Alouette

宵宮祀花

飛べない雲雀

 思い出すのは、誰かの叫び声。名前を呼んでいる悲鳴じみた声。雷鳴にも似た音が固く繋いでいた手を引き裂こうとした、あの日の記憶。


「――――ッ!」


 勢いよく跳ね起き、虚ろな視線をまだ薄暗い室内に投げ出したまま浅く荒い呼吸を繰り返す。冷たい汗が額や背中を伝い、胸の内側から激しく叩き付けてくるうるさい心臓からさえも熱を奪っていく。


「リュゼ」


 名前を呼ぶ声にリュゼが弾かれたように振り返ると、隣で寝ていたアルエットが、心配そうな表情でリュゼに手を伸ばしていた。


「リュゼ、どうしたの……?」

「……何でもない。ちょっと、夢見が悪かっただけ、だから……」


 青白い顔でやっとといった様子で答えるリュゼを、綺麗なペリドットの瞳がじっと見つめる。呼吸が落ち着いてきても冷え切った体温までは戻らない。それを理解しているかのように、アルエットの手がリュゼの背中に添えられた。


「リュゼ、無理しないで」


 アルエットがリュゼを気遣う度、リュゼは鮮明に悪夢を思い出す。

 ひとりになるかもしれなかった出来事は、紛れもなく現実なのだけれど。

 言葉にするに値しない想いを、リュゼは深い溜め息に変えて夜闇に吐き出した。


「ほんとに、へいき。アルエットがそばにいてくれれば、それで……」

「うん、いるよ。僕はどこにも行けやしないのに、そんなこと心配していたの」


 そう言ってアルエットが笑う。自嘲も自虐も含まない無邪気な微笑みで、リュゼを棘ごと包み込む。


「っ……アルエットがどこにも行けないのは、僕が」

「リュゼ」


 少し不機嫌そうな声で咎められ、吐き出すはずだった言葉を寸前で飲み込む。

 そしていつもの綺麗な微笑みを向けられると、飲み込んだはずの言葉が綺麗に霧消してしまうのだ。


「もう寝よう? くっついて寝たら悪い夢も見ないよ、きっと」


 夜着の裾を引かれるまま横になり、アルエットの細い体を抱きしめた。やわらかな金髪が頬に当たり、胸元にリュゼより少し高い体温が寄り添う。


「おやすみ、リュゼ」

「おやすみ、アルエット」


 上半身だけを軽くひねって頬を寄せるアルエットの髪を撫でながら、リュゼは再び眠りに落ちていった。

 リュゼが静かな寝息を立て始めたのを腕の中で聞きながら、アルエットは薄掛けの中を探り自身の脚を擦った。触れているはずなのに殆どなにも感じない。マネキンを撫でているような、薄い膜越しに触れているような、鈍い違和感。


「大丈夫……ずっと、そばにいるよ」


 幸せそうに微笑み、眠るリュゼにそう囁くと、アルエットも眠りについた。


 あれからリュゼは本当に悪夢に魘されることなく朝を迎えることが出来たようで、眠い目を擦りながら体を起こすと、まだ眠っているアルエットの髪を撫でた。

 なかなか起きないのをいいことに暫く朝日に輝くやわらかな金髪で遊んでいると、ふいにリュゼの手首が掴まれた。


「つかまえた」


 くすくす笑いながら、アルエットが寝起き特有のとろけた眼差しで見上げる。


「おはよう、アルエット」

「おはよう、リュゼ。ね、くっついて寝たら悪夢なんて見なかったでしょう?」

「うん、そうだね」


 嬉しそうに笑って言うアルエットに曖昧に笑い返し、リュゼはベッドから軽やかに飛び降りてクローゼットに向かった。観音開きの戸を開けた中には二人の服が並んで下げられている。サイズ違いのお揃いの服だ。

 あの日から二人は同じ格好を選び、同じ部屋で寝起きをしていた。


「アルエット、着替えるから布団退けて」

「はあい」


 ゆるゆると体を起こすとアルエットは布団を大きく横に退けた。小枝のように細い足が露わになり、血の気の感じられない肌が朝日に透けていっそう青白く映る。

 リュゼはアルエットの両足を抱えてベッドサイドに向け、そっと床へ下ろすと薄い夜着の下を脱がせるために腰を支えて僅かに持ち上げた。その隙にアルエットが下を脱いで、床にそのまま落とす。

 床に纏まっている夜着を引き抜くと、リュゼは手慣れた様子で上等な厚手の生地で出来たパンツを穿かせた。


「ありがとう、リュゼ」


 あの日から毎日していることだ。こんなのは罪滅ぼしにもならない、やって当然のことなのに、アルエットは毎日輝くような笑顔でお礼を言う。

 その純粋な笑みの前では、どんな言い訳も意味を失ってしまう。

 アルエットに揃いのシャツを渡すと自分の着替えも済ませ、リュゼは部屋の隅から車椅子を押してベッドの傍に付けた。

 それを見てアルエットが自力で車椅子に移ろうとすると、リュゼが慌てて駆け寄りアルエットの体を支えた。


「これくらい、ひとりでも出来るよ」

「だめだよ。また落ちて怪我したらどうするの」


 リュゼは繊細なガラスで出来た人形でも扱うように優しく車椅子に座らせて、その優しさに反した力強い腕でアルエットを抱きしめ、縋るように細い肩に顔を埋めた。紅茶色した天然の巻き毛がアルエットの丸い碧玉の片隅に映る。


「リュゼは心配性だね。仮に車椅子にひとりで乗れるようになったとして、着替えもまともに出来ない僕が君を置いてどこかへ行くはずがないのに」


 宥める手つきで、アルエットの手がリュゼの背中を撫で擦る。


「それでも、万一があったら僕が耐えられない」

「ふふ、わかったよ」


 しあわせそうに笑いながら頷くアルエットに、リュゼも安心したように体を離すと布団を整えて車椅子の後ろに立った。


「アルエット、今日はピアノを聞かせてくれるの?」

「ええ、また聞きたいの? リュゼも飽きないね」


 言葉に反してアルエットの声は嬉しそうに弾んでいる。それをわかっているから、リュゼも引かずに押し通す。


「アルエットの指先が魔法みたいに動くのを見てるのが楽しいんだもの。僕に音楽の良し悪しはわからないけど、アルエットのピアノは好きだよ」

「もう、そこまで言われたら断れないじゃない」

「決まりだね」


 最初から譲る気などなかったという本音は胸にしまったままうれしそうに言うと、リュゼは寝室を出て音楽室に向かった。


 アルエットとリュゼは街一番の貿易商の息子で、いま二人が住んでいるこの屋敷も両親と住んでいた場所だった。しかしあの日を境に両親は商売の拠点を外国に移し、不自由な体を持った息子は、世話役の息子と共に屋敷に残ることとなった。

 世間はあからさまに障害のせいで見捨てられたアルエットに同情の目を向けたが、アルエットは心からしあわせだった。


 ――――あの日の、あのときから、ずっと。


 記憶の中にある運命の日も、今日のように良く晴れていた。

 リュゼとアルエットは、街外れの廃洋館に来ていた。お伽噺で見た魔女でも住んでいそうな陰鬱とした佇まいに一瞬足が止まったが、互いに顔を見合わせるとすっかり役目を果たさなくなった鉄柵の門を潜った。

 高く澄んだ冬の青空の下でも妙に雰囲気のある館に怯えるアルエットの手を引き、リュゼが片側が外れかかった玄関扉の隙間から侵入していく。玄関ポーチに散乱していた硝子片がドアベル代わりにくしゃりと鳴って、二人の訪れを無人の館に伝えた。

 一歩中に入ると土埃で汚れた窓が光を遮っており、室内は外の明るさが嘘のように薄暗い。破れたカーテンやシミだらけの絨毯、埃まみれの絵画や蜘蛛の巣で飾られたシャンデリアが出迎え、時折立て付けの悪い扉が風に軋む音を立てて二人を嘲笑う。ロビー正面の大階段は、人が住んでいたころはさぞ立派だっただろうといまでも想像させる作りをしていた。


「きっと、凄い貴族が住んでいたんだろうなぁ……僕たちの屋敷も無駄に広いけど、ここはいかにも貴族の住処って感じ」

「リュゼ……待って、早いよ」


 辺りを見回しつつ感嘆の声を漏らすリュゼの腕にしがみつきながら、アルエットが怯えを露わに訴える。しかし、リュゼは僅かに歩調を緩めはしたものの、足を止めることなく大階段に向かい、白い埃の積もった緋色の絨毯を踏みしめて上がって行ってしまう。

 お化け屋敷のような建物よりも、リュゼと離れて独りになるほうが、ずっと怖い。

 怖いから先に外へ出て待っているという選択肢など頭にないアルエットは、必死にリュゼについていく。大階段を上り切り、左右を確かめたリュゼは左側突き当たりの扉が開いていることに気付くとそちらを目指して歩き出した。


「わあ……! 凄い、こんな部屋があるんだ」


 扉を抜けた先は家具を退ければパーティー会場にもなりそうな広さの寝室だった。置かれている鏡台やベッドなどの家具から、夫人の寝室だったのだろうと思われる。


「中は殆ど昔のまま残ってるね。デザインが古いから昔のものだってわかるけれど、流行を気にしなかったら埃を払えば普通に使えそう」

「僕には、いまでも誰かが使っているみたいに見えるよ……」


 博物館でも見るかのように目を輝かせているリュゼに対し、アルエットは部屋中に残る当時の生活感に妙な生々しさを覚えて背筋を冷たくしていた。


「アルエット、テラスがあるよ。あそこなら明るいから怖くないんじゃないかな」


 リュゼが駆け出す。

 一瞬だった。手が離れ、慌てて追いかけようとしたアルエットの目にとんでもないものが映った。目の錯覚かとも思った。外の風景と照らし合わせて見てもその状態は明らかにおかしかった。テラスの手すりが、床ごと大きく左に傾いているのだ。

 それなのに、リュゼは異変に全く気付いていない様子で向かっていく。

 あのままいけばどうなるかなど、結末は一つしかないに決まっている。

 迷いは、一瞬だってなかった。


「リュゼ、そっちはだめ!」

「え……?」


 泣きそうな声と共に、力強く腕を引かれた。埃っぽい絨毯に尻もちをついたと理解した直後、アルエットが視界から消えていった。

 ガラガラと、大きなものが崩れる雷鳴にも似た音が二人を引き裂き、アルエットを飲み込んでいく。

 どれくらいそうしていたのか。

 リュゼはハッとして顔を上げると根こそぎ落ちたテラスの際まで行き、膝をついて恐る恐るアルエットがいるであろう場所を見下ろした。


「あ……アルエット!」


 真下にはテラスの残骸に埋もれて横たわる、赤く濡れたアルエットの姿があった。

 それからどうやって助かったのか。リュゼの記憶は判然としない。

 ただ、はっきりと覚えているのは、母親が投げつけた悲鳴じみた言葉だけ。


『どうしてアルエットが! あなたが落ちればよかったのに、どうして!』


 喚いて泣き崩れる母親を父親が肩を支えながら連れ出していく。その間際に父親が寄越した眼差しも、リュゼを強く責めていた。わざわざ口にしないだけで、本心では母親と同じことを思っているのだろうとわかる、非難の眼差しだった。

 診療所のベッド脇で、リュゼは意識のないアルエットの青白い顔を呆然と見つめている。担当した医師によれば、腰の骨を折ったときに神経まで壊してしまったため、二度と歩くことは出来ないだろうとのことだった。


 ヒステリーを起こした母親はあれからひどく気を病み、アルエットの見舞いにすら来なくなった。バレエやピアノ、ヴァイオリンなど様々な習い事をさせて、手の中の玉のように大事に育てて来た息子が血塗れで病院に運び込まれた挙句、下半身不随になったと言い渡されたのだ。よりにもよって、死別した前妻の面影を残す忌々しい子などを助けたりしたせいで。

 日頃から言われていたことだから今更なにを言われても傷ついたりしない。両親は元々美しい金髪とペリドットの瞳を持つアルエットしか愛していなかった。癖のある赤毛と灰交じりの蒼い目を持つ遺児のリュゼは、名を呼ばれた記憶すらない。


「アルエット……僕だけは、アルエットを見捨てたりしないから」


 点滴の繋がった白い手を握り、祈るように額に押し付けて目を閉じる。

 薄く開いた窓から吹き込む微風が僅かに冷たくなりだした頃。

 ピクリとアルエットの手が震え、リュゼの手を握った。――――瞬間、待ち惚けて眠りかけていた意識が、一気に覚醒した。


「アルエット!」


 慌てて両手で握り、縋るような声で名前を叫ぶ。やがて、人形のように深く眠っていたアルエットの瞼がゆるりと開くと、視点の定まらないぼんやりとろけた眼差しがリュゼを捉え、ふわりと微笑んだ。


「リュゼ、けがはしてない……?」


 大怪我による意識不明から目覚めた第一声が、リュゼへの気遣いだなんて。自分がいまどんな有様なのか把握していないせいもあるのだろうが、それでもリュゼの心を打ち砕くには十分だった。


「アルエット……ごめん……僕のせいで……」


 ぼろぼろと涙を流し、アルエットの手を握り締めて懺悔するリュゼにアルエットは綺麗に微笑んでこう言った。


「これで、ずっと一緒にいられるね」


 リュゼは目を瞠り、アルエットを見つめた。とろけるような、しあわせそうな顔でリュゼの手を握り返しているアルエットに、強がっている様子は見られない。意識を取り戻したばかりの声は普段の寝起き以上に掠れているものの、鈴のような美しさは損なわれていなかった。


「そう、だね……」


 涙でぐしゃぐしゃな顔のままぎこちなく笑い返すと、リュゼはアルエットの小さな手を頬に添えて頷いた。


「どうせ、あの人たちは僕を見捨てたのでしょう?」

「聞こえてたの……?」


 驚いて聞き返すリュゼに、アルエットは「やっぱり」と言って笑った。


「わかっていたことだから。それより僕は、リュゼと離れ離れになるのが嫌だった。音楽留学なんて望んでいないのに勝手に決められて、リュゼと引き離されるだなんて耐えられなかった……だからリュゼは、全部僕のせいにしていいんだよ。あの二人が君になにを言ったのかなんて、聞かなくてもわかるから」


 一息にそこまで言うと、アルエットは体を起こそうとした。しかし、数日間眠っていた体は思うように動かず、頭を僅かに浮かせただけで枕に沈んでしまった。


「アルエットは悪くないよ。君が落ちてしまったのは、僕がよく見ていなかったせいだもの。ねえ、それより体のことは……」

「うん、わかるよ。全然感覚がないの」


 恐る恐る尋ねたリュゼに意にも介さない様子で答えると、アルエットは腕に繋がる点滴を引き抜いて煩わしそうに放り出した。


「えっ、取っちゃっていいの?」

「ただの栄養剤だもの、目覚めたんだからもういらないよ」


 動きを確かめるように、点滴から解放された手を握ったり開いたりして、その手を傍で見守っているリュゼの頬に添える。

 リュゼの体は暖かい病室にいたはずなのに不自然なほど冷えていて、アルエットは頬から首筋へ手を滑らせるとその細腕からは考えられない力でベッドに引き寄せた。


「アルエット……?」


 顔の両側に手をついて、必死にアルエットを潰してしまわないようにするリュゼの気遣いをも引き込むように、アルエットは意識不明の状態から目覚めたばかりだとは思えない力強さでリュゼを抱きしめる。


「ほんとは、硝子でちょっと怪我するだけのつもりだった。完璧な子じゃなくなれば彼らは興味を無くすから。でも、いまはこれで良かったと思ってる」

「どうして……」

「だって僕が動けなくなったら、リュゼも僕のそばにいるしかないでしょう?」


 顔を上げ、鼻先がぶつかりそうな距離でアルエットを見る。母親がことあるごとにリュゼと比べては誇らしげに自慢していた天使のように美しく整った顔が、うっとりとろけてリュゼを見つめている。

 良く磨かれた宝石のような碧い瞳に見つめられているうちに、リュゼは心の奥底に押し込め隠していたものまで見透かされた心地になっていた。


「アルエット……僕が君を遠くへやらないためにあの屋敷で無茶なことをしたって、気付いていたんでしょう? テラスのことだって……」


 アルエットはなにも言わない。

 答えの代わりにリュゼの顔を引き寄せ、触れるだけの口づけをした。長い眠りから目覚めたばかりのアルエットも、そのあいだひたすら不安に苛まれていたリュゼも、どちらも乾いて色艶のない唇をしていたが、アルエットは甘い花蜜でも口にしたかのように桃色の舌を覗かせて自身の唇を舐めた。


「わかっていたから、リュゼを助けたんだよ。リュゼが怪我をしたってあの人たちは何とも感じないもの。それなら僕が落ちたほうが良かった。でもそのせいでリュゼがひどいことを言われる羽目になったのは、悪かったと思ってるけど……」

「そんなの、別に……いつものことだし」


 アルエットは微塵も責めてなどいないのにリュゼは目を合わせていられなくなり、消毒液の匂いがする布団に伏せた。添い寝の格好になりながら抱き合って、あの日の懺悔を零していく。


「ごめん……二階だから、きっと落ちてもひどいことにはならないだろうって思っていたんだ」

「僕も。まあ、僕は別にあのとき死んでも良かったけどね。だって君はすぐに追ってきてくれると信じていたし」

「そうだけど……どうせなら、死ぬ以外の自由も味わってみたいじゃない」


 平然と当然のように言うアルエットに、リュゼは脱力して起き上がることも忘れてアルエットの膝の上で唸った。


「それに、羽を毟ってしまえばどこにもいけなくなるから、それだけで十分だよ」

「ふふ、そんな歌があったね。僕たちの好きな歌だ」

「うん、いつか、こうなったらいいなって思いながら歌っていた歌だよ」

「叶ったね。叶えたって言ったほうがいいのかな」


 アルエットの細く白い喉が震え、病室内に懐かしい旋律が満ちる。少しだけ惨酷な子供の遊び歌。可愛いひばりの翼を、頭や首や足の羽を、全て毟ってしまう歌。


  * * *


 アルエットの白い指先がモノクロの鍵盤の上を軽やかに踊る。あの日に掠れた声で歌った童謡の旋律を明るく奏でている。

 ピアノに合わせてリュゼが歌うとアルエットは嬉しそうに目を細めて声を合わせ、弾む仕草で鍵盤を遊び始めた。母親が鋭い目つきで監視していたレッスンのときには一度だって見せたことのない輝く笑顔で、歌い奏でている。

 アルエットが心からの笑みを見せる相手は、大金をつぎ込んだ父でもなければ毎日毎晩どれほど想っているかを押しつけがましく語った母でもなく、自分だけだという事実が、リュゼの乾いた心を満たしていく。

 両親――特に母親はこの歌を野蛮だとひどく嫌っていたが、アルエットとリュゼは大好きだった。なにより自分たちを歌の雲雀に重ねて歌っていると、時間が止まっているかのように感じられた。二人きりの世界で、誰にも邪魔されずに好きな音を奏で歌を紡いでいられるしあわせを噛み締めながら、気が済むまで歌い続けた。


「ところでリュゼ、悪い夢って結局何だったの?」

「ええ、それをいま聞くの?」

「だって、僕のリュゼをいじめる夢魔がどんな姿をしているのか気になるんだもの。悪魔を退治するには、まずは正体を暴かなきゃ」


 どうにか話を逸らせないものかと逡巡したもののじっと二つの綺麗なペリドットに見つめられ、リュゼは観念したように溜め息を吐いた。

 アルエットの正面にしゃがんで、細い足に顎を乗せて膝枕のような格好になると、重い口を開いた。


「……あの人たちが、アルエットだけをつれて外国に移り住もうって話しているのを聞いた夜の夢だよ。離れたくなくて泣いていたのを、メイドたちは僕だけ差別されて悔しいんだって勘違いしていたようだけど」


 リュゼの言葉にアルエットは思わずといった様子で吹き出して、幼子のように声を上げて笑った。


「あははっ、変なの! リュゼも僕も、あの人たちの鬱陶しい愛情なんか一度だってほしがっていなかったのに! 彼らには僕が両親の寵愛を受けているしあわせな子に見えて、リュゼは愛してもらえない哀れな子に見えていたんだ?」

「そうらしいね」


 呆れを露わにリュゼが答えると、アルエットは一頻り笑ってから、目尻に浮かんだ涙を拭って深く溜め息を吐いた。


「あー、笑った! 僕がいつも誰を見ていたか、誰も知らなかったなんて」

「他の人なんかどうでもいいよ。僕だけはちゃんとわかっていたんだから」

「うん、そうだね」


 のろのろと体を起こし、アルエットの首に腕を絡ませる。

 アルエットはリュゼの腰を抱いて引き寄せ、目尻を下げて微笑んだ。


「ずっと、僕だけがアルエットを見ていたんだ。あの人たちのお人形にされていた、アルエットのことを」

「僕だって、ずっとリュゼのことだけを見ていたよ。君と過ごす時間を邪魔するあの人たちが、どれだけ煩わしかったか」


 額を合わせ、口元に笑みを引き、そっと唇を重ね合わせる。これまでも両親の目を盗んで何度となく重ねてきた行為だけれど、隠れる必要がないというだけで重苦しい灰雲が晴れたような心地だった。


「でもいまは、誰もいない。そうでしょう?」

「うん……あの人たちはもうどこにもいない。だからリュゼ、今更あんな人たち夢に見てやる必要もないんだよ」

「そう、だよね。気にしなくていいんだよね」


 噛み締めるように、言い聞かせるように繰り返し唱えるリュゼの唇をアルエットの指先が悪戯そうになぞった。


「もういいでしょ、僕を見てよ。どうでもいい人たちなんかじゃなく、僕だけを」

「ふふ、わかったよ」


 アルエットのふくれっ面を見て夢の両親にヤキモチを焼いているのだとわかると、リュゼは唇に触れている細く白い一指し指を口内に招き入れ、手首を掴んで唇の奥に閉じ込めた。舌を絡めて指を舐り、うっとりと目を細める。


「それ、美味しい?」

「ん……」


 暫く堪能して漸く解放した頃には、アルエットの白い指先はすっかり濡れていた。その指をアルエット自らも口に含み、にんまり笑って見せた。


「溶けちゃうかと思ったよ」

「アルエットの指を食べたら、僕にもあの魔法みたいな演奏が出来ないかなって」

「どうだろう。僕は別に食べられてもいいけど、君と歌えなくなるのは嫌だなぁ」

「じゃあ、指を食べるのは保留にしておく」


 代わりとでも言うかのように、リュゼは再びアルエットにキスをした。甘く濡れた唇の奥に秘められたやわらかな熱い舌に自身の舌を絡めて吸い付き、愛おしい想いを両手に乗せてアルエットの頬を包む。アルエットもリュゼの肩に縋りついて、懸命に応えた。


「……ねえ、こっちは食べてもいいんだよね?」

「うん……いいよ、リュゼ」


 口元に笑みを引き、リュゼはアルエットの唇に喰らいつく。

 羽を毟って地に縫い付けた、可愛い小鳥をそうするように。

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Alouette 宵宮祀花 @ambrosiaxxx

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