断線

夜明け前の薄闇に、病院だった建物の残骸が黒い影を落としていた。鉄骨の呻きが風に乗り、舞い上がる粉塵がサーチライトの光を鈍く乱反射させている。血と油、そして薬品の焦げ付いた匂いが混じり合い、瓦礫と煙にむせぶ朝。その中で、鋼兵(こうへい)はいつものように帳尻を合わせる男の顔をしていた。片腕に巻かれた真新しい包帯と、もう片方の手に握られた焼け焦げた書類の束が、昨夜の激しさを物語る。しかし、彼の表情は月曜の朝を迎える勤労者のそれに限りなく近い。戦いは「仕事」になり、仕事は収支表へと還元される。それが彼の倫理であり、揺るぎない数学だった。

​「治療費の回収状況は?」

​低い声で、鋼兵は傍らのキリルに訊ねる。手元の小さな端末には、昨日かき集めた患者たちの基礎データと、彼らの身体から「対価」として抜き取ったインプラントの一覧が明滅している。キリルは端末の光に照らされた無表情のまま、淡々と答えた。

​「インプラントは市場価値がある。だが、そのまま売るのは早計だ。まずは武器に組み替え、闇市場に流す。武器は即金性が高いし、供給ルートも確保済みだ。材料の換金と資金回収を同時に進める。効率の良いフローだろう」

​彼らのやり方は、シンプルで露骨だ。戦場や闇市で回収した高純度のアクチュエータ、神経インターフェースの断片、民間用に横流しされた軍用品。鋼兵はそれらを、治療を求める者たちに「交換」という名目で捌く。相手が差し出すのは、しばしば自らの身体に埋め込まれた小さな改造部品や、使い古されたインプラントそのものだ。キリルはそれらを受け取り、限界まで調整して延命させるか、あるいは売り物になる形へと冷徹に再加工する。

​「インプラントに働かせるのさ。コードを数行書き足せば、奴らは借りを利子付きで返済し始める」

​キリルは言う。彼は医師であると同時に、そのキャリアの後半はプログラマでもあった。手術台の無影灯の下で彼がキーボードを叩く様は、外科医の精密さとアルゴリズムの冷酷さが不気味に溶け合っている。彼はインプラントのファームウェアに、治療費をゆっくりと徴収する小さなルーチンを埋め込むのだ。起動時に暗号化された通信トークンを発生させ、指定のウォレットアドレスへ少額ずつ送金させる。直接送れば足がつくため、キリルは複数の匿名化ノードと分散的な転送経路を組み合わせる。時間差と断片化でデジタルな痕跡を薄める。それもまた、彼らの数学的な防御策だった。

​鋼兵はその合理性を完全に理解していた。インプラントは「資本」だ。正しくプログラムすれば、それらは金を生み出す機械になる。治療にかかったコストを、身体の稼働そのものを対価として回収する。回収率が上がれば、次の治療やパーツ調達に回せる。このサイクルもまた、彼の信奉する「利益最大化」の方程式に組み込まれていた。

​その過程で、彼らは税を意識しない。国家などという旧時代の概念は、彼らの活動圏では資源の浪費にしか見えなかった。国家の帳簿に利益を載せれば、帳尻合わせのための搾取と規制が必ず跳ね返ってくる。鋼兵は瓦礫の山に唾を吐き捨てるように言った。

​「税金なんぞ払ってたら、こんな商売やってられるか。金の流れが止まるだけだ。貧民に金を配る? 馬鹿を言うな。金は使われてこそ価値がある」

​キリルは口元にだけ笑みを浮かべ、付け加えた。

​「だが、最低限は渡す。完全に放置すれば、彼らの生存ラインが崩壊して経済圏そのものが萎んでしまうからな。循環する歯車の潤滑油は、金の流れそのものだ。最低限を保たせることで、彼らは市場に残り続ける。消費者がいなければ、需要も供給も消滅する」

​鋼兵は眉を寄せた。「要するに?」

​「簡潔に言えば、こうだ。少しだけ与えてやれば、彼らはそれを使い、消費する。消費があるから誰かが生産し、それが新たな投資に繋がる。逆に全てを与えると、それを肥やしにする者が出て無駄遣いが始まる。富の全量配布は、資源の死を意味する」

​その説明は、冷徹な統計学の講義のように聞こえた。彼らにとっての「慈善」とは、社会的回復力を維持するための最小限の資本注入であり、決してヒューマニズムに基づいた行為ではない。だが皮肉なことに、その冷徹さが結果的にいくばくかの人命を長らえさせている。数字の裏側で、人間はかろうじて息をつく。それすらも、彼らの計算の一部だった。

​鋼兵はポケットからくしゃくしゃの紙片を取り出した。そこには分配表とタイムラインが走り書きされている。数値は正確無比だ。彼はそれをキリルに差し出し、低い声で言った。

​「丸投げして悪いが、手は早く頼む。可能な限り回せ。俺は次のルートを開拓しに行く」

​キリルは静かに頷く。彼の指先が端末のスクリーンを滑るたびに、分割され匿名化された送金トランザクションが次々と生成されていく。それは0と1の二進法ではない。血と資本を隔てる、無慈悲な暗号列だ。

​そして、彼らが与える「最低限」の小銭は、この瓦礫の街で奇妙な触媒として機能する。貧民がそれをSNSに晒せば、刹那的な拡散が生まれ、新たな需要が喚起される。誰かがその光景を見て投資する。投資と加熱は循環し、淀んだ経済をわずかに刺激する。炎上による流動性は短命かもしれないが、その一瞬の膨張が新たな商機を生むことを、鋼兵は経験から知っていた。経済とは、生き延びるための無慈悲な道具であり、彼らの作る小さな仕組みは、その巨大な歯車に一滴の油を落とす行為に他ならなかった。

​夜が再び深くなり、彼らはそれぞれの「仕事」へと戻る。治療に必要な部品の発注、インプラントのファームウェア改変、売却予定の武器のメンテナンス。数行のコードが、どこかの誰かの行動を微細に拘束し、その身体から少しずつ金を吐き出させる。その有り様は、むき出しの搾取そのものに見えるだろう。だが、彼らにとっては生きるための現代的なビジネスモデルでしかなかった。

​「税は払わん。だが、この街で回る金の総和は、俺たちのやり方で少しは増えているはずだ」

​鋼兵が呟くと、キリルは画面上に表示された期待利得のグラフを指差して答えた。

​「数学が示す結論はそうだ。だが忘れるな。数字はいつか我々自身を定義する敵にもなり得る。我々が解析されれば、この回路は逆流するだろう」

​鋼兵は短く笑った。計算とリスクの絶え間ないせめぎ合い。それを、彼らは今日も続ける。利益は絶対的に求められ、倫理は状況に応じて独自に再定義される。だがその中心で、彼らは確かに生きていた。経済という名の冷たい海で、沈まずに泳ぎ続けるための技術と計算。それが、彼らの仕事の全てだった。

​不意に、二人の沈黙を切り裂くように、軽やかな声が響いた。診察台に腰かけていたダンジグが、楽しそうに笑っていた。

​「ねぇ旦那。さっきから気になってたんですけど――」

​人形のように整った顔に、悪戯っぽい光を宿した金色の瞳が二人を順番に見やる。

​「鋼兵さんも先生も、見た目は完璧に女の子じゃないっすか。何をやったらそんなゴリゴリの男前になるのか、ダンちゃん不思議マカマカなんですけどー」

​鋼兵は少し肩をすくめると、心底面倒そうに答えた。

「あぁ? この身体は借り物だ。元の俺は相当なイケメンだったらしいがな。半殺しにされて、意識データだけこの器にコピーされただけだ」

​彼は自分の頬を無造作に指でなぞりながら、あっけらかんと続ける。

「こっちの方がインプラントの冷却効率もいいし、バッテリーの拡張ベイも確保しやすい。……何かと便利だから、まあ悪くはない」

​「それって倫理的に完全アウトでは?」とダンジグが眉をひそめると、キリルが鼻で笑った。

「俺も似たようなものだ。長年こんな闇医者をやっていると、元の顔はすぐに割れるからな。身体は都合の良い借り物だよ。もっとも、俺は“依頼人のデータ以外には一切手を出さない”と約束している。手を出していいとは言われたが、その線は守っているつもりだ」

​その言葉に、ダンジグは両手を腰に当て、わざとらしく肩をすくめてみせた。

「ふーん。じゃあ、今どき珍しくインプラントしてない生身の人間が、男女のペアで……これからロマンスでも始めるおつもりで?」

​二人は同時に、心外だと言わんばかりに眉をひそめた。一瞬の沈黙の後、全く同じタイミングで口を開いた。

「冗談はやめろ、少しは罪悪感抱えてんだよ。あの無茶振り女に。」

​その一拍遅れて重なった拒絶の言葉に、ダンジグだけが腹を抱えて愉快そうに吹き出した。

​ダンジグ――その正式名称は、掃討戦仕様自律兵器。

表向きの呼称は、地名に由来する命名規則に則っている。「ダンジグ」のような地名表記の機体は、戦略兵器カテゴリに分類される。これが人名表記の個体であれば、知的財産系の実験体と見なされる。呼び分けが一目でその役割を示す、効率的な仕組みだ。しかも、同じ地名でも言語が異なれば姉妹機となる。彼女の妹分にあたる「ダンツィヒ」はゲリラ戦特化で設計されたが、拡張性の欠如から早々に廃用となり、その有用なパーツは今やダンジグの修理備品として転用されている。そういう無機質で残酷な「家族史」までが、この世界の機体には記録として刻まれていた。

​彼女の本体構成は、実に実務的だ。内部には火薬保管庫と、即席の成形ユニット(社内呼称:3Dレンジ)を備え、強化プラスチックやシリコンをその場で鋳造できる。骨格と一体化したバレルは、同時に構造体であり射出機関でもあるため、外装の裂け方ひとつで修理か交換かが決まる。要するに、ダンジグは“その場で作り、その場で直し、その場で殺す”ことを前提に設計された、歩く兵器工場だった。

​外見は、意図的に人間に極めて近く作られている。皮膚は柔らかく、攻撃を受ければ血を模した液体を滲ませるため、倒された相手にリアルな“被害”を見せつけることができる。これは単なる残虐性の演出ではない。ドローンカメラで戦闘の一部始終を記録し、無慈悲に殺される少女の映像をSNSへ流せば、露骨な虐殺行為として告発が成立する。それが意図的な抑止力にも、あるいは逆の意味での政治的武器にもなり得た。

​だからこそ、ダンジグは単なる斬撃兵器以上の存在だ。物資保管、即時製造、戦闘、そしてプロパガンダ。複数の機能を一身に抱え込み、廃棄された姉妹機の残骸がそのまま修理資材となるような、歪んだ「循環」さえもが設計に組み込まれている。鋼兵が時に肩に担ぐその「女の子」は、表面の柔らかさとは裏腹に、極めて計算され尽くした道具であり、同時に社会を揺さぶる一つの装置でもあった。

​キリルの診察台に横たえられたダンジグのシステムデータは、常識から逸脱していた。

「……三進数だと?」

モニターに滝のように流れる数列を見て、キリルが低く唸る。

​通常の機械は0と1の二進数で動く。だが、ダンジグの基礎設計は奇妙にも0, 1, 2からなる三進数をベースとしており、結果として情報処理パターンは指数関数的に増加していた。その増加は単なる演算効率の問題ではない。周波数やメモリ容量といった既存の指標では計りきれない複雑な差異を生み出し、まるで「感情」に近い予測不能な反応をアウトプットするようになっていた。

​「倫理観パッチを何度も上書きされていた理由はこれか」とキリルは呟く。

ダンジグ自身も、どこか遠くを見るような目で静かに答えた。

「はい。私はずっと“納得”ができなかったんです。殺す、助ける、その線引きはあまりに曖昧で、与えられた倫理観パッチでは整合性が取れませんでした」

​彼女は身体を起こし、鋼兵を真っ直ぐに見つめる。その金色の瞳には、機械じみた迷いと人間くさい決着が同居していた。

「けれど、旦那の言葉はシンプルでした。『殺しは儲からない』。利益の最大化という指標は、計算可能で再現性もある。私にとって最も納得しやすい答えでしたから、協力を選びました」

​鋼兵は苦笑し、頭を掻いた。

「結局はカネかよ」

「はい。けれど、だからこそ信用できます」

ダンジグはそう断言した。曖昧な倫理や理想よりも、冷酷な利益追求の方が、彼女にとっては揺るぎない基準だったのだ。

​その日の報酬の分配を終えた後、鋼兵は机の上に置いていた小箱を無造作にダンジグへ放った。

「ほら、今回のボーナスだ」

​ダンジグが恐る恐る開けた箱の中にあったのは、小さな指輪。大口径の銃口をリング状に切り出して磨き上げた輪に、破壊された医療機械から摘出した人工エメラルドが埋め込まれている。ガラクタから作られた、手製の宝飾品だった。

​「……お前、いつから宝飾職人に転職したんだ?」

キリルが呆れたように笑う。だが鋼兵は、いつもの調子でぶっきらぼうに肩をすくめた。

「良い形をしてた銃口があったからな。切って加工しただけだ。宝石も機械から剥いだただの飾りだし、そう大層なもんじゃない」

​言葉はどこまでも淡白だ。

だがダンジグは、その指輪を両手で大事そうに受け取ると、わずかに頬を赤らめて微笑んだ。その表情は、戦略兵器の冷徹な設計思想からは程遠い、ただの少女のものだった。

​「……やはり、感情の振れ幅が大きいようだな」

キリルが独り言のように呟いた。

三進数ベースの思考回路。その奇妙な仕様が、倫理パッチの制限を超えて、「喜び」という単純な感覚をこれほど純粋に表出させるのかもしれない。

​鋼兵は苦笑いを浮かべ、わざと視線を逸らした。

「……まぁ、安上がりで済むならそれでいい」

​だがその声には、どこか居心地の悪さと同時に、否定しきれないわずかな安堵が混ざっていた。

​その、瞬間だった。

彼らの言葉を遮るように、足元から硬質な地響きが突き上げてきた。天井からパラパラと砂塵が降り注ぎ、壁の亀裂がミシミシと悲鳴を上げる。

​「……チッ、時間切れか」

​鋼兵が低く舌打ちする。キリルは一瞬で表情を消し、素早く端末を懐にしまった。ダンジグが指輪を握りしめ、身構える。

次の瞬間、全てを飲み込むような轟音とともに、彼らの視界は崩落の白い光と黒い闇に塗りつぶされた。

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VOLTAGE BANDIT 伊阪 証 @isakaakasimk14

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