真名千の城趾探訪メモ
真名千
第1回 岐阜県可児市の今城:見損なったぞ森長可くん
美濃地方、森長可にゆかりのある今城に行ってきました。美濃地方では本能寺の変の直後に現地領主が一斉に森長可に反旗を翻しました。今城の小池家継もその反乱に加わったのですが、あえなく森長可に鎮圧されて帰農することで許しを得たそうです。
「鬼武蔵の異名をもつ森長可なら撫で斬りなどの苛烈な処罰をするはず」との先入観と救済のある処置のイメージにズレが生じました。
この時はあまりに対応する問題が多くて、情勢が落ち着いてからも帰農した相手まで追い討ちをする気にはなれなかったと言ったところでしょうか?小池氏にとっては幸いでしたが、ちょっとガッカリしてしまいました。森長可の残虐性も武士として舐められない「ブランド」を創るためのもので、本意ではなかったのかもしれないと思ってしまったり……。
今城そのものは尾根の先端にあって、標高差的には丘城という印象でした。もっと大規模なら平城でもこれくらいの標高差はあるでしょう。規模もコンパクトで武士の館がちょっと山に登ったような形です。
それでも凄いのは先進的な防御施設である枡形虎口を持っていることです。ただし、私有地なので順路外の枡形虎口の中を歩き回ることはできませんでした。
なお、大手門の位置が江戸時代らしき大きな看板の絵地図では枡形虎口を通らない現在の経路と同じものになっていて、いろいろなところにある看板に描かれた香川元太郎氏の復元イラスト(可児市の今城パンフレットhttps://www.city.kani.lg.jp/secure/10134/imajou.pdfでも使われているもの)では枡形虎口を通るものになっています。
表向きは廃城になった後にも改変があったのでしょうか。(帰ってから確認したところWikipediaによれば小牧・長久手の戦いの際に詳細は不明ながら改修があったのではないかとされているようです。更に可児市の今城城パンフレットをみると枡形虎口も小牧・長久手の戦い時に整備された可能性が高いと考えられているようです)
伊賀地方に多いという「小規模すぎて実用性はないけれど設備で威信を見せる城」と今城は似ているのかもしれないと現地で感じたのですが、小牧・長久手の戦いでの改修だとすれば勇み足でした。
こうして正面は枡形虎口で固めているものの、本丸に立ってみると尾根続きの裏側への防備は、かなりお粗末に見えました。いちおう食い違い虎口にはなっていますが、裏側に対しては標高差がなくて、通路を兼ねた堀も時間の経過で埋まってしまったにしても浅いものです。
これでは人数と時間を掛けて攻められたら長期間の籠城は難しいと感じます。だから降伏して帰農したのでしょうか(改修前は現状よりも防備が弱かったはずです)。
もし守る側に準備期間と人手があったら尾根筋の遮断にもっと力を入れたのではないでしょうか。本能寺の変も森氏への謀反も小池氏にとっても急なことだったのだろうと、城をタイムカプセルに当時のリアルを感じました(思い込みも入っているかもしれませんが)。
小牧・長久手の戦いでも尾根線の守りが強化されなかったか、強化してあのくらいだったとしたら、前線からそれなりに離れていたせいでしょうか。ただし、今城は可児市の内では一番南に位置している城のようです。
枡形虎口が小牧・長久手の戦いにおける改変後の姿なら、現在の大手口が枡形虎口を通るものから変わっている改変を説明できないので、改変は少なくとも二回あったことになります。復元イラストではおそらく現在の大手道は竪堀として描かれています。
そもそも本当に小牧・長久手の戦いで改変されたのかと疑問に思わないでもないです。織豊系大名の陪臣だった小池氏に枡形虎口を造ることは本当に不可能なのでしょうか。枡形虎口が成立した年代と廃城の年代が合わないのでしょうか。
今城が一度廃城になる契機となった本能寺の変が1582年(ただし、「岐阜の山城ベスト50を歩く」では1570年に城主の小池氏が退去させられたとあります)で、枡形虎口は最古の例では長享の乱(1489~1505)で築かれた関東の七沢城には付属していた模様です(「パーツから考える戦国期城郭論」)。
これを早すぎて形状も今城とは異なるタイプ例だとして、天文年間(1532~1555)頃とされる築城時にいきなり枡形虎口をつけるのは難しくても、小池氏が城をもっている間に「見せる設備」として枡形虎口を造るのは不可能ではなさそうに感じます。
(追記:「パーツから考える戦国期城郭論」を読み込むと枡形虎口を掘り込みタイプと土塁囲みタイプに分類していて、後者は1577の三崎城やその4年後の滝山城としていました。今城の枡形虎口を土塁囲みタイプだと判断できるなら――復元画ではそう描かれています――やはり小池氏に造ることは難しいかもしれません)
あと、小牧・長久手の戦いの時に、攻めてきた敵を枡形虎口で消耗させて尾根から逃げることを前提にした城に改修されたというのも考えましたが、その場合、五分あれば裏口に回れてしまう城なのでバカ正直に枡形虎口に敵が突っ込んできてくれるかは疑問です。
類似の森氏が改修したと考えられる城に大森城があり、こちらの尾根線への構えを比較すれば、もう少し考えが進むかもしれません。復元図で見た印象では今城よりは守りが堅いけれど、こちらも中途半端な感じはあります。
大森城にも機会を見つけて実際に行ってみたいところです。
実は自分が思ったほど尾根側への防御が弱くない可能性もあります。昔はもっと木がなかったでしょうから、見通しのいい尾根に登ってきたところを鉄砲で片っ端から撃ち倒す自信が守備側にあったのかもしれません。
尾根側の城外から今城を見た時に、下の曲輪の中が見えて鉄砲で撃てるかというのは、現地では気づかなかった重要なポイントで、自分が撮った写真と復元図でみた限りでは主郭と下の曲輪の土塁がうまく盾になっていて思うようには攻撃できない感じがします。
再訪することがあれば、そこに注意してみたいです。あと大看板の城絵図の出典を確認しておきたいところです。正保城絵図ではなさそうです。
きっと最初の印象に自分が囚われているだけで、専門家がしっかり考察したことが正解なんでしょうね。この城の縄張図を描いた研究者が一番よく考えられている人だろうと思います。
目的をもって本の特定部分を調べるのは面白かったです。変遷を明らかにするためにも、いつか今城の発掘調査をしてほしいものです。
もしも自分が今城を改造するなら、やっぱり尾根線の遮断を強化したいです。そもそも規模が小さいので尾根側に曲輪を増やしていくのもあり。それが本丸の縦深を増やして防御にも繋がります(大きな看板の城絵図の写真を確認したら尾根上に小さな出丸があるとされていました)。
逆に小さすぎると割り切って、枡形虎口すら造らずに見張り台に徹して労力を投じないのもありかもしれません。小牧・長久手の戦い時に守備を任された人々が、あまり計画性なく枡形虎口を造ったという解釈もありえるのでしょうか。
それなら個人的には納得できそうです。
土塁などの遺構はとても良く残っていて、小規模なだけに全体像の掴みやすい山城でした。駐車できる今公民館から少し歩く必要はありますが、高低差も大きくないので山城の入門にもいいと思います。
帰路に畑仕事をしていた人の白い犬と小池さん宅の犬に吠えられて、彼らが城を守っていた武士の遺志を継いでいるように感じました。
今城の麓付近は小さな城下町っぽい雰囲気があり、少し離れた田畑には谷地田っぽさがあります(谷地田というには少し開けすぎているかもしれません)。
当時から大きく変わってなさそうな景色をみて小池氏が「ここを俺のものにするんだ!」と決意した感覚がなんとなくイメージできました。
追記
地元の人に尾根線の堀が昔はもっと深かったと聞き取りしたブログの記事を見つけました。http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-category-12-1.html
米軍の空中写真で昔の地形を見れないかと調べました。1963年頃の写真はあって尾根線に段々畑(果樹園?)があって、今よりも城の南側の輪郭がくっきりした感じです(堀が深いかまでは読み取れず)。1975年頃の空中写真だとほとんど木々に呑まれています。
追記2
ぎふ森林情報WebMAP https://www.forest.rd.pref.gifu.lg.jp/shiyou/sinrinwebmap.html で今城を確認したところ、わかりにくくなっている堀のエッジがみえました。ツールで測定すると尾根の竪堀は幅6~7メートルあり、東側にも竪堀らしい痕跡が確認できました。
「パーツから考える戦国期城郭論」では織豊系の陣城や付城に造られた堀の幅は6~7メートルしかないとしているので、極端に小さいものではなさそうです。
現状は食い違い虎口から堀底に出てしまいますが、往時は両側が竪堀で狭められた土橋になっていたのでしょう。それっぽいクランクした地形も見えましたが、そこに繋げられるのかは保留しておきます。
追記3
「東海の名城を歩く 岐阜編」にて現在の今城登城路は近世後期の絵図にもとづき整備されたため、元の虎口ではなく、現在の位置を通っているとの説明がありました。整備前の状況に従ってそのままにしたとか、枡形虎口側が私有地なので出入り口にするのを回避したとかの理由ではなく、根拠とした絵図を寄せていたのは少し意外でした。
参考文献:
可児市の今城パンフレット https://www.city.kani.lg.jp/secure/10134/imajou.pdf
可児市の大森城パンフレット https://www.city.kani.lg.jp/secure/10134/oomorijou.pdf
岐阜の山城ベスト50を歩く 三宅唯美・中井均 2010年
パーツから考える戦国期城郭論 西股総生 2021年
追記分参考文献:
久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/
ウェブで過去の地形図や空中写真を見る (Leaflet版) https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/lmap.html?ll=35.380196,137.051276&z=18&data=history&t=gsiortold10
東海の名城を歩く 岐阜編 中井均・内堀信雄 2019年
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