


追記3

 昭和39年(1964年)の「航空写真図 多治見市・土岐市・瑞浪市・笠原町・可児町・御嵩町」に高山城が写っていることを発見しました。しかし、既に水道設備が建設された後でした。大手道の部分に平場らしき白い部分が写っています。尾根を走る道路のルートが現在より屈曲していて違っていると思われます。見比べると現在の衛星写真でも古い道の痕跡が伺えます。

 第二砦のある峰は頂部が広範囲で平坦化されています。おそらく畑地。センターハウス北東の峰に大きな平地があり、そこから尾根を下っていく部分に連続する平場が写っています。段々畑なのでしょうが、曲輪っぽく見えてしまいます。

 あと、谷間に穴弘法関連の建物がちょこんと写っているのが可愛い。



参考文献

高山城と高山宿の歴史 https://www.tokitakayama.com/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%A8%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%AE%BF%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

ふるさと歴史探訪 岐阜県土岐市 高山城と下街道 高山城高山宿史跡保存会

美濃国・土岐庄【高山城の考察】 大杉緑郎 平成三年(1991年)

ぎふ森林情報WebMAP https://www.forest.rd.pref.gifu.lg.jp/shiyou/sinrinwebmap.html

ウェブで過去の地形図や空中写真を見る (Leaflet版) https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/?ll=35.356867,137.193964&z=18&data=history&t=gsiortold10

追記部分

妻木城 -妻木城跡・士屋敷跡発掘調査報告書- 土岐市教育委員会/(財)土岐市埋蔵文化財センター 2002

岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第3集(加茂地区・東濃地区) 岐阜県教育委員会 2004

土岐高山城についての説明パネルと模型 https://www.youtube.com/shorts/6AlpgQMOG24

追記3部分

航空写真図 多治見市・土岐市・瑞浪市・笠原町・可児町・御嵩町 多治見 東濃新報社 1964

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