聖女様が忘れた時
寿々乃夕(すずのゆう)
第1話 出会い
真知子は四十一歳の主婦だった。
早くに結婚し、子育てとパート勤めに追われてきた日々。キャリアも学歴も誇れるものはないが、それでも家庭は円満で、夫とも温かく穏やかな関係を築いていた。二人の息子はそれぞれ大学生と高校生で、家の中は日々にぎやかだった。親として少しずつ自立を見守る時期に差し掛かっていたが、まだ手を離すには早く、家族と共に過ごす時間の尊さを感じていた。
しかし、ある日――突然の交通事故が彼女を襲った。
気がつくと、見知らぬ森に立っていた。
「……なんか、変な世界に迷い込んだ?」
自分の住み慣れた町とは明らかに違う木々と空気。春の夕方の風はまだ少し冷たく、湿った香りが頬をなで、土の匂いが鼻先をかすめる。夢だろう。と思った。
「お待ちください、聖女様!」
後ろから必死に呼びかけてくる男の声に、真知子は思わず駆け出した。
自分でもなぜか分からないが、立ち止まってはいけない気がして、無我夢中で森の深くまで入っていった。
足元で小枝がぱきぱきと音を立てる。ひんやりと湿った落ち葉が靴にまとわりつき、喉は渇き、息が苦しい。
――あぁ、水が飲みたい……
そう思った瞬間、バシャーンと大きな水音とともに、身体は湖に投げ出された。
白いTシャツとジーンズは瞬く間に重さを増し、沈み込んでいく。力が入らず、視界が暗くなる。冷たい水が肌を刺し、息が苦しくなる。
その時、誰かの腕に抱え上げられ、水面へと引き上げられた。
「大丈夫か!」
かすかに耳に届いた声を最後に、真知子の意識は途切れた。
次に目を覚ましたとき、暖炉のはぜる音と、オレンジ色の光がぼんやりと目に入った。
外はすっかり夜になっており、窓の外には春の夜霧がうっすらと漂っている。昼間の暖かさが嘘のように、ひやりとした空気が小屋の隙間から忍び込んでいた。
夢にしては妙に生々しい感覚。手に力を込めてみると、痺れて鈍い反応しか返ってこない。何枚か重ねた毛布の感触と、微かに焦げた薪の匂いが、現実感を増していた。
低い声が耳に届いた。
「……起きたのか?」
湖から助けてくれたらしい青年が、横たわるベッドのそばに立っていた。年は自分の息子と同じくらいか、それより少し若いだろうか。
濡れた長い髪が肩に垂れ、揺れるたびに顔をかすかに覆う。無造作にかき上げられた髪は、放浪者のようでありながら、どこか少年らしい不器用さを残していた。
彼は銀のカップに暖炉で沸かした湯を注ぎ、「飲むか?」と差し出してきた。湯気の香りが、わずかにハーブのような清涼感を帯びていた。
「ありがとう……」
身体を起こそうとした瞬間、掛けられていた毛布がずり落ち、真知子は思わず声を上げる。
「きゃ……! あ、あの、私の服は……?」
慌てて毛布で上半身を隠すと、青年は気まずそうに視線を逸らした。
「いま干してる。……それまで、これを着てくれ」
彼女に二まわりほど大きなシャツを差し出し、青年は片手で目を覆った。
着替えを終えた真知子は、改めて銀のカップを受け取った。湯気が指先を温め、口に含むと、清涼感が鼻を抜ける。
「……ミントティー、みたい」
ひと息ついた瞬間、銀カップに映る自分の姿を見て凍りついた。
そこにいたのは、栗色の髪と瞳を持つ、十八歳ほどの少女。頬も、肌も、まるで若返ったかのように瑞々しい。
青年は黙って、対になる銀のソーサーを手渡してくる。震える手で覗き込むと、やはりそこに映っているのはアラフォーの自分でも、若き日の自分ではなく、知らない少女だった。
「わたし……どういうこと……?」
夢、夢だからよね?混乱している真知子に、青年はしばし躊躇した後、静かに口を開いた。
「――転生した者は“聖女”と呼ばれる。この世界で人々を癒し、時に奇跡を起こす存在だ、君は聖女か?」
真知子は息をのんだ。聖女?自分が?
聖女の力は……ただ祈るだけでなく、人との深い結びつきによって増幅する。古い文献を思い出しながら、青年の瞳は炎に照らされ、どこか憂いを帯びていた。
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